人々のざわめく通りを、八戒はメモを見ながら歩いていた。
割と大きな街なので、折角だから買い溜めしておこうと悟浄、悟空と手分けして買い出しに出かけたのである。
既に殆どのものは買い揃えており、後は街の中心部の広場前にあるディスカウントショップで細々としたものを買うだけだ。
八戒は荷物を抱え直すと、広場の方へと方向を変えた。
広場周辺はさすがに人が多く、親子連れやカップルがあちこちにいる。
比較的カップルが多いのは、今日がホワイトデーだからだろう。
いっそ三蔵達に何か、とも思ったのだが、今年はバレンタインで既に遊んで……もとい贈っているのだから別にいいだろうと思って何も用意しなかった。
それよりも、悟空が何かバレンタインのお返しを考えてくれている様子なのでそれが楽しみで仕方がない。
それを思うと、自然と八戒の笑顔もいつにも増して柔らかいものになる。
この上機嫌も、ホワイトデーに何も企画しなかった理由の一因であるかもしれない。
広場を何気なしに見ながら歩いていると、中央にある大きな噴水のところに見知った人影を見つけた。
それがこの場所に余りにそぐわない人物で、八戒は一瞬見間違いかと思う。
だが、どうやらそうではない事を確認すると、方向転換をして噴水の方に足を進めた。
「三蔵、こんな賑やかなところにいるなんて珍しいですね」
噴水の淵に腰掛けている三蔵の隣に座り、八戒は声をかける。
「……ああ、休憩がてらな」
確かに今日は三蔵は朝から出かけていた。
おそらく八戒からまた何か『プレゼント』を寄越されるのを危惧していたのだろうが、外で会ってしまうのだから皮肉なものである。
もっとも、今日は八戒も何も企んではいないので三蔵の杞憂ではあるのだが。
八戒もいい加減疲れていたので便乗して休憩していこうと、荷物を下ろす。
三蔵も珍しく何も言わずにそのまま何を話すでもなく、ぼうっと広場を眺めていた。
「おい、八戒」
「何ですか?」
不意に声がかかり、三蔵の方を振り向くと、三蔵は八戒の方に手の平を上に向けて差し出している。
それを見て三蔵の意図するところを察した八戒は、荷物の中からマルボロを1つ取り出した。
後ろで突然大きな水音が聞こえて見てみると、丁度噴水が激しく吹き出してきたところだった。
1度それに目をやると、八戒はすぐに意識を三蔵に戻して、三蔵の手の平の上に煙草を乗せた。
「? 三蔵?」
煙草を手に乗せたまま硬直したかのように動かない三蔵に、八戒は呼びかけてみた。
「三蔵、どうかしたんですか?」
石になったかのような三蔵に少々心配になった八戒は、軽く三蔵の肩を揺する。
「八戒……」
ようやく口を開いた三蔵に八戒がホッと息をついたのも束の間、次の瞬間には八戒自身が硬直してしまった。
「ささささささささ三蔵!?」
何が何だか分からないくらいの狼狽を露にしつつ、八戒は目の前の相手を見ていた。
それもそうだろう。
三蔵が八戒の手を握って熱い視線でじっと見つめるなどという、とんでもない真似をかましてくれたのだから。
「さ、三蔵っ、どうしちゃったんですか!?」
突然の三蔵の豹変ぶりに、八戒は冷や汗を流しつつうろたえる。
どう考えてもいつもの三蔵ではない。
というよりも、あからさまに壊れている。毒キノコでも食べたかのようだ。
「八戒、俺はお前を……」
熱い視線のまま何かを言い始めた三蔵だが、八戒としてはこの先は非常に聞きたくない。
周りの視線が集まっているという事もあるが、この上なく嫌な予感がする。
「三蔵! と、とにかく一旦宿に戻りましょう!」
そう言うと、八戒は置いておいた荷物を抱えてもう一方の手で三蔵の手を引っ張って広場から早足で離れた。
何とか宿に帰り着くと、八戒は三蔵を連れたまま急いで自分の部屋に向かった。
この状態を悟浄や、まして悟空には絶対に見られたくない。
何しろ2人とも三蔵に想いを寄せている。
原因は分からないが、あの2人が今の三蔵を見たらと思うと恐ろしい。
特に玄関口で会った宿の主人に聞いたところ、悟空は既に宿に戻ってきているらしいから尚更だ。
とにかくその原因を調べないと、どうしようもない。
