不安の鎖



『あの夜』から2週間。
三蔵はハタから見る者にとっては逃げ出したくなるほど不機嫌だった。
三蔵の感情がここまで動く原因は、一つしか有り得ない。




……言うまでもなく悟空である。




悟空は『知りたい』と言った。
だから、教えたのだ。
だが、あれから悟空は三蔵を見ようとしない。

いつもならうるさく三蔵にくっついてくる悟空が、ここ2週間は逆に三蔵を避けている。 それに比例して、三蔵の不機嫌度も増していくばかりだ。



「あの、バカ猿……」
やはり、まだ早すぎたのだろうか。
何年も暮らしているが、悟空は本当に純粋で。
それを欲の色で汚してしまったような、やりきれない思い。
「ちっ……。バカみてえだな」
こうなる事も、予想の範囲内であったはずなのに。
悟空が自分を避けるという事に、ここまで心的ダメージを受けるとは思わなかった。


こういう時にどうしていいのか、三蔵には分からない。
悟空を傷付けたのかもしれない。
その思いが、悟空に話し掛ける事をためらわせていた。



……あの夜、悟空は抵抗らしい抵抗はしなかった。
かなり、驚いてはいたようだが。
しかしそれも、行為の意味を理解していなかったからなのかもしれない。
後になって、激しい後悔が渦巻いていてもおかしくはないのだ。


それでも、このままの状態を続けてはいられない。
悟空がこの居心地の悪いはずの寺院に留まり続けているのは、三蔵がいるからだ。
もし、『三蔵の傍にいたい』と悟空が思わなくなったとしたら。
悟空は、ここを去るのだろうか。……三蔵からいなくなるのか。
それだけは、耐えられない。

この寺院が居心地が悪いのは三蔵とて同じ事だ。
ただ、聖天経文の手掛かりを手に入れる為にいるにすぎない。
だが悟空がいるなら。寺院での生活も悪くもないと思える。
それに最初に気付いたのはいつだっただろう。
それ以来、悟空から目が離せなくなった。






ノックの音が聞こえた。
どうやらさっきから叩いていたようだが、気付かなかったらしい。
「何だ」
「三蔵様。少々よろしいでしょうか」
そう言って、まだ若い僧が入室する。
「だから何だと聞いている」
今の三蔵の視線は、いつもの3倍は鋭く、冷たい。
僧はビクっとしながらも、用件を伝える。
「は、はい。あの、三蔵様が面倒を見ていらっしゃる……」
「悟空がどうした」
悟空の話題である事に、三蔵の表情が微かに変化する。
僧は萎縮している為それには気付かず、再び慌てながら必死で言葉を紡ぐ。
「それが、その、離れの蔵の方に立てこもりまして、どうあっても出て来ないのです」
「どういう事だ」
「あの、詳しい経緯は私も存じませんで……」
「……分かった。俺が行く」
「あ、有難うございます」
若い僧は、ホッとしたような表情で部屋から出ていく。



「何考えてんだ、全く……」
三蔵は誰にともなく呟く。
僧たちと何か一悶着あったのだろうか。

普段なら僧達も放っておくのだろうが、蔵の中には貴重な仏具も多々ある。
それを壊されてはたまらない、といった所なのだろう。
あくまで、僧達の心配は寺院の仏具や体面なのだ。
それが、三蔵には腹立たしい。御仏に仕える身が聞いて呆れる。
三蔵は神や仏に対する信仰など全くと言っていいほどないが、『仏に仕える』僧達よりも、悟空や悟浄、八戒の方が余程マシなヤツらだと思っている。
ムカつくので口には絶対に出してやらないが。

そんな事を考えつつ、三蔵は執務室を出て離れの蔵へと足を向ける。
悟空と向かい合って話をするいい機会かもしれない。
いい加減、このうっとうしい毎日にケリをつけたかった。
その結末が、三蔵の望まないものだったとしても……。






蔵の前まで着くと、幾人かの僧達が蔵の扉を叩き、何事かを叫んでいた。
「おい、いい加減に出て来んか!」
「そこには、お前などよりも貴重な品々がたくさんあるのだ! 妖怪ごときが触れていい物ではないのだぞ!」
「神聖なる仏具が穢れてしまうではないか!」
三蔵が来た事に気付いていないのか、僧達は中にいるだろう悟空に悪口雑言を浴びせ掛けている。



