宿での夕食が済んだ後、街に出かけようとしていた悟浄に声がかかる。
「悟浄、ちょっとだけ三蔵の部屋に集まってくれませんか?」
「今からか? でもなー、街の綺麗なお姉ちゃんが俺の事待ってっからなぁ」
八戒の笑顔に嫌な予感を感じた悟浄は、そう言いながらさりげなく玄関に足を進めている。
「そうですか、それなら仕方ありませんね」
余りにあっさりとした返事に、悟浄は拍子抜けしたような顔を見せた。
「え? じゃ、街に出てっていいワケ?」
「構いませんよ。明日以降、何があっても後悔しないのでしたら」
にっこりそう告げた笑顔は、『ここで逃げたら後でお仕置きですよv』と如実に語っている。
こうなると、悟浄にとって『にげる』コマンドは使用不能である。
もちろん、『たたかう』コマンドなどもっての他だ。
むしろ、選べるコマンドは『かんねんする』だけと言っていい。
特殊技能『しょっかく』も、この状況ではほぼ役に立たないだろう。
「おや? 街に出かけるんじゃなかったんですか?」
「いや……やっぱいいわ……」
今の状況で出かけられるわけがないと分かっているのかいないのか、不思議そうに尋ねる八戒に、悟浄は諦めを滲ませた声で答えた。
どうして八戒に見つかる前にさっさと宿を出なかったのだろうと、悟浄は小さくため息をついた。
こんな事なら、宿の従業員の女の子と談笑などしてるんじゃなかったと思う。
──やぁだ、もぅ〜。お上手なんだからぁ──
──いやマジだって。信じられねえ? なら、今夜にでももっとお互い分かり合おうぜ?──
などという、甘く楽しい会話など早々に切り上げるべきだったのだ。
が、今そんな事を後悔してもまさに後の祭。
先に行っててくれという八戒の言葉に従い、悟浄は仕方なく三蔵の部屋へと向かった。
「で、結局何なんだ」
イライラした様子で三蔵は何本目ともしれない煙草に火を点けた。
相当不機嫌らしく、眉の皺もいつにも増して刻まれている。
「俺が知るかって。おい悟空、お前はなんか聞いてねえのかよ」
「別に何も……。ただ、三蔵の部屋で待ってて下さいって言われただけで」
悟空は特に何の危機感も持っていないようだが、はっきりいって悟浄は直感的に待っていたくないと思った。
絶対に何か企んでいる、と何の根拠もないが思う。
強いて言うなら、悟浄を呼び止めた時のあの笑顔が根拠と言えなくもない。
おそらく三蔵も似たような事を考えているだけに、その不機嫌さが増す一方なのだろう。
何とかして穏便に逃げられないかと考えている内に、ノックの音がしたかと思うと八戒が入ってきた。
その両手にはそれぞれ紙袋が握られている。
怪しい事この上ない。サングラスにマスクをして帽子をかぶった長いコートの男が街中を歩いているくらい怪しい。
悟空の興味と悟浄、三蔵の警戒心がその紙袋に注がれる。
八戒はテーブルの近くに紙袋を置くと、椅子に腰掛けた。
「すみません、お待たせしちゃって。丁度良い大きさの袋が見つからなくて」
「なあなあ、それ、何が入ってんの?」
悟空が興味津々といった風に無邪気に尋ねる。
悟浄や三蔵としては、知りたいような知りたくないような複雑な気持ちなのだが。
「これですか? 待ってて下さいね、今出しますから」
そう言うと、八戒は2つの紙袋から丁寧な手つきで箱を3つ取り出した。
それらの箱を確認しつつ、1つずつ三蔵、悟空、悟浄の前に置く。
目の前に置かれた箱を不思議そうに見ていた悟空だが、ある事実に気付くと途端に嬉しそうに八戒の方を向く。
「あ、なんか美味そうな匂いがする! これ、食いもん!?」
「はは、さすが悟空。正解ですよ。どうぞ、開けてみて下さい」