三蔵がおかしくなったのは、あの広場で煙草を手渡した直後だ。
だが、煙草は極普通のマルボロだし、今こうして見ても何も細工のようなものは見られない。
となると、あの広場だろうか。
しかし、あの時あの広場には大勢の人間がいた。
その中でどうして三蔵だけがおかしくなったのか。
それとも、八戒がパニック状態で気付かなかっただけで他にもおかしくなった人間がいたのだろうか。
その辺を調べれば何か分かるかもしれないと思い、八戒はもう1度広場に行ってみようかと考えた。
そんな風に考え事をしていたせいか、腕を思いきり引っ張られたと気付いた時にはもう八戒の身体は大きく移動していた。
ドサリと音を立てて倒れた先は……ベッド。
「三蔵!? な、何するんですか!?」
「八戒……」
八戒は今の自分の置かれた状況に再び慌てる。
要は、ベッドに押し倒されているのである。
「三蔵! 正気に戻って下さいってば!」
三蔵を押しのけて立ち上がろうとするが、三蔵もそうすんなりと逃がしてはくれない。
力では妖怪である八戒の方が上なので、何とか上手く逃げられそうだと思った時、ドアを叩く音が聞こえた。
「八戒、大きな声聞こえたけど何かあったのか!?」
今1番来て欲しくない人の声に、八戒は本気で焦った。
部屋が隣だから、さっきの八戒の声が聞こえてしまったのだろう。
「ご、悟空!? 何でもないですから!」
そう答えたものの、そちらに意識を取られたせいか三蔵の腕を掴んでいた手の力が緩んだ。
その隙を逃さず、三蔵は手を払うと今度は八戒の腕を掴み直して後ろに倒れ込んだ。
「うわっ!?」
バランスを取る間もなく八戒はそのまま前に倒れ込む。
「八戒!? どうしたんだよ!?」
ドアの外から声が聞こえたかと思うと、ドアが勢い良く開いた。
八戒はこの時ほど、部屋の鍵を閉めておかなかった事を悔やんだ事はないかもしれない。
「…………は、八戒……何してんの…………?」
その場の空気が凍りついたかのように固まった後、悟空が言葉を発するまでたっぷり10秒。
何しろさっきとは状況が逆で、どう見ても八戒が三蔵を押し倒しているようにしか見えないのだから当然だ。
「八戒……八戒も、三蔵の事を……?」
「え!? ち、違いますよ、悟空!」
「だって、それなら何でそんな事してんだよ!?」
「これには事情があるんです! 信じて下さい、悟空!」
八戒はかなり必死だった。こんな誤解など冗談じゃない。
「事情って何だよ、どういう事なんだよ!?」
「ですから、それは……」
八戒は身体を起こして、悟空に説明をしようとした。
だが、こういう時はとことんタイミングが悪いものである。
「あ? バカ猿、何騒いでんだよ」
八戒からは見えない、廊下の方から悟浄の声が聞こえた。
どうしてよりによってこのタイミングで帰ってくるのかと、八戒は頭が痛くなった。
「悟浄……八戒と三蔵が……」
悟空の力ない声とその表情でただならぬ事態だと察したのであろう、悟浄の足音が早足で近付いてくる。
「八戒と三蔵に何かあったのか!?」
この声と共に扉の向こうに悟浄の姿が現れ、部屋の中を覗き込んで一瞬行動が停止した。
「……お前ら、何やってんの?」
身体を起こしたとはいえ未だベッドの上にいる八戒と三蔵に、悟浄も状況を把握しきれないようだ。
「いえ、ですからこれには事情がありまして……」
八戒は項垂れて脱力してしまった。
もう、懸命に弁明する気力もないというのが正直なところだった。
テーブルを囲んで一旦落ち着いてから、八戒は悟空と悟浄に説明を始めた。
始めは2人とも先程の光景が目に焼き付いているのか胡散臭そうに聞いていたが、八戒の努力の成果かはたまた日頃の行いの良さか信じてもらえたようだった。
「……で? 元には戻んのかよ」
悟浄が口にしたのは、最も重要な事だった。
おかしくなってしまったものはどうしようもないが、元に戻らなかったら大変な事である。
今でも三蔵は八戒の隣に寄り添っているのだ。
最早別人としか思えないくらいに、その表情もいつもの三蔵ではない。
悟空も悟浄も、そんな三蔵の様子にかなり不機嫌そうだ。
