「いってええええええ!」
余りの痛みに、悟浄は思わず飛び起きた。
すると更に痛みが増し、悟浄は言葉にならないうめき声を上げる。
半分涙目で慌てて痛んだところを見てみれば、そこには自分ではない他人の足。
こめかみに青筋を浮かべると、悟浄はガッとその足の持ち主の頭を掴んだ。
「てめえ、バカ猿! 起きろコラ!」
大口を開けて寝ていた悟空がようやく目を開け、寝惚け眼を擦っている。
「あ〜、おはよー、悟浄」
「『おはよー』じゃねえよ!」
言うと同時に、悟浄は悟空のこめかみを両側からぐりぐりと指で押す。
「いたたたた! 痛いじゃんか! 何すんだよ、悟浄!」
「そりゃコッチのセリフだっての! いきなり蹴りくれやがって!」
「何のことだよ!」
「寝ながら人を蹴飛ばしやがって……寝相悪ぃにも程があんだろ!」
「え……俺、蹴ってた?」
「思いっきりな」
「あ……と、ごめん」
素直に謝られ、悟浄は先程までの怒りのやり場を失う。
こうすんなりと謝られてしまうと、これ以上怒るのは大人げない気になってくる。
「あー……ま、猿だししょうがねえか」
「猿って言うな! ……って、そうだ、どこ蹴ったんだ?」
「……いや、もういいから」
「何だよ、すっげえ怒ってたくせに。いいから見せろよ、痣とか出来てるかもしんねえし」
自分が蹴飛ばしたということを余程気にしているらしい悟空が、ズズイと迫ってくる。
「どうしても見てえってんなら、見せてやってもいいけど?」
そう言いながら、悟浄はその『蹴られた場所』を指差す。
そこに視線を移した後、数秒間無言だった悟空は大量の汗を流した。
ダラダラと流れる冷や汗は、さながら滝のようである。
「ごめん! ホント、マジごめん!」
先程までとは比べ物にならない勢いで、悟空は大慌てで謝った。
いくら悟空といえども男である。
そこを蹴られることの凄まじさは、純粋培養……とは最近は言えなくなってきているが、とにかくそれは分かるらしい。
純粋培養でなくなってきているのは誰のせいか、それはこの際気にしない事にする。
それはともかく、さすがに悟浄もこんな悟空を見て怒れるわけがない。
「もういいって。わざとじゃねえんだし。……そん代わり、二度とやるなよ、頼むから」
「わ、分かった!」
力の限り頷く悟空に、悟浄は思わず苦笑した。
「俺のが使いもんにならなくなったら、世界中の綺麗なお姉さん達が悲しむだろー?」
「……むしろ、平和で喜ぶんじゃねえの?」
「んだと? この世紀の色男に向かって」
「世紀のタラシ河童の間違いじゃん?」
「ふふん、お子様は悲しいねえ。この俺様の魅力が分かんねえなんてなぁ」
「誰がお子様だよ! 発情エロ河童!」
「そーいうトコがお子様だってんだよ、小猿ちゃん」
ようやくいつもの調子が出てきた悟空に、悟浄は安心した。
やはり悟空はこうでなくてはいけないと思う。
しおらしくしている悟空よりも、元気に悪態をついている悟空の方が余程悟空らしい。
痛みをやり過ごしながら階下に下りると、食堂には既に三蔵と八戒がコーヒーを飲んでいた。
朝食を摂り、食後の一服をしようと灰皿を探すも見当たらない。
「えーっと、灰皿はっと……」
そう言って辺りを見回そうとすると、悟空が即座に立ち上がった。
「俺、貰ってくる!」
言うが早いか、悟空は灰皿を貰いに行ってしまった。
その後も、悟空は何かと悟浄の世話を焼き続けた。
その様は実に健気で、さながら旦那様に献身する新妻のようである。
おそらく、今朝のことを気にしているのだろう。
悟浄が動く必要のある時に、率先して代わりに動いたりして悟浄を余り動かずに済むようにしてくれていた。
案外律儀なヤツだな、と思いつつも、悟浄は結構今の状況を楽しんでいた。
悟空が自分のためにアレコレ世話を焼くなんてことは、最初で最後だろう。
今朝、あれだけ痛い目を見たのだから──今現在も表情にこそ出さないものの痛みは残っているのだが──少しくらい珍しいものを見て楽しんでもいいはずだ。
そんな状況を面白がりつつ進んでいた時、例によって呼んでもいない団体客が訪れた。
「ふはははは! 見つけたぞ、三蔵一行! その経文貰い受……」
最後まで言い終わらない内に、その哀れな刺客のセリフは銃弾によって強制的に止められる。
もっとも、毎回毎回似たようなことしか言わないため、最後まで聞かなくてもさして不都合はない。
それはともかく、その銃声を皮切りに戦闘が始まった。
今朝のアレの痛みは大体収まってきたとはいえ、余り大きく動く気にもならず、悟浄は錫杖の鎖を駆使して戦っていた。
すぐ傍で悟空が如意棒を振るっているのが見える。
いざとなったら、悟浄をフォローしてくれるつもりなのだろう。
