心の行く先



 ─ 1 ─



ようやく、全てが片付いた。
いや、全てという言葉は適切ではないだろう。
これからこの国は再び歩み出していかなければならない。
その道筋には、壁や障害が山積しているはずだ。

それでも、ベルカとオルセリートが理解し合えた今ならば、きっと大丈夫だと信じられる。
ベルカのこれまでの思いが報われたのだと思うと、リンナは本当に嬉しかった。
オルセリートを本当に心配し、助けたいと願っていたベルカ。
そのオルセリートと対立せざるを得ない状況に追い込まれたことが、どれほどベルカを苦しめたか、リンナには推し量ることしか出来ない。
だけどこれからは、再び、以前のように「兄弟」として手を取り合っていける。

「リンナ」
声に振り向くと、ベルカが駆け寄ってくるところだった。
「悪いな、あちこち雑用ばかりさせちまって」
「とんでもございません。殿下のお役に立てることでしたら、どんなことでもお申し付け下さい」
今もこうしてベルカの傍にいられること自体、リンナにとっては信じられないほどの幸福なのだ。
仕事が増えて忙しくなることくらい、全く苦にもならない。

「……うん、ありがとな」
そう言ったベルカが、どことなく元気がない風に思えてリンナは首を傾げる。
「殿下、どうかされましたか? 少し、お顔の色が優れないようですが……」
「ん? 別に、何でもないって。じゃあ、俺、これからオルセリートのとこ行かなくちゃなんねえから」
「はい、いってらっしゃいませ」
「ああ。…………リンナ」
駆け出しかけた足を止め、ベルカが振り返る。
「はい、殿下」
「……いや、何でもない。行ってくる」
少し躊躇うように視線を泳がせた後、結局ベルカはそのまま行ってしまった。

そんなベルカの様子が気になったものの、忙しさでなかなかベルカとゆっくり話す時間がない。
ベルカの態度がおかしかった理由を知ったのは、その2日後だった。



「縁談!? 殿下にですか!?
思わず、大きな声が出てしまい、慌てて相手に非礼を詫びる。
幸い相手──シャムロックは特に気にした様子もなく、リンナの問いに頷いている。
「ああ。何だ、知らなかったのか? おまえさんはとっくに知ってるもんだと思ってたが……」
「いえ……」
半ば呆然とした状態で受け答えをしながら、リンナの頭の中にはシャムロックから告げられた単語だけが何度も繰り返される。

ベルカに、縁談の話が持ち上がっている。
いや、それは別におかしいことではないのだろう。
ベルカは、この国の王子殿下だ。
王位を継ぐのはオルセリートだろうが、それについては全く異論はない。
ホクレアを含めたこの国の民により良いまつりごとを執り行ってくれるなら、ベルカは王となったオルセリートを喜んで補佐するに違いない。
そして、王位には就かないにしても王子であるベルカに相応の縁談話が持ち上がるのは当然といえば当然のことだ。

それは、リンナにも分かっている。
なのに、どうしようもなく胸がざわめく。
その理由は誰よりも、自分自身が一番理解している。

見たくないだけだ。
ベルカが、誰かと結婚する姿を。

ベルカの隣に女性が立ち、その手を取り合う様を見たくない。
そんなことを思う権利などないと知っていても、感情は止められない。
身の程知らずな願いだけが、胸の内に渦巻く。
ベルカが一番近くに置く存在が、ずっと自分であってほしい……と。



ベッドに腰掛け、小さくため息をつく。
ベルカの様子は相変わらずだが、縁談のことを訊こうにも常に周りに誰かがいるせいで結局訊けずにいた。
いや、それは言い訳で、ただ単に訊くのが怖かっただけなのかもしれない。
訊いて、肯定されるのが怖いのだ。
ベルカの口から「結婚する」という言葉を聞いたら、自分は一体どうなってしまうのだろう。

