輪廻の環






一緒にいよう。
ずっとずっと、一緒にいよう。









「……三蔵」
ゆっくりと開かれた瞳を見て、悟空は小さく名前を呼んだ。
悟空の声に、三蔵の顔が動き、その視界に悟空を捉える。
ベッドから身体を起こそうとする三蔵を、悟空はそっと支えた。

三蔵の姿勢が安定すると、悟空は傍らに置いてある水を三蔵に差し出した。
それをゆっくりと飲み干す三蔵を、ただじっと見つめる。
青白い顔、どことなく痩せてしまった身体、辛そうな息遣い。
以前までの三蔵からは考えられないくらい、その雰囲気は弱々しい。
1つだけ変わっていないのは、眼。
眼の鋭さと強さだけは、今もなお変わっていない。









それは、西への旅が終わって2年ほど経った頃のことだった。
三蔵の体調の優れない日が続いて悟空は心配していたが、三蔵は少し疲れが溜まっているだけだと言うだけだった。
実際、その頃は式典や行事が相次ぎ、いつになく忙しかった。
だから、疲れているのだと言う三蔵の言葉を疑わなかったのだ。
それならばと、悟空は出来るだけの手伝いをして三蔵の負担を減らそうと走り回っていた。
もう20歳を過ぎて悟空もそれなりに能力がついていたので、出来る事も多く、その分忙しい毎日を送っていた。
その忙しさのせいもあったのかもしれない。
三蔵の変調に気付くのが遅れたのは。

ある日、いつものように自分の仕事を終えて三蔵の執務室に戻った悟空は、思わずその場に立ち尽くした。
いるはずの場所に三蔵が見えず、出かけているのかと視線を走らせた悟空の目に映ったのは、横倒しになった椅子の傍に倒れている三蔵だった。
硬直した状態から我に返った悟空は、慌てて三蔵を抱き起こした。
しかし、いくら呼んでも三蔵は目を開けない。
すぐさま三蔵を寝室に運んで、薬師を呼んだ。
寺院内が騒然とする中、悟空は祈るような気持ちで薬師の判断を待っていた。


三蔵の身体が病に冒されて、余命幾ばくもない。
そう聞いた時、悟空は目の前が真っ暗になった気がした。
身体の震えが止まらず、周りの僧達の慌てふためく声も殆ど聞こえてはいなかった。
足元がグラグラと揺れて、立っている事すら出来ずにその場にへたり込んだ。






誰か、嘘だと言ってほしい。
お前は今、夢を見ているのだと。
悪い夢に魘されているだけなのだと。
目を覚ませば、いつも通りの毎日が戻ってくるのだと……そう言ってほしかった。






だけど、その願いは叶えられる事はなく、残酷な現実は依然悟空の目の前にある。
日を追うごとに、少しずつ、しかし確実に、三蔵の身体は蝕まれていく。
気を抜くと三蔵の目の前で泣き出してしまいそうで、悟空は平静を保とうと必死だった。
三蔵本人には余命の事は伝えられていないが、おそらく既に気付いているだろう。
それでも、三蔵の前では大丈夫だというフリをしていたかった。
三蔵のためというよりも、悟空自身がそう思い込みたかっただけなのかもしれない。






空になったコップを、三蔵から受け取る。
「三蔵、メシ持ってくるから、ちょっと待っててくれよ」
そう言って立ち上がりかけた悟空の腕を、三蔵がゆっくりとした動作で掴む。
その腕の細さに一瞬眉を寄せた悟空だが、すぐに笑顔を作る。
「食いたくなくても食わねえと良くならないって、薬師の爺ちゃんも言ってたじゃん。な?」
「そうじゃねえ……」
三蔵はそう呟くと、悟空に再び座るように目で促した。

その視線に逆らえず、悟空はベッド脇の椅子に腰を下ろした。
沈黙が、しばし空間を支配する。
悟空が口を開こうとしたのを、三蔵の声が遮る。
「……悟空、下手な芝居をいつまで続けるつもりだ?」
「……な、に……言ってんだよ、三蔵」
笑い飛ばそうとしたその顔が、ひきつっているのが自分でも分かる。
脈拍がドクドクと頭の中に強く響くような、そんな錯覚を覚える。
コップを握りしめる両手に、僅かに力が篭る。
「てめえの作り笑顔ごときに、俺が気付かねえと思ってるわけじゃねえだろ」
「……やめろよ」
そんな呟きが何の抑止にもならない事を分かっていて、それでも悟空は次の言葉を拒否した。






「あと、2ヶ月保ったら上出来ってところか?」



心臓を、鷲掴みされたような気がした。






「やめろよ!」
ミシリ、という音が鳴った次の瞬間、大きな音を立てて悟空の両手の中からガラスの破片が血と共に零れていく。
手の痛みで心の痛みを紛らわせるように、破片をキツく握りしめる。
身体全体がガタガタと震え始めるのを止められない。
流れ落ちる血が服を汚す事も認識できず、怪我の痛みすらまともに感じられなかった。

