いつになく甘い香りに包まれた執務室で、金蝉はいつにも増して不機嫌そうに書類に判を押していた。
もちろん、いかに不機嫌とはいえ、その押されるハンコは常に角度も濃さもバッチリだ。
そこは金蝉の密かなこだわりであるが故、一切妥協はしない。
美しく押された判を見て、金蝉は小さく頷く。
こうしていると、苛立った気分が少しは軽減される気がする。
一旦休もうと書類を置いた時、執務室の扉が突然開いた。
ノックもなしに金蝉の執務室に入ってくるような者は、思いつく限りで3人。
金蝉が面倒を見ている悟空、いつもまるで遠慮のない捲簾、そして後もう1人……。
「よーお、相変わらず仏頂面だな」
ある意味最も遠慮のない人物の登場に、金蝉は嫌そうに眉を顰めた。
「書類なら、後で持っていく」
「んなこたあ分かってる。つーか、わざわざ俺がそんなもの取りに来ると思うか?」
「じゃあ何だ」
目付きを鋭くして睨みつけても、全く効き目などありはしない。
腰に手を当て、楽しそうに笑っている観世音菩薩に、金蝉は嫌な予感がした。
「いやな、ちょっと暇でなぁ。で、可愛い甥の顔が見たくなってな」
「もう見ただろ。用が済んだらさっさと出てけ」
そんな金蝉の言葉は綺麗に無視して、観世音菩薩は一旦執務室を見渡すと、手前右側の隅に近付いた。
「へえ、毎年の事とはいえ、今年もまた凄えな」
観世音菩薩が感心したように見つめているのは、この部屋の甘い匂いの正体。
それは、山のように積まれた、色とりどりに包装されたチョコレート。
「欲しいならやる。持って帰れ」
「おいおい、折角貰ったモンを人にやってどうするよ」
「知るか。頼んでねえ」
バッサリと言い捨てた金蝉に、観世音菩薩は呆れたように壁に凭れる。
「全く贈り甲斐のねえヤツだな」
「ほっとけ。大体、贈りすらしねえヤツが言っても説得力ねえな」
「ほう、贈られたいなら贈ってやってもいいぜ?」
「いらん……」
楽しそうに言う観世音菩薩に、金蝉は脱力しながら答える。
この叔母から贈られる物など、どう考えても厄介極まりない物に決まっている。
それを考えるだけで、頭が痛くなってきそうだ。
観世音菩薩の方も軽い冗談だったようで、「そうか」の一言だけで引き下がってくれた事に内心金蝉は安堵した。
散々金蝉をからかって遊んだ後、ようやく観世音菩薩は出て行った。
要は、本当に退屈で金蝉で遊びたかっただけらしい。
傍迷惑な叔母だと、今更な事を考えながら金蝉は大きくため息をついた。
何とか書類を全て片付けた頃には、すっかり日は落ちていた。
いつもならもうこのくらいの時間までには戻ってきている悟空が、今日はまだ戻っていない。
天蓬のところにでも行っているのだろうかと、金蝉は席を立つ。
最近本を読む事を覚えたらしい悟空は、天蓬のところでよく本を読んでいる。
絵の方が多いくらいの本ばかりのようだが、それでも書物に触れるのは良い事には違いない。
ただ、天蓬の書庫は玉石混交というか、良い本に紛れてたまにとんでもない本が混じっていたりするのでその辺が心配といえば心配ではある。
天蓬はともかく捲簾がその辺りを気にして、悟空に見せられなさそうな本は隔離してくれてはいるようだが。
だが、本を読んでいるにしてもそろそろ遅くなる時間だ。
迎えに行くのは少々面倒だが仕方がないと、金蝉は執務室のドアに向かう。
すると、廊下の遠くの方から軽快な駆け足の足音が聞こえてきた。
迎えに行こうとしていたのを知られるのが何となく嫌で、金蝉は再び踵を返すと執務机の椅子に座った。
金蝉が座った数秒後、勢い良く執務室のドアが開いた。
「金蝉、ただいまー!」
「遅かったじゃねえか」
「うん、ごめん」
謝りながらも、何故か悟空は嬉しそうに笑っている。
「……何だ。頭でも打ったか、猿」
「なんだよ、それー! ま、いいや。それより、これ!」
悟空が執務机に駆け寄って金蝉に差し出したのは、リボンのついた長方形の箱。
余りに見慣れてしまったその形に、金蝉はまさかと思いながらも尋ねてみる。
「何だ、これは」
「えっと、何だっけ……あ、そうだ、『ちょこれーと』!」
やっぱりと思いながら、次に金蝉が考えたのは、一体誰が悟空にこんな事を吹き込んだのかという事だった。
捲簾や天蓬辺りが1番怪しいのだが、今日の事を振り返るともう1人怪しそうな人物がいる。
「おい、チョコレートの事なんて誰に聞いたんだ」
「たまにここにくるオバサン」
「あのババア……」
犯人が案の定観世音菩薩だと分かって、金蝉のこめかみに青筋が浮かぶ。
退屈だと言ってたが、金蝉では飽き足らず悟空でまで遊んでいたらしい。
