心の天秤



すっかり日が落ちてからようやく街に辿り着き、急いで宿を探した。
運良く空いている宿を見つけ、4人は息をつく。
「……え、また三蔵と悟浄が同室なのか?」
部屋割りを聞いた悟空の口から出た声には、隠しようもない落胆の色が感じられた。
「お前のでけえいびきが同じ部屋にあると、寝不足になるんだよ」
悟浄が悟空の頭をぐりぐりと押さえながら、からかうように言う。
「で、でも、それじゃあ八戒が……」
「僕なら平気ですよ。一旦寝たら気になりませんから」
言い掛けた悟空の言葉を、八戒は笑顔で遮った。
「だったら……いいけど、さ」
出したセリフとは裏腹に、しょんぼりとした顔で悟空が呟く。

そんな悟空の様子を見て、八戒は僅かに目を伏せた。
悟空が三蔵と同室になりたいのだという事は分かっている。
分かっていて、八戒は敢えてそれに気付かない振りをした。
八戒がそうしようと思えば、部屋割りを変える事くらい簡単に出来る。
しかし、それを口に出す事は出来なかった。

悟空の気持ちの向く先が自分ではない事くらい、理解している。
だけど、感情はそう易々と整理できるものでもない。
悟空を三蔵と同室にしてあげれば、悟空はとても喜ぶだろう。
その喜ぶ顔が、見たいけれど見たくない。
悟空が笑っていてくれると嬉しいけれど、三蔵の事で笑っている悟空を見るのは辛い。

想いが届かない事を、思い知らされてしまうから。




部屋の中で、悟空はどこか拗ねたような表情で椅子の背凭れを抱きしめるようにして座っている。
その視線が向く先にあるのは、壁。
そして、その壁の向こうには、三蔵と悟浄がいる。
悟空が壁を通り抜けた向こうにいる人物を見ているのが分かり、八戒は小さくため息をつく。
同じ部屋にいてさえも、悟空は自分を見てはくれない。
ただひたすら、三蔵にだけその視線は注がれる。

こちらを向いて欲しくて、八戒は悟空の傍のテーブルに淹れたてのお茶を置く。
「はい、悟空。お茶ですよ」
「……ん……」
しかし、悟空が振り向く事はなく、身動きすらしない。
八戒の言葉をちゃんと理解出来ているかも怪しい。

そんな悟空の姿に、八戒の心に小さな苛立ちが湧く。
何故、部屋が分かれてさえこちらを見てくれないのだろう。
別に、特別な事など望んでいない。
ただ、2人だけで他愛のない会話がしたいだけなのに。
そんなささやかな楽しみさえ、自分には与えられる価値がないというのだろうか。

「……悟空……」
小さく呼びかけてみても、悟空に反応はない。
おそらく、意識が完全に向こうに集中しているために聞こえていないのだろう。
胸の奥が、チリチリと焦げる音が聞こえる気がする。
こんなに近くにいるのに、悟空の意識の外に追いやられている事を認めたくない。
認めたくないのに、無反応の悟空に無理やり認めさせられる。



「悟空」
もう一度呼んでも、悟空はただ壁を見つめるばかりだ。



──どうしてですか。

──どうして、すぐ傍にいる僕をその視界にすら入れてくれないんですか。



「……悟空!」

同時に、椅子に座る悟空の腕を掴むと、弾かれたように悟空が振り向いた。
「え、と……ど、どうしたんだよ、八戒?」
悟空は何が何だか分からないといった様子で、目を瞬かせている。

八戒としても、殆ど無意識の行動だったので自分自身驚いている状態だ。
ただ、切なそうな目でじっと壁を──壁の向こうにいる三蔵を見つめている悟空を見ていたら、たまらなくなった。
自分はこんなにも傍にいるのに、と。
こんなに悟空の事を想っているのに、どうして……と。

「……ああ、すみません、驚かせて。何度呼んでも反応がないものですから……」
笑顔で繕おうとしたが、ひょっとしたら不自然になっていたかもしれない。
しかし悟空はそれに気付いた様子はなく、困ったように笑った。
「あ、ごめん八戒。俺、なんかボーっとしちゃってて」
そう言いかけて、テーブルの上のお茶に気付いたらしく悟空はそれを手に取った。
「ホントごめん。折角お茶入れてくれたのに」
「いえ、僕が好きでやってる事ですから」
「ありがとな、八戒」
顔一杯に笑顔を浮かべる悟空に、八戒は暖かさと痛みを感じた。