悟空とは対照的に落ち着き払った三蔵を、悟空は思わず睨みつける。
「何で……何でそんな事言うんだよ……!」
「事実だろう」
淡々とした口調で言い放つ三蔵を見て、悟空は何度も首を横に振った。
「違う……違う! そんな事ない!」
認めさせないで欲しい。それが現実なのだと。
まだ希望があるのだと、信じていたい。
でなければ、心の平衡が崩れてしまう。

そんな悟空の望みを打ち砕くように、三蔵は悟空を真っ直ぐに見据えた。
「そうやって逃げていても、いずれやってくる結末は同じだ」
その言葉に、弾かれたように悟空は俯いていた顔を上げた。
「……や……だ……」
弱々しく首を振り、耐えきれなくなった涙が溢れ出す。
「嫌だ……嫌だよ、そんなの! 三蔵がいなくなるなんて絶対に嫌だ!」
三蔵にしがみつくように、その胸に顔を埋めて三蔵の着物を両手で掴む。
白い着物に血がつく事を気にする余裕など既になく、悟空はただ強くその着物を握りしめた。
そうする事で、三蔵をずっとここに留めておく事が出来るかのように。

三蔵の手の平の暖かさを頬に感じて、悟空は涙に濡れた顔を上げる。
そのまま、そっと口付けられる。
三蔵との口付けは嬉しいはずなのに、その少しかさついた唇の感触が胸に痛かった。

唇がゆっくりと離れると、三蔵の瞳とぶつかった。
「……見つけてみせろ」
「え?」
「前に、言ってただろう。『今度は自分が見つけ出す』とな」
その三蔵の言葉に、以前冗談混じりに話した時の事を思い出す。







『俺、三蔵がよぼよぼの爺ちゃんになっても、ずっと一緒にいるからな!』
『……嫌な想像させんじゃねえ』
『何があっても、絶対俺は三蔵と一緒にいるんだ』
『で、俺が歳食って死んだらどうするつもりだ』
『捜す』
『捜す?』
『うん。三蔵が俺を見つけてくれたみたいに、今度は俺がどっかに生まれ変わった三蔵を捜し出すんだ』
『俺は、生まれ変わってもバカ猿の面倒を見なきゃならんのか』
『何百年かかったって、ぜーったい、見つけ出すからな!』
『気の長い話だな。……まあ、楽しみにしててやるよ』







笑いながら交わした会話が蘇って、悟空はギュッと手を握りしめた。
「……ダメだよ……」
ポツリと、口から言葉が零れ出た。
「何百年も、俺、耐えられないよ! 三蔵がいなくて、1人で……そんなの無理だよ!」
乾き始めていた涙が、再び溢れ出す。

どうして、あんな事が言えたのだろう。
三蔵がいない世界で、たった1人で。
当てもなく何百年も捜し続ける事が、どれほど重く苦しいのか。
どうして、あの時の自分は分からなかったのだろう。

岩牢で過ごした500年間。
その日々だって苦しかった。
それでも心が壊れずにいられたのは、多分、記憶がなかったから。
大切な人の記憶がなかったからこそ、孤独にも耐えられた。
誰かを特別に想う事の幸福や切なさを知ってしまったら、もう1人には戻れない。
1人になってしまったら、積み重ねてきた幸福な記憶が悟空の心を容赦なく壊していくだろう。

あの時の言葉は、幸せだからこそ言えた言葉。
当たり前に感じていた幸福の中でだけ、口に出来た事。

そんな事すら、あの時の自分は分からなかった。







視線を交わらせたまま、静寂が訪れる。
ふと、三蔵が瞳を伏せた。
「それなら……」
小さく呟くと、三蔵は再び悟空に視線を合わせた。




「来世の輪廻ではなく、共に逝くか?」




瞬時に意味を掴み取れず、悟空はじっと三蔵を見つめた。
そうして、ようやくその意味を悟る。

悟空は頬に流れる涙もそのままに僅かに微笑みを浮かべると、ゆっくりと瞳を閉じた。
「うん……」
小さく頷くと、三蔵の肩口にコツンと額を乗せた。








──その後間もなくして、寺院から2人の姿が消えた。
寺院の僧達によって大規模な捜索が行われたが、結局行方は杳として掴めなかった──









END










後書き。

「4周年記念ミニ企画」第2弾。
お題は「来世の輪廻ではなく共に逝くか?」。
死にネタで、とはどこにも書いてなかったのに、死にネタですみません……。
私の想像力ではコレしか思い浮かびませんでした。
悟空の痛み、悲しみが少しでも伝わってくれるといいなと思います。
リクエスト下さった方に少しでも気に入って頂ければ幸いです。




2005年5月14日 UP




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