迷い道



大きな紙袋を抱え、八戒は賑やかな街の通りを歩いていく。
殊の外若い女性の姿が多いその理由は、彼女達が群がっている店に目を向ければ明白だ。
八戒はふと足を止め、その店を見やる。

色とりどりのラッピングが施されたチョコレートを、彼女達は時にはしゃぎながら、時には真剣に、いくつも見比べては選んでいる。
ほんのりと頬を染め、嬉しそうにチョコレートを手に取る女性達の姿は、とても微笑ましい。

と同時に、そのチョコレートを受け取るであろう男性達をほんの少し羨ましく感じてしまう。
きっと、自分は最も貰いたい人物からは貰えないだろうから。
小さくため息をつくと、八戒は再び視線を戻して歩き出した。



八戒は想い人の笑顔を思い浮かべる。
大切な、とても大切な人。
太陽のような眩しい笑顔と純粋な瞳で、八戒を捕らえて離さない。
絶対に叶うはずなどないと知っていたから、告げるつもりはなかった。
彼の────悟空の気持ちの行く先は、きっと三蔵に違いないから。
あの2人の絆を、八戒は痛いほどに知っている。
だから、受け入れられるはずなどないこの気持ちを、口に出す事など出来るはずもなかった。

三蔵には、悟空はチョコレートをあげるのだろうか。
そもそも、悟空が『バレンタイン』を知っているかすら怪しいところではある。
三蔵の性格から考えて、その手のイベントをわざわざ悟空に教えるとは思えない。
知っている可能性があるとすれば、悟浄が何かを吹き込んだか、街で見聞きしたか。

そこまで考えて、八戒はふっと自嘲気味の笑みを浮かべる。
悟空がバレンタインを知っていようがいまいが、何かが変わるわけではない。
例え知っていたとしても、そのチョコレートが八戒に届けられる事などないのだから。

伝えられない想いを抱え続けるのは辛かった。
何度、いっそ全てを打ち明けてしまおうと思った事か分からない。
けれど、それは今の関係の崩壊を意味する。
崩壊した関係のまま、西への旅を続けていく事など出来ないだろう。
だから、言えない。

……いや、それが建前だという事を、八戒は知っている。
本当は、怖いだけだ。
はっきりとした拒絶が。想いを拒否される絶望が。
ただ……怖い。

どんどん思考が後ろ向きになっていくのに気付き、八戒は軽く首を振る。
こんな事を考えていても仕方がない。
今はただ、悟空の傍にいられるだけで満足するべきだ。
想いが届かなくても、悟空の傍で見守り、その信頼を得られる立場にいる。
それはきっと、とても幸せな事であるはずだから。
近くで悟空の笑顔を見ていられる今の距離を、大切にしていけばいい。
それが、例え引き裂かれるような痛みと切り離せない幸福だとしても……。





宿に戻った八戒は、部屋で荷物の整理を始めた。
何かしていないと、不毛な思考に埋め尽くされそうになるからだ。
いつもなら、この先の行程を話し合うために三蔵の部屋へ向かうのだが、今日はそんな気にはなれなかった。

あらかた整理を終えた頃、ドアをノックする音が聞こえた。
「八戒? いる?」
聞いていて心地良い、けれど今は何となく聞きたくなかったその声に、八戒は少し反応が遅れた。
「八戒ー?」
繰り返される呼び声に八戒が慌てて返事をすると、ドアが開いて悟空が顔を覗かせた。

「良かった、やっぱ帰ってたんだ」
そう言って部屋に入ってくる悟空の手には小さなお盆があり、その上には陶器のカップが湯気を燻らせながら乗っている。
「荷物の整理、してたのか?」
片付けられた荷物の傍に膝を着いている八戒を見て、悟空が尋ねる。
「ええ。でも、もう終わりましたから」
八戒は立ち上がると、悟空をテーブルへと誘導した。

悟空は片手で盆を持つと、その上のカップをもう片方の手で取り、そっとテーブルの上に置く。
1つしかないそのカップに、八戒は首を傾げる。
そんな八戒の様子を見て、悟空は僅かに俯きがちになって呟く。
「……これ、八戒に飲んでもらおうと思って」
「僕に? 悟空はいいんですか?」
「うん、俺はいいんだ」
視線を合わせようとしない悟空に疑問を感じながらも、八戒はゆっくりと椅子に座る。
理由は分からないが、悟空が八戒にこんな風に飲み物を淹れてきてくれた事など初めてだ。
それが嬉しくて、知らず表情が緩んでしまったとしても仕方がないところだろう。

向かい合うように悟空も席に着いたのを確認して、八戒は悟空が持ってきてくれたカップを手に取った。
「それじゃあ、頂きますね」
にっこりと笑って八戒はそれを口元に運ぼうとして、気が付いた。

鼻腔をくすぐる、甘い匂い。
コーヒーを淹れてくれたのだと思い込んでいたが、この匂いはどう考えてもコーヒーのそれではない。
むしろ、この甘い匂いは……。

まさか、という思いで悟空を見ると、悟空は思いの外真剣な顔で八戒を見つめていた。
しかし、八戒と目が合った途端、慌てたように視線を外す。
そんな悟空の様子に、鼓動が早さを増した気がした。