僅かな沈黙の後、悟空がポツリと呟く。
「三蔵は、もう俺の事なんてどうでもいいのかな……」
「悟空……!」
口に出すつもりはなかったのだろう、悟空はハッと我に返ると大きく両手を振った。
「あ、ごめん……そうじゃない事は分かってるんだ!」
慌てて否定した後、悟空は微かに俯く。
「分かってるんだけど、最近、さ。三蔵はいっつも悟浄と同室で、普段も三蔵と悟浄が喋ってると時々入れなくなるんだ」
寂しそうに話す悟空を、八戒はただ黙って見つめていた。

悟空の感じている疎外感。
それは、確かに「気のせい」だけで済ませられるものではないのだろう。
八戒もいつも傍にいるからこそ分かる。
三蔵と悟浄の間に流れる、出逢った頃とは違う空気が。
悟浄が以前から三蔵を好きな事は八戒も知っていたが、三蔵も悟浄の想いに応え始めているようだ。
意外と感受性の強い悟空は、その2人の雰囲気を感じ取ってしまっているのだろう。

「俺、今まで三蔵の1番近くにいるのは俺だって思ってたんだ」
それは自惚れではなく事実だったのだろうと、八戒も思う。
「でも、もう違うのかな……」
悟空は膝の上の両手をぎゅっと握りしめる。
「嫌なんだ……! 俺、三蔵が離れてっちゃうなんて、嫌だ……!」
搾り出すように言葉を紡ぐ悟空を見て、八戒もまた自分の両手を握りしめた。

自分だったら、迷わずに全てを抱きしめてあげられるのに。
けれど、悟空の想いを一身に受けている相手は自分ではない。
この両手を、悟空は望んでいない。
その事が、たまらなく胸に痛かった。



──どうか、僕を見て下さい。



口に出せない想いが、キリキリと胸を締め付ける。
いっそ、目の前で小さく震えている身体を抱きしめたい。



「なあ、八戒。俺、どうしたらいいのかな」
悟空の手が、八戒の服の袖を掴む。



そんな泣きそうな瞳で見上げないでほしい。
そんな残酷な問いかけをしないでほしい。
悟空の望む答えをあげられるほど、自分は感情のコントロールが上手いわけじゃないから。



「俺、どうやったら、ずっと三蔵の傍にいられるのかな……?」
両手で縋るように八戒の袖を掴む悟空に、知らず八戒の身体が震える。
「僕、は……」
零れ出た声は弱々しく、続きを発する事なく消えていく。

「なあ、八戒、教えてくれよ……!」
袖を握る手に力を込めて、悟空は必死の表情で八戒を見上げる。



──それを、僕に訊くんですか……?

──僕以外の男の傍にいられる方法を、僕に教えろって言うんですか……?



それがどんなに残酷な事か分からずに、悟空は真っ直ぐに八戒を見つめている。
八戒はいっそ泣き出してしまいたい気持ちでいっぱいだった。
もちろん、そんな事は出来ないけれど。

ああ、早くここから逃げ出してほしい。
この部屋を飛び出して、三蔵と悟浄の部屋へと部屋割り変更を訴えてくればいい。
これ以上こんな悟空を見ていたら、自分の感情を抑えられなくなる。
言ってはいけない。
分かっているのに。分かっているはずなのに。
冷静な思考が熱っぽい感情にじりじりと侵されていく。


「悟空……」
呟いて悟空と真正面から視線が合った瞬間、ドクン、と鼓動が一際大きく鳴った気がした。


大きな音を立てて椅子が転がり、同時に悟空が痛みを訴える声が小さく聞こえた。
床に悟空の両肩を強く押し付け、八戒は悟空を見下ろしていた。
「は、八戒……?」
八戒を見上げる悟空の目には、明らかな戸惑いの色が見える。
おそらく、八戒の突然の行動を計りかねているのだろう。

黙ったまま悟空を見下ろす八戒に、悟空の表情に微かな怯えが混じる。
ここまで顕著な八戒の様子の変化に気付かないほど、悟空は鈍くはない。
「八戒……ど、どうしたんだよ……?」
悟空が起き上がろうと身体に力を込めても、八戒はそれを許さずに悟空を押さえ付ける。

自分は今、どんな顔をしているのだろうと思う。
泣きそうな顔をしているだろうか。それとも、酷く冷たい表情をしているのだろうか。
悟空の様子からそれを推し量る事は、今の八戒には出来ない。

