開いた窓から爽やかな風が入ってくる朝の執務室。
金蝉は書類を片付ける手を止め、チラリと視線を動かす。
執務机の端の方には、小さな包みがちょこんと置かれてある。
1ヵ月前のバレンタインに悟空がチョコレートを寄越してきた。
面白がりの叔母が余計な事を吹き込んだ結果とはいえ、それは悟空の金蝉への親愛の気持ちそのものだ。
さすがに、それを無視して知らん顔というわけにもいかない。
これを渡してやった時の悟空の喜びようが目に浮かぶようで、金蝉の表情も自然に柔らかくなる。
中身はただのマシュマロだ。もっとも、大量のチョコレートを1人で食べる羽目になって甘いものは当分見たくもなかった金蝉にしてみれば、マシュマロを入手するのもかなりの苦労だったのではあるが。
それでも、あの小さな子供の顔が綻ぶのを見られるのなら十分だと思う。
天蓬や捲簾から親ばかと言われるたびに睨みつけている金蝉だが、これでは言われても反論の余地もないなと小さくため息をつく。
そろそろ悟空が飛び込んでくる頃だ。
そんな風に思ったのと、執務室の扉が勢い良く開かれたのはほぼ同時だった。
「金蝉、おはよお!」
いつもの元気な笑顔を顔いっぱいに貼りつけて、悟空が部屋の中に駆けてくる。
悟空に返事をしながら、金蝉は悟空の後ろから入ってきた人影に気付く。
「こんな朝っぱらから何だ。珍しいな」
「ええ、ちょっと」
こちらもいつもの笑顔で、天蓬がゆっくりとした足取りで入ってくる。
その表情に、金蝉は少し嫌な予感がした。
どうも何かを企んでいるような気がする。長い付き合いなので、何となく分かるのだ。
「何の用だ」
「大した事じゃないんですけど……それよりも、悟空がそれに興味津々ですよ?」
そう言って天蓬が指差した先を見ると、悟空が執務机の上の小さな包みをじっと見つめていた。
「ああ……」
気がついたように小さく声を漏らすと、金蝉はその包みをひょいと摘み上げて悟空の目の前に置いた。
「これはお前のだ」
「俺の?」
「ああ」
包みを両手の上に乗せて見ている悟空に、言葉足らずの金蝉の代わりに天蓬が説明する。
「金蝉からのホワイトデーの贈り物だそうですよ。良かったですね、悟空」
それを聞いて、悟空の表情がパッと明るくなった。
この反応から察するに、どうやら『ホワイトデー』の事は既に天蓬から教わっていたらしい。
「ありがとう、金蝉!」
そう言って笑うと、悟空は早速その包みを開け始めた。
「うわー、これ何? 食い物?」
初めて見るらしい食べ物に、悟空は瞳を輝かせている。
「それは『マシュマロ』っていうお菓子なんですよ」
天蓬の言葉に、悟空はマシュマロの1つを手に取る。
「『ましゅまろ』? 食っていいの?」
「お前にやったもんなんだから好きなだけ食え」
「うん!」
答えると、悟空は手にしていたマシュマロを口の中に放り込んだ。
「『ましゅまろ』って甘いんだなー。ありがと、金蝉! すっげー美味い」
「……そうか」
嬉しそうにマシュマロを食べる悟空に、金蝉はホッとする。
悟空に嫌いな食べ物があるとは思えないが、それでも食べた事のないものであるだけに気に入るかどうかは分からなかったからだ。
あっという間に食べ終えてしまったところを見ると、どうやら本当に気に入ったのだろう。
その食べっぷりに、その内また食べさせてやるか、などと思う。
「……さて、それじゃあ僕からのお返しもそろそろ出しましょうか」
その声に、金蝉からの美味しいマシュマロの贈り物にご満悦な悟空と、喜ぶ悟空の顔が見られて満足げだった金蝉の視線が同じ方向へ向く。
「天ちゃんからのお返し?」
「ええ、僕にもチョコくれたでしょう?」
悟空の頭を撫でると、天蓬は白衣のポケットを探り始めた。
それと同時に、金蝉の背後へと回り込む。
「おい、何だ」
「ああ、そのまま前を向いてて下さい」
有無を言わさぬ笑顔でそう言われ、金蝉は渋々前を向いた。
「…………おい」
背後にいる天蓬に、前を向いたまま呼びかける金蝉の声が微かに震えているのは、決して恐怖といったものではなく怒りのためだ。
「はい?」
こちらはあくまで穏やかに笑顔のまま呑気に答える。
「……何をしている……?」
「何と言われましても……僕の悟空へのお返しですよ?」
「何がお返しだ! 大体、何だこれは!」
眉を吊り上げながら、金蝉は顔の横でひらひら揺れているものを掴む。
「ああ、ダメですよ、金蝉。ほどけちゃうじゃないですか」
金蝉の手をを制して、天蓬が困ったように言う。
鏡がないため、金蝉には自分の姿が見えるわけではないが、自分の現在の状態は分かる。
視界の隅で揺れているのは、薄紫色の布。
要は、頭に大きいリボンを結び付けられている状態なのである。
「ふざけんな、さっさとほどけ!」
「まあまあ、ちょっとだけ待って下さい。似合ってますよ?」
