心の行く先



 ─ 4 ─



窓際に持ってきた椅子に座りながら、オルセリートは窓の外を眺める。
こんな風にぼんやりと景色を見るのは、何だか久しぶりのような気がする。
忙しさもようやく一段落がつき、ゆっくりできる時間が取れるようになった。

いっそうたた寝でもしたい気分になり、緩やかに目を閉じようとしたところで、ノックの音が響いた。
「失礼します。オルセリート様、ベルカ殿下がお見えです」
「分かった、通してくれ」
そうして入ってきたベルカに、オルセリートは立ち上がりながら微笑みかける。

「ベルカ、今日はどうしたんだい。折角の休みなんだから、ゆっくりすればいいのに」
ここのところはベルカもずっと忙しく、ロクに休めていなかったはずだ。
ベルカは忙しいオルセリートを助けようと、あちこち走り回って頑張ってくれていた。
公務も落ち着いたから、今日は一日休んでもらおうとそう伝えてあったはずなのに。

「ああ、ちょっと、話したいことがあって……」
妙に言いにくそうなベルカの様子で、何となく用件を察してしまう。
だが、敢えてそれは言わず、ベルカが話し出すのを待った。

少しの間、躊躇うように視線をさまよわせていたベルカだが、ひとつ呼吸を深くするとオルセリートに向き直る。
「オルセリート。……悪い、あの縁談だけど……白紙に戻してくれないか」
ああ、やっぱり……と思った。
「すげー我侭を言ってるのは分かってる。けど、俺は……結婚は出来ない」
予想通りの用件と答えに、オルセリートは小さく苦笑する。

「そう……分かったよ。先方には僕から伝えておく」
あまりにもあっさりと受け入れたことに驚いたのか、ベルカは目を丸くしてこちらを見ている。
「あ、いや……俺から話すよ。ちゃんと、直接謝んねえと……。
 ただ、おまえには先に言っとかねえとって思ったから、さ」
「そっか……そうだね。じゃあ、僕は後から挨拶だけしておくよ」
「ああ……悪いな」
申し訳なさそうに頭を下げるベルカに、オルセリートは首を横に振る。
「いいんだ、望まない結婚なんて互いにとって不幸にしかならないからね」
それに、こうなるだろうと思ってたから……とは、心の中だけで付け加える。

実のところ、縁談の話は全くと言っていいほど進めてはいなかった。
最終的に、きっとベルカは断るだろうと思っていたから。

ベルカへの縁談の話を最初に持ってきたのは、キリコだった。
その相手を見た時、キリコの思惑が分かった。
その侯爵家の令嬢は、髪の色といい立ち居振る舞いや話し方といい、どこかリンナ・ジンタルスを髣髴とさせた。
確かに、彼女ならばベルカは気に入るかもしれないと思った。
きっと、ベルカ本人には自覚のないところで。

けれど、それは果たしてベルカと彼女にとって幸せなことだろうか。
そんな思いが、オルセリートには拭えなかった。
キリコはおそらく、ベルカを彼女と結婚させて子を作らせたかったのだろう。
オルセリートに万が一子が出来なかった時の、保険として。
どんなに望んでも、双方に問題など何もなくても、子が出来ないということはある。
だから、王家の血を継ぐ世継ぎを確保するという点において、キリコはベルカを結婚させたかったのだ。
そして、キリコもベルカの気持ちの向く先に気付いていた。
そのため、わざわざリンナに似た雰囲気を持つ令嬢をあてがった……といったところだろう。

正直、ベルカが断ってくれたことでホッとしていた。
ベルカには、幸せでいてもらいたいから。
キリコと手を結んだあの日からも、オルセリートが望んだことはひとつだった。
ベルカとミュスカを守りたい。
本当に、それだけだったのだ。
ただ、オルセリートはベルカやミュスカを見くびりすぎていたのだろう。
2人とも、守られるだけの存在ではなく、オルセリートを助けようとしてくれていた。
それに気付かず、ただ籠の中の鳥のように大事に城の中で守っていればいいと思っていたのだ。
何も知らせず、何もさせず、ぬるま湯の中で何も心配などせずに穏やかに暮らせるように。
本当は、共に戦ってほしいと全てを打ち明けるべきだったと……そう気付くまで、随分と時間はかかってしまったけれど。
今、こうして『兄弟』でいられることが、オルセリートは何より嬉しかった。

「それで、さ、これからのことなんだけど」
ベルカが困ったように、口を開く。
「……城を、出たい?」
先を読むようにそう返すと、ベルカは酷く驚いた様子を見せる。
「分かってるつもりだよ。ベルカが誰を好きなのか、誰と一生を共に過ごしたいのか」
「オルセリート……」
「確かに、彼と共に生きるなら、城では厳しいだろうね」
この城の中では、ベルカは王子殿下として常に周りから敬意と注意を払われる立場にある。
そんな中で、ただでさえ真っ正直な2人が、その関係を隠し通すことは難しいだろう。
そして、2人の関係が周りに知れれば大きな問題になる。
王子が従者と──いや、それだけならまだしも、男と特別な関係にあるとなれば、上級貴族たちが決して黙っていないはずだ。
下手をすると、ベルカを誑かしたリンナを処刑すべきだ、などという論調さえ生まれかねない。
そこまではいかなくとも、リンナがベルカの従者の任を解かれてベルカから遠ざけられることは避けられない。