いつの間に、これほどベルカの存在が心の大部分を占めてしまったのかは分からない。
けれど、今更それに気付いてももう手遅れだった。
ベルカは既にリンナの心の内の殆どを侵食してしまっていて、追い出すことなど不可能だ。
無理やり追い出せば、心の中は空っぽになる。

何故こんなにも心を奪われてしまったのか。
せめて、主への忠誠心で済んでいれば、それがどれだけ強くとも何も問題はなかったはずだ。
こんな、醜い欲望を孕んだ恋情さえ生まれなければ。
ベルカの結婚も、心から祝福できたはずなのに。

「殿下……」
目を閉じ、彼の人の姿を思い描く。
「……何だよ」
零れた呟きに返された声にリンナはビクリと身体を震わせ、勢い良くドアの方へと振り向く。
「で、殿下!」
そこには、困ったような顔で立つベルカがいた。

「悪いな、勝手に入ってきちまって。一応、先に声はかけたんだけど」
言いながら、ベルカはリンナに向かって歩いてくる。
「ノックもしたんだけど、返事ねーし。最近疲れてるみたいだったから、もしかして倒れてんじゃねーかと思ってさ」
ノックの音もかけられた声にも、全く気付かなかった。
どうやら、よほど自分の思考に嵌まり込んでいたようだ。
我に返って、慌てて座っていたベッドから立ち上がる。
「申し訳ございません! 全く気付かなかったもので……」
「いや、それはいいんだけど……大丈夫か? 疲れてんだろ」
リンナの前で立ち止まったベルカが、心配そうな目で見上げてくる。

「いえ……大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
ベルカを安心させるように、笑ってみせる。
むしろベルカの方こそ疲れているはずなのだ。
自分のことで、余計な心配をさせるわけにはいかない。

「なら、いいけど……」
まだ少し納得していない顔で、ベルカは仕方なさそうに呟く。
「それよりも殿下、私に御用がおありだったのでは……」
ベルカ自らわざわざリンナの部屋にまで来るくらいだから、当然何か申し付ける用があるのだろうと思って尋ねる。
「あー、用っていうか……まあ……」
だが、ベルカは何となく言いにくそうに言葉を濁している。

どうしたのだろうと思っていると、急に視線を向けられて思わず姿勢を正す。
「……おまえさ、何か俺に話したいことがあるんじゃないか?」
突然向けられた言葉に、思わず息を呑む。
「な、何か、と、申しますと……?」
「だから、それを訊いてるんだよ」
真っ直ぐに見つめられる瞳から、目が逸らせない。
心の内まで見透かされている気がして、鼓動がどんどん速くなっていく。

「おまえ、ここ数日ずっと俺を見ては何か言いたそうにしてただろ?」
気付いてないと思ってたのか、とベルカが少し呆れた風に付け加える。
「人に聞かれたくない話だってんなら、今なら言えるだろ」
そう促されても、それならばと訊けるくらいならばとっくにそうしている。

けれど、ベルカの目は言うまでは許さないと言わんばかりに強くリンナを見据えている。
覚悟を、決めるべきなのだろう。
リンナはひとつ大きく息を吸い、出来る限り心を落ち着かせる。
そうして、静かに切り出した。

「殿下……縁談のお話が上がっているというのは、本当ですか」
尋ねると、ベルカは驚いたように目を見開いた。
「知ってたのか!?
そのベルカの返事は、リンナの問いを肯定するものだった。
「……はい、シャムロック殿から伺いました」
「そうか……」
心なしか落ち込んだような様子で、ベルカはそっと俯く。

「殿下、何故……私にはお話し下さらなかったのですか?」
責めるような口調にならないように気をつけつつ、リンナは知りたかったことを口にする。
何故、ベルカはリンナに縁談のことを話してくれなかったのだろう。
ベルカの傍近くでずっと仕え、最も信頼されているのは自分なのではないかと思っていたのは、リンナの自惚れだったのだろうか。