八戒に促され、開けたくてうずうずしていたらしい悟空はすぐにその箱を開けた。
「うっわ〜、美味そ〜!」
箱の中から出てきたものは、それはそれは美味しそうなチョコレートケーキ。
しかも、1ホール分まるまるである。見たところ5〜6人分といったところだろうか。
悟空の目はキラキラと輝いて、もし尻尾があれば思いきり振っているだろう。
「食べていい!?」
「もちろんです。さ、どうぞ」
言うと、八戒は予め大きめに切り分けてあったケーキを1つ小皿に取り、フォークを添えて悟空の前に置いた。
「ありがと、八戒!」
明るい笑顔でそう礼を告げると、悟空は勢い良くケーキを食べ始めた。
悟空の笑顔に随分機嫌の良くなったらしい八戒は、にこにこと笑いながら今度は悟浄と三蔵の方に顔を向けた。
「さあ、どうぞ2人も開けて下さい」
だが、そうは言われても悟浄と三蔵が警戒してしまうのは致し方ないだろう。
三蔵は目の前の箱を嫌そうに見ると、八戒に視線を向けた。
「……大体、何でいきなりこんなモンよこしやがった」
「ヤですね、三蔵。そんなあからさまに胡散臭そうな目で見ないで下さいよ」
実際に胡散臭いのだから仕方がない、と悟浄と三蔵はほぼ同時に思った。
「今日、バレンタインじゃないですか。折角なのでチョコレートをと思いまして」
「「……は?」」
唐突な八戒の言葉に、悟浄と三蔵の声が重なった。
「ですから、バレンタイン。知ってますよね、2人とも?」
もちろん悟浄は知っていて当然だし、仏教徒である三蔵にしてもその手の行事くらいは知っている。
だが、今は知っているとかそういう問題ではない。
「……つか、お前……男だよな?」
悟浄は我ながらバカな質問だと思ったが、ついそう訊かずにはいられなかった。
案の定、八戒は一瞬目を丸くした後笑い出した。
「あはは、何言ってるんですか、悟浄。当たり前じゃないですかー」
心底おかしそうに笑う八戒に、悟浄はまたも当たり前の質問をした。
「……じゃ、何でお前が俺らにチョコくれるわけ?」
「まあ、いつもお世話になっているお礼というか。そもそも、世間一般の義理チョコなんてそんなものでしょ?」
確かに、最近はお歳暮並の義理チョコが横行してるのでそれはもっともではある。
だが、何が悲しくてバレンタインに男からチョコレートを貰わなければならないのか。
悟浄は今の自分が何だか無性に悲しくなってしまった。
「この宿のお嬢さんのチョコ作りをお手伝いして、そのついでに作ったものですから余り気にしないで下さい」
フォローするように八戒が手をひらひらさせながら言うが、悟空の食べているチョコレートケーキはどう見ても『ついで』には見えない。
かなり凝っている上に豪華で、店頭に並んでいれば「有名パティシエも絶賛!」というようなキャッチコピーのつきそうな代物である。
それもおそらく、先程から三蔵が更に不機嫌指数を増している理由の1つだろう。
いや、それだけならまだいい。
だが、悟空のチョコはマトモでも、悟浄と三蔵へのチョコがマトモである保証は全くない。
大体、3つの箱それぞれに小さく名前を書いてある時点で怪しい。
「そんな事より、2人とも早く開けてみて下さいよ」
本心から開けたくないと思った悟浄と三蔵であったが、この状況では開けざるをえない。
しかし、やはり嫌なのか、三蔵が最後の抵抗を試みた。
「……俺はいい。大体、洋菓子は好きじゃねえ」
三蔵が洋菓子よりも和菓子を好むのは本当の事であるが故に、これはなかなか上手い回避法に思われた。
悟浄にしてみれば「1人で逃げる気か、生臭ボーズ!」とでも言いたいところではあるのだが。
だが、こんな事で逃げられるほど八戒は甘い相手ではなかった。