「似合うわけねえだろ!」
「似合ってますって。ねえ、悟空?」
天蓬がそう言って悟空に笑いかけたのにつられて、金蝉の視線も悟空の方へと向く。
悟空はというと、楽しそうに金蝉を見ていた。
「うん! すっごく似合ってる!」
無邪気に断言され、金蝉はその場に思わず突っ伏してしまった。
「なあなあ、天ちゃん。お返しってこれ?」
悟空が金蝉に結び付けられているリボンを指差すと、天蓬はにっこりと笑って金蝉の両肩に手を置く。
「リボンそのものではなくて……『金蝉』がお返しですよ」
その言葉に反応したのは、悟空ではなく金蝉だった。
「ちょっと待て! 勝手に人を贈り物にするな!」
「いいじゃないですか。たまには、悟空と遊んであげても」
「仕事が溜まってんだよ。無茶言うな」
「それなら、観世音菩薩に許可を貰って出来る限り他の方に回してもらいました」
「何?」
予想外の返答に、金蝉は天蓬のいる後ろを振り返った。
「他の方面にも手を回して、明日は1日丸々休めるように手配してあります。
悟空と、ゆっくり遊んであげて下さい」
そう言って笑った天蓬を、金蝉は驚いたように見つめた。
まさか、天蓬がそこまでするとは思っていなかった。
天蓬は顔を悟空の方に向けると、殊更優しい笑顔を見せる。
「という事ですので、悟空、明日は1日中金蝉と遊べますよ」
「ホント!?」
「はい。好きなだけ連れ回してあげて下さいね」
それを聞いて、悟空は期待に満ちた目で金蝉を見つめる。
ここまでお膳立てをされた以上、金蝉としてもダメだとは言えないし言う必要もない。
「仕方ねえな。付き合ってやる」
「絶対! 絶対だかんな!?」
執務机に身を乗り出して詰め寄る悟空の頭に、金蝉は軽く手を置く。
「分かってる。明日は好きなだけ相手してやる」
「ありがとう、金蝉!」
「……礼を言う相手が違うだろうが」
「あ、そっか」
悟空は机に乗り出していた身体を一旦引くと、天蓬に向き直る。
「ありがとう、天ちゃん!」
花が咲いたような、と形容するにふさわしい笑顔。
そんな悟空の笑顔を眩しそうに見ながら、天蓬も嬉しそうに笑う。
「いえいえ。僕も悟空に喜んでもらえて嬉しいですよ」
言いながら天蓬は悟空の横まで来ると、悟空の頭を優しく撫でる。
悟空はというと、くすぐったそうな笑顔を浮かべて嬉しそうだ。
「それじゃあ、僕はこれで失礼しますね」
そろそろ戻らないと捲簾に怒られますし、と冗談めかして肩を竦め、天蓬は執務室の扉に手をかけた。
「天ちゃん、ホントにありがとうな!」
「明日はゆっくり遊んで下さいね」
「うん!」
悟空の返事に笑みを深くすると、天蓬は金蝉に一言挨拶をしてから出て行った。
「へへ〜、明日は金蝉と遊べるんだ〜」
ウキウキとした様子で、悟空は執務机に両肘を乗せてその手で顔を支えている。
「……そんなに嬉しいのか?」
「嬉しい!」
一瞬の空白の時間もなく、瞬時に答えが返ってくる。
「だって、金蝉と一緒に遊べる日なんて滅多にないもん!」
「遊ぶっていっても、大した事は出来ねえぞ」
地上と違って、天界には娯楽施設など遊ぶのに適した場所は少ない。
同じ年頃の子供同士であれば木登りなど色々遊びもあるのだろうが、金蝉にはそういった遊びの知識など全くといっていいほどない。
そんな自分と遊んでも、楽しくなどないのではないだろうか、と思うのだ。
「いいよ、金蝉が一緒なら何でも楽しいし」
そう当たり前のように言い切った悟空に、金蝉は驚いたように悟空に目を遣る。
1度大袈裟に瞬きをして、金蝉は横を向いて頭を掻いた。
「……バカ猿」
小さく呟いた言葉に、悟空が途端に頬を膨らませて抗議する。
「猿じゃねえもん!」
「うるさい、猿」
「猿じゃねえってば!」
睨みつけてくる悟空の額を、金蝉は中指でピンとはねる。
「分かったから、明日の計画でも立てとけ。1日だけなんだからな」
それを聞いて悟空はハッとした表情になったかと思うと、くるりと踵を返した。
「俺、ちょっと行ってくる!」
言うが早いか、悟空はあっという間に執務室から駆け出していってしまった。
おそらく、明日遊びに行く場所を決めに行くのだろう。
思いきり張り切っている悟空の姿というのも、なかなかに微笑ましい。
天蓬が少々無理をしても金蝉の時間を空けようとした気持ちが、少し分かる気がする。
あの子供の喜んだ顔というのは、とても心を和ませる。
あの笑顔を見ているだけで、幸せな気分で満たされるような気がするのだ。
人の事を親ばか親ばかと言う割には自分だってそうじゃねえか……と、金蝉は小さく呟く。
おそらくは、今回の仕事の都合をつけるのに捲簾も1枚噛んでいるだろう。
全く、どいつもこいつも悟空に甘いものだ。
自分の事を棚に上げ、金蝉はため息をついた。
後書き。
金空というか、天ちゃんメインっぽいですね、今回。