「構わないよ、今はもう公務も落ち着いてるし、キリコの補佐もある。……大丈夫」
そう言って笑うと、ベルカが辛そうに目を伏せる。
「ごめん……オルセリート」
「謝らなくていいよ。実を言うとね、僕は嬉しいんだ」
「嬉しい……?」
「ベルカが自分の気持ちを貫こうとしていることも、それを僕に話しに来てくれたことも、ね」
それは、オルセリートの本当の気持ちだった。

けれど、ひとつだけ、ベルカの希望に添えないだろうことがある。
「丁度良い宮が地方にあるから、そちらを使えるように手配させるよ」
「え、いや、ちょっと待ってくれ、俺は……」
「ダメだよ、ベルカ。それだけは、僕は承諾できない」
ベルカが全てを言う前に、オルセリートははっきりと言い切る。

ベルカが何を言おうとしているのか、オルセリートには分かっていた。
おそらくベルカは、『王子』という地位を捨てようとしている。
リンナと暮らすために城を出るのに『王子』の身分を持ち続けるなど虫が良すぎると、ベルカは考えているのだろう。
この先も城でオルセリートを助けていけないのなら、王子でいることは出来ない、と。
ベルカの王子としての責任感の強さが、逆にベルカを王子でいられなくしている。

いっそそれを許した方が、ベルカは幸せになれるのかもしれないとも思う。
縛られる身分も何もなく、ひとりの人間として愛しい人と暮らす。
それはきっと、ベルカにとって最上の幸福だろう。
だけど、どうしてもオルセリートはそれを受け入れられなかった。

これは、オルセリートの我侭だ。
ベルカとの、兄弟としての繋がりを失いたくない。
王子であることを捨ててしまえば、ベルカはもう城には戻れなくなる。
オルセリートは、ベルカの帰る場所でいたかった。
考えたくはないが、リンナに万が一のことがあったとき、傷付いたベルカが帰ってこられる最後の場所でいたいのだ。
折角取り戻したと思った兄弟としての絆を、断ち切ってほしくなかった。

「ベルカ、僕は君に王子であることだけは捨ててほしくない。兄弟で、いたいんだよ」
「王子じゃなくなっても、俺とおまえは兄弟だよ。それは変わらない」
「そうかもしれない。けど、理屈じゃないんだ。……ねえ、お願いだよ、ベルカ」
そう言えば、ベルカが切り捨ててしまえないことを知っていた。
随分と、卑怯な言い方だと思う。
しかし、こうするしか、ベルカの決意を変えることは出来ないだろう。

「それに、僕に万一のことがあったら、君が王子じゃないと困ったことになるしね」
「オルセリート!」
「……ごめん、冗談だよ。だけど、そうはならないにしても、何か大きな問題が起こらないとも限らない。
 そんな時、君に助けてくれって頼むことがあるかもしれない」
言いながら、オルセリートは壁に背を預ける。
「僕が助けを求めたら、君は、助けに来てくれるだろう?」
「そんなの、当たり前じゃねーか」
「だったら、王子のままでいてよ。じゃなかったら、僕を助けるために城に入ることすら出来ないじゃないか」
「それは……」
ベルカが、言葉に詰まる。
もう少しで、考えを変えてくれるだろうか。

「地方の宮で暮らすだけなら、僕やミュスカだって、たまには君に会いに行ける。
 その機会を、奪わないでくれ。頼むよ、ベルカ」
「オルセリート……」
ベルカがゆっくり瞼を閉じ、じっと考えている様子を見せる。

結論が出たのか、同じようにゆっくりとベルカは目を開けた。
「……分かった。おまえに、任せるよ」
その答えを聞いて、オルセリートは心の底から安堵した。
思わず力が抜けそうになって、自分がかなり必死になっていたことを知る。

「ありがとう、ベルカ」
「いや……こっちこそ、ありがとな。我侭ばっかりで悪い」
小さく笑ったベルカを見て、ホッと息をつく。

「じゃあ、ベルカ、行っておいでよ」
「え?」
「まだ、彼には言ってないんだろう?」
ベルカのことだから、きっと縁談の話を先に片付けるまでは言えないなどと思ってここに来たのだろう。
「先に侯爵のところに行っておきたいなら、連絡をしておくから」
「……ああ、本当にありがとう、オルセリート」
「いいから、早く行きなよ。宮のこととかも、後で連絡する」
そう言って急かすと、ベルカはもう一度礼を言ってから駆け足気味に部屋を出て行った。





