悠久の刻



大事なあの人が付けてくれた名前。
全てを失った後も、たった一つ、この胸に残ったもの。




空が赤く染まり、そしてその赤すらも色を失っていく。
何回も、何百回も、何万回も見てきた光景。
ここに閉じ込められてから、もうどれくらいの時間が過ぎたのかすら分からない。
数える事も、もうとっくに止めてしまった。

どうして自分がここにいるのか、何故出られないのか、悟空は何も知らない。
知っていたのかもしれないが、今の自分には分からない。
何も分からないまま、ただ、太陽と月だけが繰り返し繰り返し落ちて、昇っていく。

いや、『何も』じゃない。
一つだけ、分かっている事がある。

悟空。自分の『名前』。

だけど。時々忘れそうになることがある。
誰もそれを呼んでくれないから。
意味のないものに思えてきて、忘れてしまいそうになる……。

『悟空』という名を持っている事に、どんな意味があるんだろう。
そんな事をふと考える。
かつて、この名を付けてくれた人。
その人は、自分の名を必要としてくれていたんだろうか。
それならどうしてその人は、今ここに居ないのだろう。

分からなくて、でもこれだけは忘れちゃいけない気がして。

「悟空」

悟空は必ず、一日に一回は自分の名を口に出してみる。
これだけは、消えないように。
他には、何も持ってないから。



また、月が昇る。
美しく輝き、岩牢を、悟空を照らす月の光に誰かの影が重なる。
悟空は柵まで近付き、その間から月へと手を伸ばす。
届くはずなどないと分かっていても、焦がれる思いを止める事は出来なかった。

「────」
口唇が何かの言葉を紡ぐように、微かに動く。
だが、どうしても音にはならなかった。
言いたいのに、呼びたいのに……その名が分からなかった。



時間が経つにつれて月は高く昇っていき、やがて悟空の視界から消え失せる。
少しずつ、岩に隠れて見えなくなっていく月。
この瞬間だけは、いつも涙が溢れ出してくる。
どれだけ見ても、どれだけ繰り返しても、慣れてはしまえなかった。

月が見えなくなり、岩牢に闇が訪れる。
他に光源などないから、岩牢の外はともかく、中はほとんど何も見えなくなる。
何も───そう、自分の姿すらも。

このまま消えてしまったら、どうなるだろう。
きっと、どうもなりはしない。
自分には、『悟空』という名以外は何もない。
その名前すら、呼んでくれる人は居ない。
それでも、見失いたくなかった。
自分の存在を、失くしたくなかった。







『必ず、迎えに行くから』


遠い約束。
悟空自身、記憶の中には残っていない約束。

だけど、魂は憶えている。その約束を。
だからこそ、この400年間発狂もせずに耐えてこられた。
ただ、その約束をひたすらに信じて。







いつかきっと、自分の名を呼んでくれる人が来てくれる。
待ち続ける事に疲れても、悟空には待つ事しか出来ない。
いっそ、自分で捜しに行けたらいいのにと思う。
あと何百年待てば、その人は来てくれるのだろうか。

逢いたい。

どれだけ呼び続ければ、この思いはその人に届くのだろう。





悟空が『生きて』いられるのは、あとどのくらいだろう。
『生きる』事は、『動く』事。身体も……心も。
心が『動く』事がなくなった時、悟空は『死ぬ』のかもしれない。
この400年の間に、少しずつ、少しずつ動きは緩やかになり……いつかは止まる。




オネガイ、オレヲミツケテ。

オレノこころガシンデシマウマエニ───





まだ、『その日』は来ない。







END







後書き。

今でこそ、悟空は三蔵と一緒で幸せなんでしょうが、金蝉を失くしてから三蔵と出会うまで
それこそ普通なら神経が耐えられないであろう永い時を独りで過ごしてきたんだなって思いから書いた話です。
『名前』って、誰かが呼んでくれて初めて意味を持つものだと思ってますので
この頃の悟空が、孤独の中それでも『名前』を憶え続けてたってのはすごい事だと思います。
それをつけてくれた金蝉への想いがそれほど大きかったのかと思うと……。
私にしては珍しく、悟空オンリーのお話になりました。




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