「大丈夫です。その辺りはちゃんと考慮してあります!」
いっそ考慮などしてくれなくていいのだが、八戒は自信満々といった感じである。
「さ、そういう事ですので、2人とも遠慮なくどうぞ」
遠慮をしているわけではない。決してない。
だが、当然の事だがそう言ってしまえるはずもない。
八戒の圧力付の笑顔に晒されながら、悟浄と三蔵は渋々ながらその箱を開ける事した。
何が入っていても平常心を保てるように覚悟を決めて、2人はそれぞれゆっくり箱を開けた。
「……へ?」
間の抜けた声を出したのは、当然悟浄である。
それもそうだろう、中に入っていたのは極々普通のチョコレート。
一口大サイズのチョコが10個ほど並んでいる。
ちなみに三蔵の方はというとチョコではなく、一口おはぎがこれまた10個並んでいる。
予想に反して普通のお菓子が出てきたが、しかしここで油断は出来ない。
チョコ及びおはぎに何が混入されているか分からないからだ。前科があるだけに余計疑わしい。
悟浄は訊いても無駄だろうと思いつつも、一応訊いてみた。
「……これ、中に何か入ってんの?」
「まあ一応。チョコには、アーモンドとかマカダミアナッツとか。おはぎは普通に餅米ですよ」
「てこたあ、中に入ってんのは『普通』のものだけなんだよな?」
「もちろんです。中身は珍しくもない、極々普通のものばかりですよ」
「ほんっとーだな!?」
「そんなに念押ししなくても大丈夫ですって。信用ないですねぇ、僕」
今までの所業を考えれば、ここで素直に信じられる方が天然記念物並だろう。
だが、基本的に八戒はこういう場合嘘は吐かない。
事実を上手く擦り替えて口に乗せ巧妙に誤認させる事はあっても、口に出す事は本当である事が大半だ。
例外はエイプリルフールのように、『嘘を吐く』事自体が目的の時だけだろう。
悟浄が三蔵をチラリと見てみると、「てめえが先に食え」という無言の圧力を送ってきている。
1つため息をつくと、悟浄は覚悟を決めてチョコレートを1つ口に入れた。
「……うめえじゃん」
かなりビクビクしつつ口にしたチョコであるが、至って普通の、それどころか味はかなり美味しい。
「そうですか? それは良かった。どんどん食べて下さいね」
一応警戒しつつ2つ目も食べてみたが、特に変なものが入っているといった事はなかった。
そんな風に少しまだ警戒心を持ちながらもチョコを食べていると、不意に横から声がかかった。
「……悟浄」
振り向くと、すぐ目の前に三蔵の顔があった。
「うおわっ、な、何だよ!?」
突然の至近距離の三蔵の顔に狼狽しながらも『ラッキーv』などと思っていた悟浄であるが、次の瞬間ちょっとした期待は泡と消えた。
「うごっ!? ら、らりひやがるっ!」
『何しやがる!』と言いたかったのだが、口の中に物が入っているので上手く発音できない。
「……ふん、こっちも変なモンは入ってねえようだな」
何とか口の中のものを処理した悟浄は、突然の攻撃に抗議した。
「って、俺は毒味役かよ!?」
「当たり前だ。貴様なら何を食っても死なんだろう」
「んなわけあるかー! 猿じゃあるまいし!」
「猿って言うな!」
今までチョコレートケーキを食べる事に集中していた悟空が、パッと振り向いて悟浄に食って掛かった。
「あーもう、お前はケーキ食ってろって」
「もう食い終わったもん」
「……は? あのでけえケーキをか?」
見ると、本当にさっきまでそこにあったケーキはもう影も形もない。
さすが悟空の21型高速食物処理システム搭載鋼鉄製胃袋である。
「そんな事よりさー、折角八戒が作ってくれたんだから、三蔵も早く食べろよ」
いつの間にか三蔵の隣に移動した悟空が、三蔵を覗き込みながら言う。
