快適温度



窓の外の景色が歪んで見えるほどの、うだるような暑さ。
じっとりと汗を滲ませながら、三蔵は机に向かい、ひたすら筆を走らせていた。
傍らに置いた手拭いには、既に相当な量の水分が含まれている。
背後の窓は開けているものの、今日は大して風もなく、せいぜい空気が篭らない程度の役割しか果たしていない。


三蔵は一旦筆を置き、背凭れに背を預けると手拭いを手に取って汗を拭う。
椅子ごと横に向き、ふっと外に目をやると、真夏の太陽が木々や地面をじりじりと照りつけている。
これではこの暑さも当然だと、三蔵は舌打ちする。
正直、これだけ暑いと仕事をする気がどんどんなくなってくる。
いや、元々三蔵は決して仕事熱心ではないのだが、この暑さでは尚更やる気がなくなる。
休憩がてら、三蔵は煙草を吸い始めた。

紫煙を吐きながら、三蔵は太陽の光の中に金の瞳を見た。
そういえば、悟空は何をしているのだろうか。
午前中はこの執務室で「遊んで」だの「腹減った」だのと騒いでいたが、昼食後少ししてから姿が見えなくなった。
といっても、三蔵としてもずっと執務室にいて別に悟空を探したわけではないので、単に私室にいるか外で遊んでいるだけなのかもしれない。
もしくは、三蔵が遊んでくれないから八戒と悟浄のところに行ったという可能性も大きい。

その可能性を考え付くと同時に、三蔵の眉間に皺が増える。
仕事をしている傍で騒がれるのも苛つくが、八戒達のところに行ったとなると余計苛つく。
悟浄はともかくとして、八戒が悟空を憎からず想っているのは確実なのだから。
八戒が妙な真似をするとは思っていないが、楽しげなやり取りが想像できるだけにムカつくのは仕方がないだろう。
あの2人のところに行かれるくらいなら、まだ傍で執務の邪魔をされていた方がマシだ。

そこまで考えて、三蔵はイライラした様子でまだ長い煙草を灰皿に押しつけた。
何も、悟空が八戒達のところへ行ったとは限らない。
なのに、どうして自分はこうも苛ついているのか。

八戒達のところへ行ったにせよ、それ以外のところにいるにせよ。
要は、悟空が三蔵の知らないところで三蔵を忘れて行動しているのが気に入らないのだ。
横暴極まりない思考だと、三蔵自身も思う。
それでも、そう思ってしまうのを止められない。

我ながら湧いてんな、と思いつつ、三蔵は再び椅子ごと執務机に向き直る。
仕事の手を止めていても、余計な事を考えるだけだ。
休憩と言えないような休憩を終わらせ、三蔵は筆を取ると先程までのように書類に筆を走らせた。






仕事を再開してから間もなく。
微かに足音のようなものが聞こえたかと思うと、その音は瞬く間に近付いてきた。
余りに聞き慣れたその元気すぎる足音の主など、三蔵にとっては考えるまでもない。
大きくなっていく足音がこの部屋の扉の前で止まり、その扉が開かれると同時に予想通りの明るい笑顔が現れた。

「三蔵ー! たっだいまー!」
悟空の声はいつもより更に明るく元気で、声だけでも相当ご機嫌である事が分かる。
「ったく、たまには静かに帰って……何だ、それは」
ようやく顔を上げた三蔵は、悟空の両手に握られているものに目を止めた。
悟空は自分の両手を交互に見てから、両手のものを胸の辺りまで持ち上げる。
「うちわと氷水」
そう悟空が言う通り、悟空の右手にはうちわが、左手には氷水の入った透明の袋が握られている。
しかも、氷水の入っている袋の方は相当な大きさだ。
「……そんな事は見れば分かる」
「じゃあ、別にいいじゃんか」
「風と氷で涼みたいなら……その辺の隅っこでやってろ」
最初は『私室で』と言おうとしたのだが、悟空を追い出せばまた先程みたいな思考に嵌まってしまいそうで、それなら見える場所にいさせた方が余計な事を考えずに済みそうだと思ったのである。

