縁談の断りの返事をするために、ベルカは侯爵を訪ねた。
先にオルセリートから連絡があったらしく、すんなりと侯爵へと会うことが出来た。
「……分かりました。娘には、そう伝えておきます」
「本当に、申し訳ないと思っています、侯爵」
「いえ、お気になさらないで下さい。こればかりは、例え自分の心でも思い通りにはならぬものです」
確かに、その通りだ。
心が自分の思い通りになるならば、どれほど楽だろう。
けれど、思い通りにならないからこそ、生まれる感情は大切なものたりえるのだろう、とも思う。
「此度の件、殿下御自らお運び下さったこと、心より感謝申し上げます」
「いえ、こちらこそ……今回のことで私は大切なことに気付けました。ありがとうございます」
この縁談の話がなければ、ベルカは自分の心に蓋をしたままだったかもしれない。
侯爵に挨拶をしてその場を辞した。
館を一歩出ると、先程までよりは幾分か柔らかくなった陽射しがベルカを照らす。
数歩足を踏み出したところで、後ろから声が掛かった。
「ベルカ様!」
振り向くと、侯爵令嬢が扉を開けて駆け寄ってくるところだった。
きっと、縁談を断ったことを侯爵から聞いたのだろう。
ベルカは身体ごと侯爵令嬢に向き直る。
「良かった、まだおいでだったのですね」
少し呼吸を乱しながら、令嬢は安心したように息をつく。
「……ごめん。君が気に入らないとか、そういうことじゃないんだ。
君のような人はむしろ好きだし、とても素敵な人だと思う。けど、俺は……」
どう言っていいのか分からずに、ベルカは唇を噛む。
きっと傷付けてしまっただろう彼女に、かけられる言葉が見つからない。
「……いいんです。断られるのではないかと分かっておりましたから」
「分かってた?」
「はい……。ベルカ様はお会いしていたとき、とてもお優しく接して下さいました。
けれど……私の向こうに、私ではないどなたかをご覧になっているような……そんな気がしたのです」
その令嬢の言葉に、ベルカは一瞬息が止まる思いがした。
ベルカ自身、全く気付いていなかった視線の先に、この令嬢は気付いていたのだ。
「たとえ女性としてではなくとも、ベルカ様に『好き』だと言っていただけた……そのことだけで十分です」
そう言って笑った彼女の目元が僅かに赤く腫れて見えたのは、気のせいではなかっただろう。
「どうか……どうか、その方とお幸せになって下さいませ。そのことだけ……お伝えしたかったのです」
「……ありがとう。約束するよ」
一旦言葉を切って、しばし迷ってから再び口を開く。
「君も……どうか、幸せになってほしい」
ベルカが口にするべき言葉ではないのかもしれない。
それでも、そう伝えたかった。
「……はい、ありがとうございます……」
泣き笑いのような表情を浮かべ、令嬢は深く頭を下げた。
戻ってきた
ベルカに好意を持ってくれた1人の少女を傷付けて、大切な兄弟や色んな人たちに迷惑をかけて、選んだ道だ。
もう、迷わない。
リンナにもオルセリートにも侯爵令嬢にも、自分自身にも……胸を張れるように。
宮に入ると、丁度使用人の1人が洗濯物らしきものを抱えて歩いていた。
「ベルカ殿下、お帰りなさいませ! お散歩はいかがでしたか?」
荷物を下ろして礼を取る使用人に、ベルカはリンナの所在を尋ねる。
「オルハルディ様でしたら、自室においでのはずですが……」
「そうか、ありがとな」
逸る気持ちを抑えつつ、ベルカは急ぎ足でリンナの部屋へと向かう。
急ぐ必要などないことは分かっていたが、早く、今のこの気持ちをリンナに伝えたかった。
リンナの部屋の前でもうひとつ深呼吸をすると、ベルカはドアをノックする。
「リンナ、俺だ。開けてくれよ」
慌てたような様子ですぐさま開けられたドアの向こうでは、リンナが驚いたように立っている。
「殿下! どうされたのですか?」
「いや、ちょっと話したいことがあってさ……入っていいか?」
「も、もちろんです! どうぞ、お入り下さい!」
身体をずらして、リンナはベルカを部屋へと招き入れる。
おそらく、話の内容が昨夜の返事であることをリンナも分かっているのだろう。
緊張した様子で、ベルカを見つめている。
ベルカとしても、勢い込んで来たのはいいが、どう切り出せばいいものやら分からない。
一体何から言えばいいのか、考えてはみるが上手くまとまらない。
『今、心ん中で思ったこと、全部実行しちまえよ』
ふと、シャムロックの言葉を思い出す。
あの時、思ったこと。
そうだ、グダグダと考えていても仕方がない。
何から言えばいいのか分からなければ、いっそ、先に行動に移してしまえばいい。
ベルカは心を決めると、ズカズカとリンナに歩み寄り、殆ど体当たりのような勢いで抱きついた。
背中に腕を回して、ギュッとしがみつく。
しばらくの間が空いた後、我に返ったらしいリンナのうろたえた声が降ってきた。
「で、で、で、殿下っ……!? ど、どうな、なさ、なさったのですか!?」
さすがに動揺しすぎじゃないのかと思うが、無言でいきなり抱きつかれれば無理もないのかもしれない。
服越しにリンナの体温を感じる。
リンナの心臓の鼓動が身体に伝わる。
それがたまらなく愛おしく、ベルカは目を閉じる。
どうして、諦められるなどと思ったのだろう。
こんなにも、好きでたまらないのに。
このぬくもりを失うことなど、最初から出来るはずがなかったのだ。
「リンナ……おまえが、好きだ」
感じる鼓動が、いっそう速くなった気がする。
「縁談は断ってきた。俺は……他の誰かじゃなくて、おまえに……ずっと傍にいてほしい」