一度悟空に対して何か口を開きかけた三蔵であったが、瞬間の躊躇の後、そのおはぎを口に運び始めた。
味がこちらも意外に美味しかったのは良いが、それでも一抹の不安はよぎる。
あの八戒が何の企みもなく、三蔵や悟浄に美味しいものを振舞うなどそうそう有り得るものではないからだ。
それでも、特に何の問題もないまま、悟浄も三蔵もそれぞれのチョコやおはぎを食べ終えた。
八戒が淹れたコーヒーを飲みながら、4人は明日からの行路などの相談を始めた。
「それにしてもさ、八戒のケーキ、ホント美味かったなー」
「ありがとうございます、悟空。そう言ってもらえると、僕としても嬉しいですよ」
「あ、でも俺ああいうの作れないし……ホワイトデー、大した事出来ないけど……」
ちょっと元気をなくした悟空に、八戒は笑ってフォローを入れる。
「いいんですよ、そんな事。悟空のその気持ちだけで十分です」
「……そっか。ありがと、八戒!」
そう言うと悟空は屈託のない笑顔を見せた。八戒に対してこれほど素晴らしいお返しもないだろうほどに。
それを嬉しそうに見ていた八戒は、悟浄と三蔵に向き直るとじーっと見つめている。
「……何だ」
今の悟空の八戒への笑顔でただでさえ不機嫌らしい三蔵は、じろじろと見てくる八戒を睨みつけた。
「いえ……あの、三蔵、悟浄。何ともないですか?」
脈絡もなくそう尋ねた八戒に、悟浄と三蔵はとてつもなく嫌な予感を覚えた。
「な、何ともないって何が……?」
悟浄が恐る恐る訊くと、八戒は横を向いて小声で小さく呟いた。
「……変ですねぇ……失敗でしょうか……」
「ししししし失敗って何がだよ!?」
「いえいえ、こちらの話です。何でもありませんよ」
思いきり不安にさせるセリフを吐いておいて『何でもない』はないだろうと思うのだが、ここで追求してもかわされるのは目に見えている。
仕方なく悟浄は、角度を変えて質問してみた。
「あのよ、チョコの中身、普通のモンだって言ってたよな……?」
「ええ、もちろん普通のものですよ。……『中身』は」
笑顔で付け足された言葉に、悟浄と三蔵の顔が僅かに引きつる。
「……待て。という事は、中身ではなくチョコや餡そのものは『普通のものじゃない』という事か……?」
三蔵は知りたくはないとは思いつつも、そう訊かずにはいられなかった。
八戒はコーヒーを飲み干すと、さっとテーブルを立ち上がった。
「まあ、何ともないようですし気にしないで下さい。それじゃ、僕は部屋に戻りますね」
おやすみなさい、という一言を最後に残し、八戒は出て行ってしまった。
「……三蔵、俺ら、何食わされたんだ……?」
「……俺が知るか!」
そう答えるのも当然で、正解は八戒にしか分からない。
だが、とりあえず被害がない事を確認してその夜は就寝時間を迎えた。
翌朝。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」
悟浄の悲鳴が宿に鳴り響き、三蔵は珍しくしばらくの間起きてこなかったという。
あの2人の身に何が起こったのか、それは…………。
後書き。
バレンタインです。去年三空書いたので、今年はギャグ風味です。
いつもの事ながら、八戒さんが暗躍中です。
翌朝に三蔵と悟浄がどうなったかも本当は考えてたんですけど、まあ強いてそれを入れる必要もないかな?と思って最後削りました。
2人の身に何が起こったのか、ご自由にご想像下さい。多分ロクな目に遭ってません(笑)
ちなみに上で書いてて思ったのですが、悟浄の特殊技能が『しょっかく』なら三蔵は『はりせん』でしょうか。
八戒は『ほほえみ』で悟空は『たべる』(←何を)といった感じ?