「そこをどけ」
三蔵が言葉を口に乗せた途端、空気が氷点下にまで下がった気がした。
「さ、三蔵様! あの、これは……」
さっきまで言いたい放題だった僧が、慌てて弁明しようとする。
が、それには耳を貸さず、一言だけを繰り返す。
「どけ」
その冷たさに一瞬凍りついた僧達だが、我に返ると礼だけして本堂の方へと走り去る。


三蔵は扉の前に立つと、悟空に声を掛ける。
「そこにいるのか、悟空」
だが、中から返事は返ってこない。
「悟空。もうあのバカ共はいない。ここにいるのは俺だけだ」
それでも反応はないが、三蔵は気にせずもう一度名前を呼ぶ。
「出て来い、悟空。……それが嫌なら、せめて返事くらい返せ」
そう言った後、しばらく静寂が辺りを包む。




「……三蔵……?」
少し時間を置いて、悟空の小さい声が三蔵の耳に届いた。
「いるんなら最初から返事しろ」
「……ごめん」
「もういいから……出て来い、悟空」
「……ヤダ……」
「何?」
聞き返しても、悟空は返事をしない。


「……何が嫌なんだ。俺に会うのが嫌なのか」
「そんなんじゃない! 嫌なんかじゃない! 俺……!」
さっきとはうって変わった大きな声が響く。
「じゃあ、何だ」
悟空は答えない。……いや、答えられないのかもしれない。
今の悟空の語彙力では、自分の意思を明確に伝えるのは難しいだろう。




黙ってしまった悟空に、三蔵は返事を求めない語り方を始める。




「悟空。お前を五行山で拾ってから、ずっと振り回されっぱなしだった。
 ちょこまか動くわ、仕事の邪魔はするわ、とんでもねえ量の食糧を消費するわ……」




淡々と話す三蔵の言葉を、悟空は聞いているのだろうか。




「最初の頃は、正直うっとうしいとも思った。後悔もしたかもしれない。
 だが、いつの間にかお前がいることが俺にとっての日常になった」




三蔵自身、何を言っているのかと思う。
あまりに自分らしくない。こんな言葉を口に出すなど。
しかし、今はそれが一番重要な気がした。真実を語る事が。




「お前が傍にいる事に、安堵を覚える自分に気が付いた。
 お前が俺からいなくなる事に、恐れを感じる自分にもだ」




蔵の中の悟空の空気が、少し変化したように感じた。




「お前を俺だけの傍に置いておきたかった。  だからあの夜……お前を抱いた」




悟空に『抱く』という言葉を口にするのには、少しのためらいがあった。
しかし事実である以上、どういう言葉を用いても結局は同じ事だ。




「お前が嫌だったのなら、謝る。もう二度としねえ。
 ……だから、出て来てくれ」




三蔵がここまで下手に出ることは非常に珍しい。
それは、今の三蔵の胸中にそれ程の不安が巣食っている事の証明かもしれなかった。
言おうと思っていた事を言い終えると、三蔵は悟空の反応を待った。







それからどのくらい経っただろうか。
キィ……と音を立てながら、扉が開いた。
細く開いた扉の隙間から、悟空がおずおずと顔を覗かせている。
その表情には色んな複雑な感情が入り混じっているようだった。
三蔵はそのまま、悟空が完全に出て来るのを待とうとした。
だが、悟空はそこから動かない。

「悟空。まだ出て来たくねえのか?」
悟空はふるふると首を振る。
「そうじゃないけど……でも……」
「でも……何だ?」
そう言うと、三蔵はゆっくりと悟空に歩み寄る。
悟空は逃げる訳でもなく、そこに立ったままだ。



