その日は確かに朝から少し妙なダルさを感じてはいた。
しかし、忙しさの中で大して気にも留めずにいつも通りの執務をこなす。
せめてこの寺にもう少し有能な者が多ければ、目の前の書類の枚数も減ってくれるだろうに。
そんな風に思うものの、そう愚痴っていても仕事が減ることはない。
小さくため息をつくと、三蔵は次の書類を手に取った。
どのくらいの時間が過ぎただろう。
一息を入れようと背凭れに身体を預けると同時に、不快な暑さを自覚する。
本格的な夏でもあるまいし、何故今日はこう暑いのだろう。
うっすらと額に浮かんだ汗の粒を拭い取ると、三蔵は窓を開けるべく席を立った。
途端に、視界がぐらりと揺れる。
咄嗟に執務机に手を付いて身体を支えようとしたが、上手くいかずにその場に膝をつく。
頭がぐらぐらとして、バランスが取れない。
三蔵は小さく舌打ちをする。
どうやら、自分で思っていたよりも相当体調を崩しているようだ。
これでは今日はこの先とても仕事になりそうにない。
仕方がないとため息をつき、少しその場で呼吸を整えた後にゆっくりと立ち上がった。
外で控えていた小姓に体調が優れないので私室で休むことを伝えると、手を貸そうとした小姓を退けて歩き出す。
足元が若干フラつきそうになるのを堪え、出来るだけ何事もないかのように。
この寺の僧どもにこんな姿を見られるなど冗談ではない。
慌てて心配しているフリをするのだろうが、それがたまらなく鬱陶しい。
何とか私室に着き、寝台の上に倒れ込む。
吐く息が熱いのが、自分でも分かる。
全く、熱を出すなどいつ以来だろうか。
健康管理はそれなりにしていたつもりだが、やはり疲れが溜まっていたのかもしれない。
法衣を脱ぐことすら億劫で、三蔵はそのまま目を閉じる。
すぐさま、眠りに落ちようとしたその意識を無理やり引き戻すかのような騒がしい足音が近付いてきた。
どうやら、小猿が帰ってきてしまったらしい。
よりによってこのタイミングで帰ってくるか……と、三蔵は頭痛が更に増した気がした。
今の働かない頭では、どう対処するかと考えることも面倒だ。
考えることを放棄するのと、大きな音を立てて扉が開くのはほぼ同時だった。
「たっだいま〜! ……って、三蔵!? どうしたんだ!?」
寝台に横になっている三蔵を見て、悟空が駆け寄ってくる。
「うるせえ……大声出すんじゃねえ、頭に響く」
片手で頭を軽く押さえながら答える。
「ただの風邪だ、大したことはねえ」
だから放っておけ……と言う前に、悟空が言葉を被せてきた。
「じゃあ、俺、水とか貰ってくるな! 待っててくれよ、三蔵!」
言うが早いか、悟空は帰ってきた時と同じくらいの勢いで出て行ってしまった。
以前に悟空が体調を崩した時に看病してやった時のことを覚えていたようだ。
あの時のお返しとでも思っているのだろうかと、小さく笑う。
しかし、悟空が看病をしてくれるというのは嬉しくもあるが、怖くもある。
果たして、あの小猿にまともな「看病」などが出来るのだろうか。
下手をすると、明日の朝にはもっと重症化していたりしないだろうか。
もっとも、例えまともな看病にならなくとも、他の連中に看病されるよりは百倍マシだ。
悟空が三蔵を心配する声も言葉も、耳に心地良く響く。
悟空が帰ってくるまでのまとわりつくような不快感が、少しずつ消える気がする。
身体のダルさは変わらないが、気分が落ち着くだけでも既に看病の意義はあったのかもしれない。
それからどのくらい経っただろうか。
悟空が水を貯めた桶と手拭い、それに飲料用の水も持って戻ってきた。
「三蔵、ノド乾いてない? ほら、お水」
そう言って、竹筒を三蔵の口元でゆっくりと慎重に傾ける。
冷たい水が痛む咽喉を冷やして潤し、少し身体が楽になる。
三蔵が息をついている間に、悟空は手拭いを水で濡らし、三蔵の額へと置く。
ひんやりとした感触が、気持ち良い。
「三蔵、大丈夫?」
覗き込んでくる大きな目が、心配そうに揺れている。
「ああ……少し楽になった」
「そっか! 良かった! 俺、ずっとここにいるから、なんかしてほしいことあったら言ってくれよな!」
照れたように笑って、悟空が寝台の傍に椅子を持ってきて腰を下ろす。
正直なところを言ってしまえば、悟空がそこにいてくれるだけでいい。
弱った姿を見られるのは本意ではないが、悟空がいるだけで気持ちが安らぐのも事実だ。
この小猿は、そこにいるだけで人を安心させる空気を持っている。
それを感じているのは多分、三蔵だけではないだろう。
そのおかげで、しなくてもいい心配をするハメになることも多々あるのだが。
「……俺に、感染っちゃえばいいのに」
ポツリと呟く声に、三蔵は軽く閉じていた目を開ける。
「前に誰かが言ってたんだ、風邪って人に感染すと治るんだって」
「馬鹿言ってんじゃねえ。感染ろうが感染るまいが、治る時は治る」
「そうかもしれねえけど……やっぱ、三蔵が辛そうにしてるの見るの、やだよ」
眉を寄せてショボンとした様子で、悟空は三蔵を見つめている。
くれぐれもそういう顔を自分以外には見せないでほしい、と思う。
庇護欲をそそると同時に、人によっては嗜虐心すら煽りかねない。
三蔵自身がどうなのかということは、この際置いておくことにする。
「……そんなに言うなら、感染してやろうか?」
「え?」
重い手を動かして悟空の後頭部を軽く掴む。
そして一気に自分の方へと引き寄せると、顔を傾けてその唇を合わせた。
たっぷり10秒ほども味わってから、ようやく押さえていた手を離してやる。
目を開けると、案の定、顔中真っ赤に染まった小猿がいた。
「なっ……なっ……何すんだよ、三蔵!」
「お前が感染してくれと言ったんだろうが」
しれっとそう答えると、悟空はグッと言葉に詰まってしまった。
「そ、そりゃ、言ったけどさ!」
それでもなお言い募ろうとする悟空の言葉を遮るように、一言だけ返す。
「嫌だったか?」
じっと見つめながら言ってやると、悟空が途端にしどろもどろになる。
「え、べ、別に、嫌だとか言ってねえじゃん……」
「そうか。なら、問題はないな」
さっさと結論付けて、三蔵は意地の悪い笑みを浮かべる。
「う〜……もういいよ、それで!」
拗ねたようにプイっと横を向いた悟空の顔は、まだ真っ赤なままだ。
そんなやり取りで随分と気が緩んだのか、強い睡魔が三蔵を襲ってきた。
「……少し寝る」
小さくそう告げると、悟空が横を向いていた顔を三蔵の方へと戻す。
「うん、おやすみ、三蔵。俺、ここにいるから」
「ああ……」
それだけ答えると、三蔵はゆっくりと目を閉じる。
「三蔵が元気になるんなら、俺、本当にいくら感染ったっていいから。
だから、早くいつもの三蔵に戻ってくれよ」
意識が完全に落ちる間際に届いた声が、身体と心に染み込んでいく気がした。
後書き。
サイト復活最遊記SS第一弾です。
タイトルですが、薬ではなく風邪そのものを口移し……みたいな。
本当に感染ったら感染ったで、今度は三蔵が「感染させてやる」とか言ってチュッとやっちゃいそうだ……。
……単にキスしたいだけみたいです。