「金蝉……何で怒ってんの? これ、いらなかった?」
金蝉が怒っているのが自分の差し出したチョコレートのせいだと思ったのか、悟空は先程までの笑顔はどこへやら、しょぼんとした顔で金蝉を見ている。
そんな悟空を見て、金蝉は内心慌てて表情から怒りを消した。
「そうじゃねえ。……ほら、チョコレート寄越せ」
「うん!」
金蝉が手を差し出すと、悟空はパッと笑顔を咲かせてチョコレートを金蝉に手渡した。
開けるのを期待するような悟空の視線に、金蝉は包装を開ける。
中には小さな一口大のチョコレートが3つ。
その内の1つを口に放り込む。
「なあ、金蝉。美味しい?」
「……結構いけるな」
「そっか、へへ、良かったー」
嬉しそうに笑う悟空に、金蝉は表情を少し緩めると、2つ目のチョコを悟空に差し出した。
「ほら、食え」
「う……ううん! 金蝉に食べてもらうって決めたんだもん!」
とは言うものの、悟空の視線はチョコレートに釘付けだ。
「やせ我慢するな。食いたいんだろうが」
「いいんだってば!」
何かを振り切るようにブンブンと顔を振る悟空の意志は余程固いらしく、どうにも受け取りそうにない。
そう判断した金蝉は、その2つ目のチョコも自らの口に放り込む。
そして、部屋の隅に積まれたチョコレートの山を指差した。
「なら、アレを食っとけ。あんだけありゃ、いくらお前の胃袋でもそこそこ足りるだろう」
「でもあれ……金蝉にってくれたんじゃないの?」
「別に構わん……」
言い掛けた金蝉の言葉を遮るように、悟空は突然執務机に乗り出した。
「ダメだよ!」
いきなりムキになった悟空に、金蝉は驚いて少し身体を後ろに退く。
そんな金蝉の様子は気にせずに、悟空は乗り出した体勢のまままくしたてた。
「オバサンが言ってた。今日は1番好きなヤツに『ちょこれーと』ってのをあげる日なんだって。
天ちゃんも、『ちょこれーと』にはあげる人の『だいすき』がいっぱいつまってるって。
だから、そんな『だいすき』を受け取ってほしくて、『ちょこれーと』を一生懸命選ぶんだって。
だったら、金蝉が食べなきゃ意味ないじゃん! あげた人が可哀想だよ!」
それだけを一気に言い終えると、悟空は固まっている金蝉を見て執務机に半分身体を乗せていたのを下ろした。
「だって、俺だってその『ちょこれーと』、金蝉が他のヤツに食べさせたら悲しいもん……」
金蝉が黙っている事に不安になったのか、悟空は少し俯きながら先程とは比べ物にならない小さな声で呟いた。
金蝉の方はというと、思いがけない反論に反応を返す事すら忘れていた。
あの悟空から、こんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだ。
観世音菩薩や天蓬から色々吹き込まれたとはいえ、これは悟空が自分なりに感じた事なのだろう。
まだ幼い悟空からいつもとは逆に説教を食らった形になって、金蝉は少し苦笑をした。
まさか、悟空に怒られるとは思わなかった。
確かに、毎年毎年儀式のように贈られるチョコレートに、すっかり慣れてしまっていたのかもしれない。
そのチョコレートに篭められている想いなんて、殆ど考えた事もなかった。
だが、悟空の言う通り、そのチョコレートには多かれ少なかれ好意が篭められているのだろう。
義理には義理の、本命には本命の、それぞれの好意と想いが。
金蝉に食べて欲しくて贈ってきたチョコレートを違う誰かに食べさせるというのは、贈った本人には悲しい事なのだろうと、先程の悟空の小さな呟きを思い出す。
「……分かった」
ポツリと漏れた金蝉の一言に、悟空は俯いていた顔を上げた。
「金蝉?」
「あれは俺が食う。それでいいな」
「……うん!」
ポンと頭に置かれた金蝉の手に、悟空は嬉しそうに笑う。
そんな悟空に、金蝉は少し意地悪そうな笑みを見せた。
「ただし、食ってる最中に欲しそうなツラしてもやらんからな」
「う……! い、いいよ! あれは金蝉のだもん!」
一瞬たじろいだ悟空ではあるが、決意するようにグッと両手を握り込んだ。
バカ猿のくせに人の気持ちには敏感なんだな、と、金蝉は悟空を見つめた。
頭をクシャクシャと撫でてやると、くすぐったそうにはにかんだ笑顔を見せる。
正直、自分に贈るくらいなら悟空に贈ってやった方が余程有意義だろうにと思う。
もっとも、いずれはこっそり贈られるようになるかもしれないが。
とりあえず、1ヶ月後までに何か考えておかなくてはいけないだろう。
そんな事を考えながら、金蝉は悟空から贈られたチョコレートの最後の1個を口にした。
後書き。
かなり久し振りの金空です。久し振りすぎて書いてて慌てました(笑)