悟空は両手一杯に抱えた荷物を地面に下ろして、小さく息をついた。
広場に備え付けられたベンチに、身体を投げ出す。
そして、何を見るわけでもなくボウッと視線を前に向けた。
ざわざわと賑やかな往来を、たくさんの人達が行き交っている。
悟空と同じように買い出しに来たらしき人。
駆け回る子供達と、彼らを窘める母親であろう女性。
何人も集まってはしゃいでいる女の子達。
悟空の視線の先を次々と通り過ぎていく。
不意に視線が落ち、何もない地面が目に映る。
いつもならこの程度の荷物くらい何でもないし、色んな食べ物に誘惑されつつも早々に宿に戻る。
けれど、今日はそんな気になれずこうしてベンチに座り込んでいる。
今も頭の中を占めているのは、誰よりも大切なあの人。
悟空がずっとずっと大好きだった、金色。
岩牢から悟空を解放してくれて、それでもなお牢に囚われていた悟空の心も解放してくれた。
「三蔵……」
ポツリと小さく呟く。
三蔵のためだったら何も惜しくない。
ただ三蔵の傍にいさせてくれるなら、それ以上は何も望まない。
そう思っていた……はずだった。
それが揺らぎ始めたのは、いつだっただろう。
多分、三蔵が抱きしめてくれた時だ。
それまでは本当に『保護者』として悟空に接していた三蔵が、初めて悟空を強く抱きしめてくれた。
驚いたけれど、たまらなく嬉しかった。
心臓が壊れそうなくらいドキドキして、押しつけられた胸の暖かさが心地良かった。
嬉しくて幸せで、ふわふわした気持ちになった。
だけど同時に、三蔵の抱擁は何かの種を悟空の中に残していった。
最初は、それに気付かなかった。
小さな小さな、その種。
しかし、その種が芽吹いて悟空の心に絡みつくまで、そう時間はかからなかった。
街で女性が三蔵の見目に惹かれて声をかけているのを見て、胸がざわついた。
悟浄が三蔵にちょっかいを出して怒らせていると、何故だか眉がハの字になる。
八戒と三蔵が真剣に話し合っている時には、つい目を逸らしてしまう。
どれも、いつもの事なのに。
今更気にする必要もないくらい、旅に出てからは日常茶飯事になっている事なのに。
そう理解していても、気持ちが追いついていかない。
そんな自分に、悟空は戸惑うばかりだった。
悟空を見つめたその目で、他の人を見つめるのが嫌で。
悟空を抱きしめてくれたその腕で、他の人に触れるのが嫌で。
だけど、そんな風に思うのは自分勝手だと分かるから、三蔵には言えない。
三蔵は悟空を抱きしめてくれたし、口付けてくれた。
好きでもない相手にそんな事をする三蔵じゃない事くらい、悟空は誰より分かっている。
分かっていても、三蔵が誰かに視線を向けるたびに不安で仕方がない。
三蔵が悟空の事を、悟空が三蔵を想うのと同じ意味で想ってくれるなんて考えた事もなかったから。
全部、悟空の願望が見せた夢だったのではないだろうかと、そんな事すら考えてしまうのだ。
甘い睦言なんて囁くような性格じゃない事くらい、知っている。
だから、言葉をいくつも並べ立てなくていい。
たった一言。
三蔵の口から、聞く事が出来れば。
そうすれば、悟空の中に絡みついている不安という名の蔓は萎れてくれるかもしれない。
完全に枯らす事は出来なくても、その存在を忘れられるくらいには小さくなってくれるだろう。
悟空が「好き」と何十回も伝える、その内の1回だけでいい。
三蔵からも、その言葉を返してほしい。
そう願う事は、悟空の我侭なのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えていると、ふっと悟空の頭上に影が差した。
それと同時にベンチの横に人の気配を感じて、悟空は顔を上げた。
そして、目の前に現れた人に、思わず目を見開く。
「さ、三蔵!」
そう、そこにはいつもの白い法衣姿の三蔵がいた。
「三蔵……何で、ここに?」
悟空がそう尋ねると、三蔵の眉が顰められ、次の瞬間にハリセンの音が響く。
「何でも何もあるか、このバカ猿! てめえこそ、こんな時間までこんなところで何ボケッとしてやがる」
「こんな、時間?」
ハリセンではたかれた頭を押さえながら周りを見渡すと、辺りはすっかり夕陽に包まれて人通りも少なくなっている。
「あ、あれ?」
悟空自身は少し考え事をしていただけのつもりだったのだが、思いもよらず時間が過ぎていたらしい。
「いつの間に……」
小さく呟いたのが聞こえたらしく、三蔵は呆れたようにため息をついた。
「腹が空きすぎて、意識でも失ってたか?」
「そんなんじゃねえよ!」
「だったら、こんなところで何をぼんやりしてやがったんだ」
「それ、は……」
さすがに、つい先程まで考えていた事を他ならぬ三蔵本人に言えるはずもない。
悟空は何も言えずに、視線を下げる。