そんな悟空を見て小さく笑いながら、悟浄は次々と刺客を片付けていった。
その時。
後ろに僅かな空気の震動を感じて振り向くと、間近に迫っていたものに悟浄は慌てて飛び退る。
「うおわああ! って、何すんだ、八戒!」
気孔をすんでのところで避けた悟浄がこう叫んだのは、当然だろう。
「ああ、すみません、悟浄。ちょっと手元が狂いました」
にっこりと笑顔で言われ、悟浄の顔が僅かに引き攣る。
心なしか、笑顔が怖い……気がする。
すると、背後から悟浄の顔のすぐ横を数発の銃弾が通り過ぎていった。
「おいコラ、生臭坊主! 危ねえだろが!」
「ああ、すまん。手元が狂った」
しれっと言い捨てられ、悟浄の顔の引き攣りが大きくなる。
何となく、目が据わっているように見えるのは気のせいだろうか。
その後、何度か気孔と銃弾の被害に遭いかけながらも、何とか無事に戦闘を終えた。
川のほとりで休憩がてら昼食を摂る。
ここでも、悟空は普段なら悟浄がやる分担の仕事まで率先してこなしてくれた。
そして、いつも通り悟空と口喧嘩をしつつ食事をしていた……のだが。
ガリ。
「……『ガリ』?」
口の中で発生した有り得ない音と歯ごたえに悟浄は眉を顰め、その原因と思われるものをそっと吐き出してみた。
「……石?」
そう、それは小石だった。
「おい、八戒……」
「ああ、すみません、悟浄。調理の途中で入っちゃったんでしょうか」
これまた素晴らしく眩しい笑顔で、八戒が謝罪する。
謝罪されている側なのに、圧力を受けている気がするのは……きっと気のせいなのだろう。
似たようなセリフをさっき聞いたような気がするのも、きっと思い過ごしだ。
どこをどうやったら、缶詰を開けただけのサバの味噌煮の中に小石が埋め込まれるのだろうという疑問にも、きっと思い付かないだけでちゃんとした答えがあるに違いない。
悟浄は無理やりそう思う事にして、再び食事に戻った。
「あ、それ、俺やるから! 悟浄は座ってろよ」
「そか? じゃ、頼むわ」
悟空に後片付けを任せ、悟浄は木の幹に背を預ける。
今日は一体何なんだとため息をつきつつ、悟浄は煙草を取り出した。
ジャケットのポケットを探すものの、ライターが見つからない。
確かに今朝はあったはずなのだが、戦闘中にでも落としたのだろうか。
仕方なく、気は進まないが不機嫌オーラ全開の三蔵に火を貸してもらおうと声をかけた。
「悪ぃ、三蔵。火ぃ貸してくんね?」
断られるかと思っていたが、意外にもすんなりと三蔵はライターを取り出した。
「サーンキュ。……って、三蔵?」
手を伸ばしてライターを取ろうとしたものの、三蔵はライターを持ったまま火を点けた。
どうやら三蔵自ら悟浄の煙草に火を点けてくれるらしいと分かり、悟浄は驚きつつも煙草を近づける。
ジュ。
「あっちいいいいいい!」
瞬間的に感じた熱さに、悟浄は素晴らしい反射神経で後ろに飛び退った。
「なななな何しやがんだよ!」
顎を両手で押さえながら、悟浄はライターを持ったままの三蔵に抗議する。
「ああ、すまん。手元が狂った」
……先程も一言一句全く同じセリフを聞かなかっただろうか。
そして、目の据わり方に磨きがかかってきたように見えるのは目の錯覚であろうか。
さすがの悟浄も、いい加減に危険を感じ始めた。
第三者からしてみれば感知するのが遅すぎるくらいなのだが、普段が普段なのでその点で悟浄を責められる人間はいないに違いない。
「つーか、今日は何なんだよ、お前ら!」
「何の事だ」
「何の事も何もあるかよ!」
そう叫ぶ悟浄に半分泣きが入りかかっているのは、やむを得ないところだろう。
「別に何もありませんよ? ねえ、三蔵?」
「ああ」
輝く笑顔と凍った無表情でそう言われ、悟浄は問い詰めるのを諦めた。
はっきりいって、怖すぎる。
これ以上つついたら、掘った墓穴に頭から放り込まれかねない。
その後も、曰く『手元か狂った』らしい三蔵と八戒の攻撃を食らいつつ、何とか逃げ延びる……という繰り返しであった。
救いは、悟空が何かとフォローしてくれている事くらいであるが、実はそれが救いどころか火に油を注ぐ結果になっているなどとは悟浄に分かるはずもない。
とにかく悟浄は今日という日を生き残るべく、必死に彼らの攻撃をかわしていた。
悟浄はゼーハーと息を切らしながら、ポツリと小さく呟いた。
「俺……何かしたっけ……?」
そんな疑問を感じたのは、いわば当然の事だろう。
しかし、生憎とその疑問に答えをくれる者はそこには存在しなかった。
何で俺ばっかりがこんな目に。
そんな心の呟きを零しながら、悟浄は内心でさめざめと涙を流していた。
その後の悟浄の命運は……おそらく知らない方が幸せでいられることだろう。
後書き。
「4周年記念ミニ企画」第5弾。