だけど、悟空が今の八戒をどう見ていても、もう感情を隠し続ける事は出来ない。
それが例え、今までの仲間としての関係を全て壊す事になっても。

「悟空……」
小さく名を呼ぶと、悟空の身体がビクリと震えた。
その事に僅かに目を伏せ、八戒は悟空の身体をギュッと抱きしめた。




「僕じゃダメなんですか?」




「はっ……かい……?」
悟空が次の言葉を発するのを怖れるように、八戒は悟空を抱きしめる腕に力を込めた。
「僕では、ダメなんですか? 僕では、三蔵以上の存在にはなれませんか?」
「八戒……ど、どうしたんだよ。何言って……」
「僕は! 僕は、ずっと悟空を想ってきたんです……!」
搾り出すように、自分の想いを口に出す。
「悟空が三蔵の傍にいたいと思うように、僕は悟空の傍にいたいとずっと思ってきたんです……」
悟空を抱きしめている腕が震えているのが、自分でも分かる。
止めようとしても、震えは一向に止まらない。
その震えは多分、この後に悟空から向けられるであろう拒絶への恐怖。

そのまま、しばしお互い無言の時間が流れた。
10分ほども過ぎただろうか、それとも1〜2分の事だったか。
「……八戒」
名を呼ばれ、八戒は腕を緩め、僅かに身を離す。
悟空の両目が、真っ直ぐに八戒を見つめている。
その視線が痛くて、八戒は微かに目を逸らした。

悟空は起き上がって、八戒と向かい合うような形で床に座る。
「八戒。俺、正直まだよく分かんねえ」
「……はい」
「でも……嫌だとかは思わなかったよ」
「え?」
八戒が顔を上げると、悟空が困ったように笑っていた。

「俺さ、三蔵を好きだし、ずっと傍にいたいと思ってた」
悟空が話すのを、八戒は黙ったまま聞く。
「でもさ、八戒が俺の傍にいたいんだって言ってくれた時も嬉しいと思ったんだ」
「悟空……それは……」
「俺、結局まだ分かってないんだと思う。三蔵や八戒の事を、『どういう意味で好き』なのか」
ガキだからさ、と俯く悟空に手を伸ばしそうになって、八戒は自分の左手で右手を押さえる。

「いつになったら答えが出るか分かんねえし、八戒が望む答えが出せるかも分かんねえ」
悟空は俯いたまま、それでも一言一言確かめるように口に出していく。
「でも、もし八戒がそれでもいいって言ってくれるなら、もう少し待ってくれないかな……」
そこまで言うと、悟空はパッと顔を上げた。
「すっげえ勝手な事言ってるって分かってるよ。けど俺……」
言いかけた悟空を遮るように、八戒はふわりと悟空を抱きしめた。
先程のようにキツく抱きしめるのではなく、柔らかく包み込むように。

「……嫌では、ないんですよね?」
「……うん」
悟空のその答えを聞くと、八戒は悟空の身体を離して微笑んだ。
「今はそれだけ聞ければ十分です。ありがとう、悟空」
八戒がそう告げると、悟空はようやく安心したような笑顔を見せた。





完全な拒絶を覚悟していただけに、受け入れる余地を残してくれた事が嬉しかった。
今はまだ三蔵に対しても、親愛と恋愛の狭間で揺れ動いている時期なのかもしれない。
それなら自分にも、まだ望みはあるのだろうか。
未だ不安定な位置にいる悟空のその手を、引き寄せるチャンスがあるのだろうか。

ある、と信じていたい。
どちらにしろ、もうこの想いを止める事は出来ないだろう。
可能性を、見てしまったから。
想いを成就させる可能性が残されている事を、知ってしまったから。

今は、ただ努力をしていこう。
悟空の手が、いつか自分の背中に回される日が来る事を信じて。



目の前の笑顔を見つめながら、八戒は心の内で密かな誓いを立てた。










END










後書き。

「4周年記念ミニ企画」第12弾。
お題は「僕じゃダメなんですか?」。
久し振りの八戒片想い話です。んもう、切ない八戒書くの大好き。
しかし今回は完全片想いではなく、まだ望みがある片想い。
悟空の心はゆらゆら揺れ動いてる状態です。というか、三蔵への感情は多分親愛。
きっとこれから八戒は頑張って、悟空の愛情を得ていく事でしょう。
リクエスト下さった方が望んでらっしゃったのがこういうのか分かりませんが、少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。




2005年9月23日 UP




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