三蔵はしばらく悟空が口を開くのを待つかのように無言でいたが、1つ息をつくと悟空の頭に手を乗せた。
「とにかく、宿に戻るぞ。さっさとしねえと、八戒までてめえを捜しに飛び出しかねんからな」
「うん……」
返事をして立ち上がろうとして、悟空は三蔵のセリフに少し引っ掛かりを覚えた。
「……八戒『まで』って……三蔵も俺を捜しに来てくれたのか?」
「……八戒のヤツに追い出されたんだよ。捜して来い、とな」
「そっか……」
八戒に言われただけなのだと分かって返事に落胆の色が混じり、悟空は僅かに慌てた。
しかし幸い、三蔵の方は気付かなかったらしく、特に変化は見られない。
捜してくれた事だけでも、嬉しい事であるはずなのに。
どうして、三蔵が積極的意思で動いたわけじゃないというくらいで、こんなに胸がチリチリと痛むのだろう。
「おい、悟空?」
何歩か進んだところで、三蔵が振り返っている。
悟空は我に返ると、荷物を抱えて小走りで三蔵の元へ追いついた。
そして、殊更軽い調子で大声を出す。
「あ〜! 腹減った〜!」
「やかましい! メシが遅くなったのは誰のせいだと思ってやがる!」
またもやスパーンとハリセンの音が鳴り響き、悟空は抗議の声を上げる。
「バシバシ叩くなよー! このぼーりょくぼーず!」
「……もう2、3発食らいたいか?」
「ぼーりょくはんたーい!」
再びハリセンを構えた三蔵から逃げるように悟空は駆け出す。
これでいい、と思う。
普段通り、こうしていればいい。
あんな事、三蔵には言えない。
言ったら、きっと呆れられるから。怒るかもしれない。
いや、それよりも何よりも、自分の中のこんなグチャグチャの気持ちを三蔵に知られたくない。
悟浄や八戒にまで嫉妬している、こんな醜い気持ちなんて。
だから、悟られないように、いつも通りに振舞っていかなければいけない。
胸の痛みは、ずっと消えなくても。
宿で夕食を済ませ、悟空は部屋へと戻った。
今日は2人部屋で、三蔵と同室だ。
いつもなら嬉しい部屋割りが、今日は少し辛い。
まだ、昼間に考えていた事が頭の中から抜け切っていないからだ。
こんな日はさっさと寝てしまおうと、悟空は早々にベッドに入ろうとした。
「おい、悟空」
背後から声をかけられて、一瞬過剰とも言える反応を返してしまう。
「な、何、三蔵?」
「……俺が呼んでるんだから、こっちを向いて返事しろ」
悟空は一瞬迷ったが、三蔵の声に僅かに苛立ちが含まれているのを感じ取り、諦めて振り返る。
悟空の目に映った三蔵は、声に感じ取った通りの苛立った顔をしていた。
鋭い視線に射竦められ、悟空はその場に固まってしまった。
しばらくは無言で悟空を見つめていた三蔵であるが、1度目を閉じてからゆっくりと開く。
「お前、何を隠してやがる?」
真っ直ぐに視線と声で射抜かれて、悟空はビクリと身体を竦ませた。
「隠す……って……何、を……?」
「それを訊いているのは俺だ」
何も答えられないでいる悟空に視線を固定したまま、三蔵は続ける。
「今日もそうだろう。あんなわざとらしい演技で、俺が騙されるとでも思ってんのか?」
「それは……」
気付かれていないかと思ったが、やはり気付かれていたらしい。
考えてみれば、悟空が三蔵相手に誤魔化そうなんて最初から無理があったのかもしれない。
「お前の様子がおかしい事に、この俺が気付かないわけねえだろうが」
ため息混じりに言われた言葉に、悟空は小さく反応を示す。
それは、三蔵にとって自分が特別だからだと考えてもいいのだろうか。
それとも、単にずっと長い間面倒を見てきたから……それだけの事だろうか。
前者だと思いたい。だけど、今の自分は後者だとしか思えない。
最初に抱きしめて口付けてくれたあの時以来、三蔵は全くそんな素振りは見せてくれないから。
自分は、こんなに三蔵が好きなのに。
好きな気持ちが大きくなればなるほど、苦しさも増していく。
あんな風に抱きしめておきながら全く変わらない三蔵が、憎らしく思えてくる。
こんなにも三蔵の事を好きにさせといて。
どうして、そんな淡々とした態度で接するのか、と。
そんな理不尽とも言える憤りが、悟空の中に生まれる。
「好きなんだ……」
「悟空?」
「俺、本当に三蔵が好きなんだよ……」
小さく呟いた悟空に、三蔵は珍しくも返す反応に迷っている風だった。
「……何、今更そんな事言ってやがる」
返された言葉に、悟空はギュッと拳を握りしめた。
「『今更』!? 何で、『今更』だなんて、そんな事言うんだよ!?」
「おい……?」
「三蔵にとってはそんなもんなのか!? 俺が何度『好きだ』って言っても、三蔵は嬉しくも何ともないのかよ!?」
驚いたように悟空を見ている三蔵を見返しながら、悟空はなおも言い募る。
「嬉しくもないくらい俺の事どうでもいいんだったら、何であんな事したんだよ!