だが、悟空は隅っこどころか机を挟んで三蔵の真正面に立つ。
「何だ」
「三蔵、すごい汗」
「当たり前だ。大体、人の事言えねえだろうが」
悟空の方も、先程まで走っていたせいもあってかなりの汗だ。
「しょうがないじゃん、暑いんだもん」
「だからうちわと氷を持ってきたんだろ。さっさとそれで涼んでろ」
「俺が涼むために持ってきたんじゃないもん」
悟空はそう言うと、前に氷水を突き出して、その後ろから三蔵に向けてうちわでパタパタと扇ぎ始めた。

面食らっている三蔵に、氷水で冷やされた、ひんやりとした風が届く。
その間にも、悟空は一生懸命にパタパタ扇ぎ続けている。
「……何してんだ」
「え? 扇いでんだけど……涼しくない?」
自分の予想した効果が現れなかったと思ったのか、悟空の表情が微かに曇る。
その事に軽い罪悪感を覚え、三蔵は眉を寄せた。
「そうじゃねえ。何で俺に向かって扇いでんのか訊いてんだ」
「だって、三蔵、暑いだろ?」
確かに暑い。だが、それは同じ部屋にいる悟空とて同じはずだ。
「汗だくで何言ってやがる。自分に扇いでろ」
「ダメだよ、三蔵に涼しくなってもらうんだから」
そう言う間にも、悟空は休む事なく三蔵へ涼風を送り続けている。


「三蔵、ずっと仕事してるだろ? でも俺、何にも手伝えないし……」
悟空の顔が少し俯き、扇いでいる手の速度が僅かに遅くなる。
「お昼食べてた時、ちょっとだけ涼しい風が入ってきただろ。 そん時に思いついたんだ」
仕事が手伝えないなら、せめて三蔵が今よりほんの少しでも楽に仕事が出来るように、と。
「で、何か扇ぐようなモンないか訊きに行ったんだ」
「誰にだ」
「時々饅頭くれる、和菓子屋のばあちゃん」
「……日頃から他人に気安く物を貰うなと何度……」
「きっ、気安くじゃないもん! いつも一度は断ってんだぞ!」
「最終的に貰ってりゃ一緒だ。……まあいい、それより続きは」
話が少々脱線した事にやっと気付いた悟空は、慌てて続きを話し始めた。
「それでうちわ貰って……あ、これもちゃんと後で返すって言ったんだけど」
「今はそれはいい」
「うん、それでさ、その時に氷水の後ろから扇ぐともっと涼しいよって袋に氷入れてくれて……」
「なるほどな、それで慌てて走って帰ってきたわけか」
氷が溶けてしまうまでの時間の中で、少しでも長く三蔵に冷たい風を届けたくて。

「……なあ、三蔵。ちょっとは涼しい?」
俯きがちの顔のまま、悟空は目線だけ上げて三蔵におずおずと尋ねた。
「見て分かんねえか、バカ猿」
そう言った三蔵の顔からすっかり汗がひいているのを見て、悟空は嬉しそうに笑うと、一層勢いよくうちわで扇ぎ始めた。
「そんな勢いで扇いでたらバテるぞ」
「バテねえもん、三蔵の仕事が終わるまでは!」
自分が役に立っている事が嬉しいのか、悟空はすっかり張り切ってしまっている。

「ったく……」
そう呟く三蔵の声色は、出した本人ですら意外なほど穏やかだった。
悟空のこの調子では、本当に三蔵の仕事が終わるまでは延々と扇ぎ続けそうだ。
それなら、さっさと仕事を片付けてしまおうと、三蔵は置いていた筆を取った。
先程までの不快指数が嘘のように快適な今の状況なら、進みも随分早くなるだろう。


──早めに仕事が終わったら、街に出て冷たい水饅頭やかき氷でも買ってやるか。


そう思いながら、三蔵は書類に筆を走らせ始めた。









END









後書き。

暑中お見舞い申し上げます。

海ネタは去年ギャグ(?)でやったので、今年はスタンダードな三空ネタで。
健気な悟空が書きたかったんです。 健気な悟空! いいですね! ラブですね!(は?)
快適温度……でも三蔵の場合、悟空がいれば気温が何度でも快適だと思いますけどね(笑)
きっとこの後三蔵は驚くべき速度で仕事をこなし、悟空と街にお出かけでしょう。
三蔵と一緒に出かけられて、更に水饅頭を買ってもらって、悟空はさぞご満悦だったのではないかと。
頑張った分、三蔵も悟空にご褒美はあげませんとねv






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