「悪い……話そうとは思ってたんだけどな。機会見てるうちに話しそびれちまって……」
俯いたまま話すベルカの表情は見えない。

2人とも黙ったまま、どこか妙に張り詰めた空気だけが部屋の中を漂う。
一番尋ねたいことを、口に出すことが出来ない。
それは最終通告のような気がして、言葉にされることが怖かった。

しかし、いつまでもこうしてお互いただ立っているわけにもいかない。
意を決して、リンナはそれを口にした。

「その縁談を……お受けになるのですか?」
その声が僅かに震えていたことに、リンナ自身、気付く余裕はなかった。
死刑囚のような気分だ、とリンナは思う。
ベルカによる最期の裁きが下されるのを、じっと待っている囚人。

俯いたまましばらくは黙っていたベルカの口が、ゆっくりと開かれる。
「……ああ……受ける、つもりだけど」
「そう、ですか……」
やはり、と思う気持ちと、何故、と思う気持ちが、リンナの中でめまぐるしく渦巻く。

ふと、手に走る痛みに気が付いた。
どうやら、無意識の内にキツく握り締めた手の爪が皮膚に食い込んでいたようだ。
手の平に残る爪痕を見つめていると、無性に泣きたい気分になった。
こんなもの、痛くも何ともない。
泣きたいほど痛むのは……身体の傷などではなく────

「……『おめでとう』って、言ってくれないのか?」
聞こえた声に顔を上げると、ベルカがどこか泣きそうな笑みを浮かべてリンナを見つめていた。
ベルカは、リンナに求めている言葉がどれほど残酷なものか分かっていない。

本当は、言いたくなどない。
そんなこと、本心から思えるはずなどない。
ベルカが他人のものになることに『おめでとう』などと、どうして思えるだろう。

それでも、言わなければ。
「おめでとうございます」と、そう言えば、ベルカは笑ってくれるだろうか。
ベルカが喜んでくれるならば、例えそれが心を殺した嘘でも────



『なあ、おまえってホントに真っ直ぐだよな』



かつて、ベルカから冗談交じりで言われた言葉が、リンナの脳裏に蘇る。



『俺、おまえのそういう嘘吐けないとこ、好きだぜ』



普通の会話の中で、軽い口調で言われたことだった。
けれど、それは冗談などではなく、ベルカの本心ではなかったか。
汚れた嘘に塗れていたであろう昔の城の暮らしの中で、ベルカは酷く傷付いていたのではないだろうか。
ここでリンナまでがベルカに嘘を吐いてしまうことは、ベルカに対する許されない裏切りなのではないか。

「リンナ……?」
反応のないリンナに不安になったのか、ベルカがリンナの名を呼ぶ。
だが、今のリンナにはベルカの呼びかけに応える余裕すらない。

どうすればいい。
ベルカに嘘を吐きたくなどない。
しかし、それはつまり、リンナのベルカへの感情を全て曝け出すしかないということだ。
そんなこと、本来ならば許されない。
いや、許す許さないではなく、その先にある未来にリンナは耐えられるのだろうか。
ベルカからの『拒絶』という、未来に。

「どうしたんだよ、リンナ……。何で、黙ってるんだ……?」
一切言葉を発さなくなったリンナに、ベルカはすっかり動揺してしまっているようだ。
早く何か言葉をかけなければ、ベルカはどんどん不安になるだろう。

リンナは一度目を閉じ、強い決意を秘めてその目を開いた。
未来を覚悟しなければならないのは、どちらも同じだ。
例え自分の気持ちに嘘を吐いて祝福するフリをしたとしても、その先をベルカの傍で見続けなければならない未来が待っている。

どちらでも、傷を負うことが避けられないのならば。
真実だけを、ベルカに告げよう。
決して、自分にもベルカにも恥じることがないように。






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続きます。
次回、告白タイム。

2010年9月19日 UP




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