悟空のすぐ傍まで来た時、微かに血の匂いがした。
「! おい、悟空! ……ケガしてんじゃねえか」
悟空の右腕の辺りのシャツが紅く色づいている。
「だ、大丈夫だよ、大した事ないから……」
悟空が身を引こうとしたのに、小さな不快感を感じた。
三蔵は悟空の左手首を掴み、ゆっくりを気を使いながら、しかし有無を言わさぬ強さで悟空を連れて部屋の方へ歩き出した。
「さ、三蔵!? 俺、大丈夫だからっ……!」
「うるせえ、黙ってろ」
三蔵はひたすら悟空の手を引いて歩いていく。





部屋に着くと、悟空を椅子に座らせて三蔵は救急箱を棚から取り出す。
本当ならベッドに座らせて自分も隣に座った方が手当てもやりやすいのだが、今の状況でベッドはまずいだろうと思われた。
救急箱をテーブルに置き、三蔵ももう一つの椅子に腰掛ける。
「腕、出せ」
「……うん」
断っても無駄だと思ったのか、案外素直に腕を差し出す。
見た目ほど大したケガではないようだった。
消毒し、薬を塗って包帯を巻いていく。


「……で? 何で閉じこもってたんだ」
包帯を巻きながら、なるべく柔らかな口調で話し掛ける。
今も悟空は俯いたままで、三蔵の顔を見ない。
「……怖かったんだ」
悟空がポツリと呟く。

「怖い? 何がだ。……俺が怖いのか?」
そう言った三蔵の声は、いつもより幾分か暗い。
「違う! そうじゃなくて……!」
悟空は慌てて否定する。
「そうじゃなくて……、三蔵に嫌われるのが怖かったんだ……」
「何だと?」
何がどうしてそういった思考に辿り着いたのか、三蔵には理解できない。

そんな三蔵の胸中には気付かず、悟空は再びポツリポツリと話し出す。
「俺、あれから変なんだ。今まで三蔵に抱きつくの、すごい嬉しかったんだけど……ううん、今も嬉しいのは一緒なんだけど……」
悟空の要領を得ない話を、三蔵は黙って聞いている。

「何か、嬉しいだけじゃなくって、この辺がドキドキして、 まともに三蔵の顔見れなくなって……」
そう話しながら、悟空は胸の辺りを押さえている。

「でも俺、三蔵に迷惑かけてばっかりで……、今日もこんなケガして……。
 見てたヤツらが『また三蔵様の御手を煩わせる気か』とかって言うし……。
 俺、三蔵に呆れられるんじゃないかって、思って……」
最後の方は消え入りそうに小さな声になってしまっている。


それで、蔵の中に隠れた。
ハッキリ言えば、そんな事をしても無駄どころか逆効果なのだが、悟空にとっては、三蔵にケガを見られたくない一心だったのだろう。




結局、この2週間三蔵と悟空の心を絡め取っていたのは、ほとんど同じものだったのだ。




『不安』



相手を失う事への。





「……バカが。俺がお前を手放すと思ってんのか」
三蔵は、悟空に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「え?」
「悟空、俺から離れたいか?」
「ヤだ! 絶対ヤだ!」
少し目を潤ませて激しく首を振る悟空に、三蔵はふっと表情を緩ませる。
「だったら、いればいいだろ。好きなだけいろ」
「俺、一緒にいてもいいの?」
「当たり前だ。……ここにいろ、悟空」
そう言った三蔵の表情も声も、今まで悟空が見た事ないほど優しかった。
それを見ると、悟空の表情も柔らかいものへと変化した。




あの夜から2週間、ようやく、悟空の笑顔が三蔵に向けられた。
自分だけに向けられる、特別な笑顔。
この笑顔を離す気などない。誰にも譲らない。






もう『不安』という名の鎖に縛られる事は、ない。









END









後書き。

「境界線」に続いて調子に乗って送りつけてしまったSSです。
『初めての夜』のその後、という事で三蔵様に頑張ってもらいました。
三蔵が喋りすぎでニセモノくさい、というツッコミは心の中で……。
たまには三蔵にも悟空への想いを言葉にして頂こうと思って書きました。
この後は、おそらく周りの人間が砂吐くくらいラブラブな日々を送っているのではないかと(笑)
もちろん、悟浄と八戒にも見せつけます。三蔵様、リベンジです。
ただし、悟浄はともかく八戒にはその内また何か仕掛けられる可能性大ですけど……。






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