城に滞在中の侯爵に連絡を言付け、オルセリートは再び窓際の椅子へと腰を下ろす。
そうしてしばらくぼんやりとしていると、ノックの音が響き、次いで扉が開く。
「ああ、キリコ、ご苦労だったな」
「いえ……オルセリート様、ベルカ殿下が来られていたそうですが」
「相変わらず耳聡いな。用件も、分かってるんだろう?」
そう言うと、キリコは眉を寄せてため息をつく。
「……縁談のことですか。この間までは好感触だと思っていたんですが」
「残念だったな、思い通りにいかなくて」
「そんな嬉しそうに仰らないで下さい」
珍しく苦々しそうなその表情に、つい楽しくなってクスクスと笑ってしまう。

「いいじゃないか。僕に子が出来れば、何の問題もない。そうだろう?」
「それはそうですが……。その前に、后を娶っていただかなければなりません」
「そうだな……后選びも、進んでるのか?」
「……まあ、多少は。何しろ未来の王妃候補ですから、慎重にならざるをえません」
「……慎重になる理由は、それだけか?」
キリコの顔を覗き込むように尋ねると、その手がオルセリートの頬に触れる。

「他ならぬ、あなたの后ですから。並の女では、我慢なりません」
そっと撫でるように、キリコの掌がオルセリートの頬を滑る。
「おまえを納得させる女か。……当分先の話になりそうだな」
そもそも、キリコが納得するような女性が存在し得るのかの方が気にかかるところではあるが。
「おまえの方は、どうなんだ。結婚の目処はついているのか?」
キリコとて、ラーゲンの家を継ぐならば当然の事ながら結婚して跡取りを設ける義務がある。
「私のことは、どうでも良いでしょう」
「どうでも良いと思うのか? 本当に?」
頬に触れるキリコの手に、自らの手を重ねる。

「……幾人か、候補は挙がっております。正式に跡を継ぐまでに、決めることになるでしょう」
「そうか……」
呟くと、キリコが手を翻し、触れていたオルセリートの手を取る。
そうして、その手を持ち上げると恭しい仕草でその手の甲に口付けた。
「正直なところを申し上げますと、妻など誰でも良いのです。私の邪魔にならないなら」
「結婚相手が気の毒だな」
「そうですね。ですから、いっそラーゲンの家柄だけが目当ての女の方が良いのかもしれません」
確かに、その方が利害の一致という点において気は楽なのかもしれない。

「家柄を守るということは、存外面倒なものです」
カーテンを引いてオルセリートを隠しながら、キリコが身を屈める。
再び頬に添えられたもう片方の手がオルセリートの顔を上げ、暖かい感触が唇に触れた。
「んっ……」
一度離れては角度を変えて再び口付けられる。
「……こうして、口付けひとつにも人目を憚らなければならない」
「確かに、な……。まあ、僕たちには似合いかもしれないが」
僅かに上がった息を整えながら、自嘲気味に答える。

自分たちには、この微妙に歪んだ関係が合っているのだろう。
少しだけ、ベルカとリンナの関係を羨ましいと思ったことはある。
あの2人のように、互いを心から信頼し、惜しみなく愛情を注げたなら。
けれど、オルセリートとキリコは決してそのような関係にはなれない。
立場などの問題なのではなく、これはそれぞれの性質の問題だ。
白には白の関係があり、黒には黒の関係がある。
それは、どうしようもないことなのだ。

「……キリコ、以前ベルカのために用意してあった宮があっただろう」
まだベルカと和解する前、キリコがベルカを『隔離』するために用意しておいた宮。
「あれを、使えるように手配してくれ」
最初に用意した目的はどうあれ、宮自体はとても静かで良い場所にある。
目的が変われば、その宮を使ってもらうことに問題はないだろう。
「使用人は、必要最低限の数でいい。……ただし、口が堅く、ベルカに好意的な者だけを」
「承知致しました」
僅かに苦笑した風に見えるキリコの様子を見て、オルセリートは眉を寄せる。
「何だ?」
「いえ……相変わらず、あなたはベルカ王子に甘いなと……そう思っただけです」
「……そうか?」
「ご自覚がありませんでしたか。これは重症ですね」
「……うるさい」
プイと横を向くと、楽しそうに小さく笑いを漏らす声が聞こえる。



カーテンを少し開けると、日の光が眩しくオルセリートを包む。
どうか、ベルカはこの光の中で幸せに暮らしてほしい。
そうして、たまには帰ってきて顔を見せてくれたらいい。
互いに、どうにも離れられない相手への想いやちょっとの愚痴をこっそり話すのもいいだろう。
ベルカとミュスカが幸せならば、きっとオルセリートも幸せになれる。

────だから、君はめいっぱい幸せになってよ、ベルカ。

心の中で呟いて、オルセリートは緩やかに瞳を閉じた。






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もひとつ続きます。
次回、最終話。

2010年10月10日 UP




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