あんな事するから、俺、期待したり不安になったりグチャグチャになっちゃうんじゃないか!」
握りしめた手が震えているのが自分でも分かる。
涙が溢れそうになるのを必死で堪え、悟空は俯いて唇を噛みしめた。
自分ばかりが三蔵の事を好きで、三蔵はそれほどには思ってないんじゃないか。
そんな不安が、ずっと悟空の内に燻り続けていた。
三蔵にそれを打ち消してほしいのに、三蔵はずっと黙ったままだ。
「何で……何で、何も言ってくれないんだよ……」
たった一言でいいのに。
それすらも必要ないと思うほど、三蔵の中で自分の存在は軽いのだろうか。
微かに三蔵がため息をついたのが分かる。
本当に呆れられたのかもしれない、と悟空はますます情けない気持ちになった。
そして、もう三蔵の気持ちは自分にはないのかもしれないと思うと、泣きたくなった。
「……ごめん。俺、今日はあっちで寝かせてもらうから……」
これ以上三蔵の前にいられなくて、悟空は俯いたままドアへと向かう。
ゆっくりとノブを掴もうとした時、横から伸びた手が悟空より先にノブを押さえてしまった。
「……三蔵?」
予想外の行動に、悟空は三蔵を振り仰ぐ。
その表情は普段と変わりない不機嫌そうなものだったが、しかしどこかが違う気がした。
「散々好き放題言いやがって。言うだけ言ってさっさと逃げる気か?」
ノブから離れた手が、今度は悟空の手首を掴む。
「『何も言ってくれない』、だと?」
手首を掴む手に力が篭り、悟空は走った痛みに微かに表情を歪める。
そして次の瞬間、悟空の視界が塞がれた。
三蔵に抱きしめられていると認識できるまでに、少し時間がかかった。
「さ、さん……」
「てめえ、俺と何年一緒に暮らしてやがる」
名前を呼ぼうとしたのを遮り、三蔵が不機嫌そうな声で呟く。
ギュッと頭を胸に押しつけられると、悟空の胸が痛くなった。
「言わなきゃ分かんねえのか?」
搾り出すように告げられた言葉に、目の前がぼやけた気がした。
雫が零れ落ちる前に、三蔵のアンダーシャツに吸い込まれていく。
抱きしめてくれるその腕は暖かく、聞こえたその声は痛みに耐えるように辛そうだった。
「三蔵……。ごめん……ごめん、俺……」
三蔵にしがみついて、悟空はひたすら謝った。
三蔵を信じなかった。
ちゃんと、想ってくれていたのに。
自分の苦しさに精一杯で、三蔵の気持ちを考えなかった。
そして三蔵を傷付けてしまった事を、心の底から後悔した。
不意にしがみついていた身体を引き離され、悟空は三蔵を見上げた。
同時に近づいてくるその端正な顔に、悟空は思わず目を閉じる。
触れるだけの口付けの後、そっと目を開けると至近距離で三蔵と視線が合ってしまった。
悟空が真っ赤になって俯くと、三蔵は悟空の頭をクシャクシャと撫でて自分のベッドの方へ戻ってしまった。
子供扱いされた気がして少々釈然としない気持ちにはなったが、今はただあの日以来初めて触れた三蔵の気持ちの方が嬉しかった。
何となく今日は三蔵の傍から離れたくなくて、悟空はベッドに横になろうとしている三蔵に駆け寄った。
「なあ、三蔵。俺もこっちで寝ていいか?」
三蔵のベッドの端に手をついて、そう尋ねてみる。
「……ダメだ」
「えー! 何でだよ!」
悟空の抗議の声も意に介さないかのように、三蔵は向こう側を向いたままだ。
「こんな狭っ苦しいベッドで、寝相の悪いバカ猿と一緒になんぞ寝られるか」
「……ケチ」
「やかましい、さっさと寝ろ!」
これ以上食い下がっても無理だと判断し、悟空は渋々自分のベッドに戻る。
その時、微かに三蔵が呟くのが聞こえた。
「……俺の今までの忍耐をぶち壊そうとしてんじゃねえ……」
「え? 何、三蔵?」
「何でもねえ! とっとと寝ろ、バカ猿!」
どうして怒鳴られなければいけないのだろうと思うが、いつもの事なので深くは考えずにそのままベッドに入る。
望んでいたような言葉は聞けなかったけれど、その温もりで教えてくれたのだと思う。
きっと、これからも不安になる事はあるだろう。
だけど、少しは三蔵に愛されている自信が持てたから。
もう大丈夫。
今はそう素直に信じられる。
おやすみ、三蔵。
そう小さく呟いて、悟空はゆっくりと目を閉じた。
後書き。
「4周年記念ミニ企画」第8弾。