「原因が分かれば、戻す方法も分かるかもしれません」
「原因って?」
悟空は拗ねたような顔のまま、八戒を上目遣いで見ている。
「多分、あの広場という場所がポイントなんじゃないかと思うんですけど……」
「うし、それじゃその広場に行ってみるか?」
言うと同時に悟浄は立ち上がっている。見れば、悟空も同様だ。
一刻も早くこの事態を何とかしたいのは八戒も同じなので、八戒もまたすぐさま行動に移った。
だが、広場まで出向く事なく原因はあっさり見つかった。
出かける際、話しかけてきた宿の受付の女性に念のために訊いてみたのだ。
すると、拍子抜けするくらいに知っているという答えを得る事が出来た。
「本当かどうかは知らないんですけど、ここじゃ結構有名な伝説なんですよー。
あの広場の噴水には妖精が棲んでいて、縁を結んでくれるって」
「縁を結ぶ?」
「ええ、バレンタインなら女性、ホワイトデーなら男性の想いを叶えてくれるんですって」
確かに今日はホワイトデーだが、それではあの時広場にいた全員結ばれてしまう。
「でも、それには幾つか条件があって、それが揃わないとダメなんだそうですよ」
「条件? 何それ?」
八戒の横から悟空が身を乗り出す。
「えっと……まず、バレンタインデーかホワイトデーである事」
それは言うまでもなくクリアしている。
「2つ目は……2人だけで噴水の淵に並んで座る事。他の人が座ってたらダメなんです」
三蔵と八戒は確かに並んで座っていた。
だが、八戒と三蔵以外に座っていた人間がいたかどうかまではさすがに覚えていない。
「3つ目が、噴水が一斉に吹き出した時にプレゼントを渡す事」
それを聞いて八戒はあの時の事を思い出した。
あの時渡したもの……それは煙草だ。
プレゼントのつもりでは当然なかったのだが、思えば渡す直前に噴水が吹き出したのを見た気がする。
「この3つの条件を満たしてると、妖精が想いを成就させてくれるんだそうです」
傍迷惑な妖精もいたものだ、と八戒は思う。
そもそも、八戒が想いを成就させたい相手は全く別の人物だ。
縁を結ぶというくらいなら、想っている相手の確認くらいしてほしいものである。
「……それじゃ、ひょっとしてずっとこのまま……?」
そう言った悟空の顔は真っ青だ。
「このままって?」
三蔵がそうなっている事など知らないであろう受付の女性は、何の事かという風に悟空を見つめ返す。
もう受付の女性の事など目に入っていない悟空に代わって、三蔵を差しながら悟浄が答える。
「コイツがその伝説とやらでおかしくなっちまったんだよ」
「そうなんですかっ? 凄ぉい、滅多にない事なんですけど……」
「凄いとかいう問題じゃねえんだって。このままじゃマジ困るんだよ。戻せねえのかよ!?」
のほほんとした女性の様子に少々苛ついたらしい悟浄が、指で台をトントンと叩きながら尋ねる。
「んー、大丈夫だと思いますよ。今までにそれで結ばれた人達、長続きしてませんから」
意外なセリフに、三蔵を除く3人はポカンとした顔になる。
「そうなんですか? それはまたどうして……」
八戒の質問に、受付の女性はおかしそうに笑いながら答える。
「さあ。一時的な効果しかないみたいですよ。で、効果が切れた途端に別れちゃうんですよねー」
「意味ねえじゃんかよ、それ」
ずっとこのままではないと分かって少しは苛つきが収まったのか、悟浄が苦笑する。
「ほんのひとときの夢をくれるんだそうです。少しの間でも想われたいっていう気持ちを叶えてくれるんです」
「ふうん、なるほどね」
「具体的に、戻るまでどれくらいかかるか分かりますか?」
「んー……1週間以上もったって話は聞かないです」
「そうですか……。ありがとうございました」
礼を言うと、八戒は悟浄達と共に部屋へと戻った。
遅めの夕食を部屋まで運んでもらって、冷ややかな空気の中でいつになく静かな食事をとる。
食後のコーヒーを飲みつつ、4人は八戒の部屋でテーブルを囲んでいた。
とりあえず元には戻るらしいと分かって、先程よりは3人の雰囲気も穏やかになる。
だが、それも先程に比べれば、の話に過ぎない。
何しろ今この時も三蔵は八戒にピッタリと寄り添うように座っている。