「殿下……」
「おまえがいないのは嫌だ。この先もずっと、おまえと一緒に生きていきたい」
精一杯の想いを込めて、ベルカは必死に言葉を紡ぐ。
「ずっと悩んでた。俺は男だし、おまえもいつか女の方がいいって気付くんじゃないかって」
「そのようなことは……!」
「分かってる。俺が、勝手に不安になってただけなんだ」
いつか、リンナが自分から離れていくことを。
「それなら、最初から諦めた方がいいんじゃないかって思った。けど……違うんだ」
シャムロックとの話の中で、気が付いた。
「どうなるか分からない未来に怯えててもしょうがないんだ。大事なのは、今の気持ちだ」
リンナだってそう言っていたのに、どうして自分はそれに気付かなかったのだろう。
「もう、自分に嘘は吐かない。俺は、リンナが好きだ。どうしようもないくらい、好きだ」
この気持ちが少しでもリンナに伝わるようにと、ベルカは繰り返す。
「おまえをもう離してやれないかもしれない。それでもいいなら……俺と一緒に生きてくれ」
心の中をすべて吐き出して、リンナの返事を待つ。
そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。
ふと、ベルカの背中にぬくもりが触れた。
最初は恐る恐るといった様子で触れたその手は、次第に力を強め、やがてキツくベルカの身体を抱きしめる。
「殿下……殿下……!」
ひたすらにベルカを呼ぶ声も、抱きしめる腕も、どこか震えている。
その全てが暖かく、悲しいわけでもないのに泣けてきそうだ。
男のプライドがなければ、本当に泣いてしまっていたかもしれない。
腕が緩められるのを感じ、ベルカもまたしがみついていた腕を放す。
僅かに開いた距離に見上げると、リンナも泣きそうな顔をしている。
「……リンナ」
小さく呼ぶと、リンナの大きな両の掌が、そっとベルカの頬を包む。
ゆっくりと目を閉じると、リンナの吐息を感じ、少しかさついた唇が静かに重ねられた。
「地方の宮……ですか?」
「ああ。一緒に行かないか? さすがに2人っきりってわけにはいかねーだろうけどさ」
照れたように笑いながら、ベルカは紅茶に口を付ける。
先程の口付けの後、2人揃ってどうにも照れてしまい、上手く言葉を交わせなかった。
リンナが真っ赤になってオロオロとしながらもお茶の用意をしてくれて、こうして席に付き、ようやく多少落ち着いて話が出来るようになったのだ。
それでもまだ互いに顔の赤みが完全には消えていないが、これは仕方がないだろう。
「公務の忙しさも落ち着いたし、城のことはオルセリートならきっと上手くやっていける。
本当は、『王子』の身分も置いてくつもりだったんだけど……」
「殿下!?」
さすがにそれは予想していなかったのか、リンナが驚いた様子で身を乗り出す。
「オルセリートに止められた。それだけはダメだって」
そう言うと、リンナがホッと息を吐いたのが分かる。
「……俺と一緒に来てくれるか?」
ジッと見つめながら尋ねると、リンナは嬉しそうに微笑んだ。
「殿下が望んで下さるなら、どこへでもお供いたします」
「地獄の底でもか?」
悪戯っぽく笑うと、リンナの瞳に真剣な色が浮かぶ。
「はい。地獄の底でも、世界の果ての滝の向こうでも」
迷いなく言い切られ、ベルカの頬が一瞬にして赤く染まる。
「そ、そうか。え、と、まあ、準備とか色々あるからもう少し先になるけど……」
動揺のあまり少々どもりつつ、ベルカは誤魔化すように視線を逸らす。
「そうですね。後日、私もオルセリート殿下にご挨拶を致します。しかし……」
リンナの表情が少し翳ったのを見て、ベルカは首を傾げる。
「どうしたんだ?」
「いえ……私のような者が殿下と……その、このような関係になっていることを、申し上げるべきなのかと……」
「……いや、知ってるけど」
「……は……?」
ベルカの言葉の意味が理解できなかったのか、リンナが少々間の抜けた声を返してくる。
「だから、オルセリートは知ってるから。俺たちのこと」
「………………しししし知って……、って、そ、そそれはどういう……!」
赤いのか青いのかよく分からない顔色で、リンナがダラダラと汗を流している。
ちょっと面白いが、このままにしておくと倒れてしまいそうだ。
「なんか、気付いてたみたいだ。俺がおまえを好きだってこと」
さすがに少し照れくさくて、視線を紅茶に落としながら話す。
「分かった上で、あいつは俺の我侭を聞いてくれたんだ」
「そうだったのですか……。では、そのお気持ちに応えねばなりませんね」
「……ああ、そうだな」
誰に何を言われても、決してもう迷うことのないように。
自分自身の選択を誇れるように、生きていこう。
「リンナ」
呼んで、手を伸ばす。
その手に、リンナの手が重ねられた。
少し骨ばった指が、ベルカの手を包むように握る。
もう、この繋いだ手と心を離さない。
たとえ未来が決して優しいものばかりではなかったとしても、共にいられればきっと乗り越えられる。
心の辿り着いた先にあるこのぬくもりを、二度と見失ったりしない。
目の前の愛しい人と自分を見守ってくれていた人たちを思いながら、ベルカはそう誓いを立てた。
後書き。
「心の行く先」全5話、お付き合い下さってありがとうございました!
書きたいものいっぱい詰め込んだので、書いた本人は大変満足です。
(特にリンベルやキリオルのキスシーンとか)
出来れば、読んで下さった方にも楽しんでいただけたら嬉しいなと思います。