再び視線をカップに移し、八戒は殊更ゆっくりとカップに口をつけた。
口に含んだ瞬間、口内に広がったトロリとした舌触りと程よい甘さ。
それが指し示す答えは1つしかない。



ホットチョコレート。



偶然だ、と自分を言い聞かせようとする傍らで、こんな偶然などあるはずがない、と囁く声が聞こえる。
よりによって、バレンタイン当日。
たまたま悟空が気遣いで持ってきてくれた飲み物が、たまたまホットチョコレートだったなんて事があるのだろうか。

偶然じゃなくて、全てを知った上での悟空の意思なのだと、そう信じ込んでしまいたい。
けれど、期待をしてそれが裏切られる事が怖い。

そんな風に八戒が考え込んでいると、悟空が遠慮がちに八戒の名を呼ぶ。
ハッと視線を悟空に向けると、悲しさを隠し切れないような笑顔で悟空が八戒を見ていた。
「……あの、さ。あんまそういうの好きじゃないとかだったら、無理して飲まなくていいからさっ」
一口飲んだきり、八戒が黙ったまま動かないのを見て、口に合わなかったと誤解してしまったらしい。
「あ、いえ! 違うんです! コーヒーだと思ってたのでちょっと驚いただけで……」
下手をするとそのままカップを持っていかれそうな気配を感じて、八戒は焦ってカップを持ち上げる。
「とても美味しいですよ。……ありがとうございます、悟空」
そう言って意識的に優しげな笑顔を見せ、八戒はそのホットチョコレートを再び飲み始めた。



甘い、甘いチョコレート。
けれど、それは決して甘いだけではなく、微かな苦みも八戒に与える。
期待。諦め。怖れ。喜び。
色んな感情がない交ぜになって、八戒の中で渦巻く。



全て飲み終え、八戒は静かにカップを置く。
「ありがとう、悟空。美味しかったですよ」
「ホ、ホントか?」
「ええ。甘すぎなくてとても飲みやすかったですよ」
八戒が笑顔でそう告げると、悟空はホッとしたように笑った。
「そっか、良かったー」
そう言って息を吐いた悟空が、空のカップを手に取って嬉しそうにしている。

「……どうして、僕にこれを持ってきてくれたんですか?」
不意に投げかけられた質問に、悟空の身体が僅かに揺れる。
八戒自身、尋ねるつもりなどなかった。
ただ、今の悟空の嬉しそうな様子を見て、無意識に口に出してしまっていた。
その根底にあるのは……おそらく、『期待』。
あるはずがないと思っていても、ほんの僅かでも可能性を見せられれば、誰でもそれに縋りたくなるものだ。

可能性を見出したなら自分の想いを告げればいいのに、悟空を試すような物言いをしてしまう自分が嫌だった。
結局のところ、拒絶を怖れている事に何ら変わりはない。
こんな訊き方は卑怯だと、分かっているのに。

俯いている悟空に気付かれないように、八戒は小さく首を振った。
「……すみません、おかしな事を訊いて。気にしないで下さい」
そう言って笑って見せると、悟空は顔を上げ、何かを言いたそうに口を開いた。
「あ、あのさ、八戒、俺……」
真っ直ぐに見つめられ、八戒の鼓動が一際強く音を立てる。
しかし、視線はすぐに逸らされ、言葉が継がれる事もなかった。

「……何でもない。えっと、俺、これ、片付けてくるな!」
悟空は早口でそう告げると、カップを持ったまま勢い良く立ち上がった。
一瞬、引き止めようと腰を浮かしかけるが、躊躇した間に悟空は慌てたように部屋を出て行ってしまった。





悟空がそのまま部屋を出て行ってしまった事に、落胆すると同時に安堵も覚える。
引き止めて、一体どうするつもりだったのか。
何を言うつもりだったのか。
自分の取る言動すら予測できない事が情けなくて仕方がない。

それでも、悟空のくれたホットチョコレートは、八戒にいくつかの道を示してくれたのだと思う。
1つしかないと思っていた道に、分かれ道を作ってくれた。
それぞれの道が、どんな未来に繋がっているかは遠すぎて分からない。

自分は、道を間違えずに歩けるだろうか。
いや、そもそも八戒が望む未来に行ける道があるとは限らない。
けれど、それならせめて、いつかその未来に至る道を自分で作れるように強くなろう。





ホットチョコレートの甘さと苦さを思い出し、八戒は椅子の背に凭れ、ゆっくりと目を閉じた。










END












後書き。

初のバレンタイン八空です。
なのに、珍しくも甘さ成分控えすぎの話が出来上がりました。
くっつくと激甘な2人だけに、甘さが少ないと余計に暗く見える……。
出来上がる前の、ちょっとした(?)探り合いみたいな感じですが、端から見るとどう見ても両想い。
気付いてないのは本人達だけっぽい。




2007年2月14日 UP




短編 TOP

SILENT EDEN TOP