八戒としても、悟空と悟浄の突き刺さるような視線が痛くて居心地が悪い事この上ない。
1週間近くこの状態が続くというのは、八戒には拷問に近い。
特に、悟空が拗ねたようにじーっと見つめてくる視線が痛い。
八戒が悪いわけではない事は悟空も分かっているだろうが、どうしても八戒を見つめる視線が少々非難めいたものになってしまうのは仕方がないのかもしれない。
たまりかねて、八戒はすぐ傍にひっついている三蔵の身体をやんわりと押し戻そうとする。
「すみませんが、三蔵。もう少し離れて頂けませんか」
「何故だ」
「何故と言われても……」
「……そんなに俺が嫌か」
「え? いえ、あの、い、嫌とかそういう事ではなく……」
本当はかなり嫌なのだが、真っ向から真剣な目で訊かれるとさすがにそうですとは言えない。
「なら、いいだろう」
良くありません……と小さく呟いた八戒であるが、どうやら三蔵には聞かなかった事にされたらしい。
そうこうしている間にも、悟空と悟浄の空気はどんどん悪くなっている。
2人の頭上に、どよどよとした黒雲の幻が見えるかのようだ。
実は幻ではなくて本当にそこに黒雲があるんじゃないかとさえ思えてくる。
はっきりいって、気まずい。
普段ならうるさいくらいに弾む会話が、今はもう重い沈黙が場を覆っている。
「と、とにかく、1週間足らずで元に戻るらしいですし、明日は予定通り出発でいいですか?」
「……ああ」
「うん……」
悟空と悟浄の返事の後、再び部屋がシンとなる。
これ以上この空気には耐えられないと思った八戒は解散を提案し、それに従う形で悟空と悟浄、そして三蔵も何とか自分の部屋へと戻っていった。
今日ばかりは1人部屋で本当に良かったと思う。
万が一三蔵と2人部屋だったりしたら、今夜ひと晩無事でいられるか分かったものではない。
先程の例もあるし、うっかり襲われでもしたらシャレにならない。
八戒は1人になれた事に安堵のため息をつくと、部屋の鍵をきっちり閉めて眠りについた。
翌日からも、三蔵の八戒くっつきぶりは変わらなかった。
八戒は三蔵が傍にくるたびにハラハラし、悟空と悟浄はそのたびに不機嫌オーラを漂わせていた。
2人ともイライラするせいかジープの上でのケンカもいつも以上にうるさかったのだが、今回は止める人間がいない。
三蔵は無反応だし、八戒も今は笑顔で2人を止める余裕がない。
散々ケンカした挙句に疲れ果てて休む、という繰り返しだった。
だが、三蔵がおかしくなってから4日目の朝。
野宿していた川辺で、朝食の準備をしていた八戒は気配を感じて振り向いた。
「あ、さ、三蔵、おはようございます……」
「……ああ」
それだけ言うと、三蔵はその場にゆっくりと座る。
その様子に、八戒は恐る恐る声をかけてみた。
「あの……三蔵?」
「何だ」
「ひょっとして……元に戻りました?」
「あ? 何の話だ」
いつも通りの三蔵の様子に、八戒は心の底から安心する。
「ああ、良かった。やっと元に戻ってくれたんですねぇ……」
「だから、何の話だ」
「いえいえ、こっちの話です。さ、コーヒー淹れましょうか?」
そう言うと、八戒は嬉々としてコーヒーを淹れ始めた。
八戒はコーヒーを淹れるべく後ろを向いたため、気付かなかった。
三蔵が小さく、意地悪そうな笑みを浮かべた事に。
後書き。
ギャグになってるのか、これ?……という疑問が湧かないではないですが。
今回は「三蔵様リベンジ編」です(笑)
いや、八戒にリベンジと気付かせずに目的を達成する辺りはさすが三蔵です。
そのためなら、八戒にベタベタひっつく事も厭わない……執念ですね。
清一色編で三蔵が意外に演技派な事が明らかになってるので、これくらいは出来そう。
八戒が慌てふためく姿を見て楽しんでいたんでしょう。性格悪いですね、今更だけど(笑)
ちなみにこの後、三蔵は元に戻った事に喜んだ悟空にいつも以上にくっつかれていたようです。
昔流行った「だっこちゃん人形」のように(笑)
おそらく、その辺まで狙って計画を立てたものと思われます。
まあ、たまには八戒にも騙されてもらいましょうという事で。