嫉妬と我侭



 ─ 前編 ─



雪を踏みしめながら、リンナはベルカの後について歩く。
頭に巻かれた包帯が、痛々しい。
自分の決断が遅れたがために、このようなケガを負わせてしまった。
もっと早く覚悟を決めていれば、こんな目に遭わせずに済んだかもしれない。

そんな風に後悔していると、前を歩いていたベルカが何を思ったのか包帯を解きだした。
「で、殿下! どうなさったのですか!?
もしや傷が痛むのだろうかと焦って問いかけると、ベルカがきょとんとした顔で振り向く。
「いや……なんか鬱陶しくって。別に、そんな大したケガでもねーし」
「ですが……もし傷が化膿でもしたら……」
「大げさだな。ヘーキだって。それに……包帯とか巻いてたら、妙な心配させそうだしな」
困ったように、ベルカが笑う。

誰に、と聞き返そうとは思わなかった。
それはきっと、洞窟でベルカが言っていた『恩人』だろう。
あの洞窟で、ベルカはその恩人とリンナのために、その命を差し出そうとした。
今でも、思い出すだけで背筋が凍りそうになる。
おそらくベルカが一番助けたかったのは、その恩人だ。
ベルカにそこまでさせるその恩人とは、どんな人物なのだろうか。
サナでベルカと共に逃げていたあの詩人のことなのだろうが、リンナは詩人の人となりなどは殆ど知らない。
考えてみれば、あのサナでの一件でも、ベルカは危険を冒して彼を助けに行った。
よほど、ベルカにとって大切な人物なのだろう。
何か得体の知れないもやもやとした気持ちが、胸に澱んでいる。
ベルカを助けてくれた人物なのだから、むしろリンナにとっても好意を持つべき相手であるはずなのに。

アルロン伯別邸に辿り着くと、突如扉が開き、そこから勢い良く誰かが飛び出してきた。
金髪に赤いリボン。やはり、あの時の詩人だ。
ベルカの名を叫びながら突進してきた詩人は、ベルカの無事を喜びながらその勢いのままベルカに抱きついた。

途端、何かがチクリと胸を刺した。
ただ無事を喜んで抱き合うくらい、大したことではないはずだ。
それだけ、ベルカのことが心配だったのだろう。
分かっているのに、棘は刺さったまま抜けない。
遠慮のない親しげな様子に、割って入ることすら出来ない。
引き剥がしてしまいたい衝動に駆られ、それを振り払うように軽く頭を振った。



翌朝、「おまえも帰れ」と、そう突き放すように告げられて一瞬立ち尽くす。
詩人──エーコは連れて行くのに、何故リンナのことは頑なに置いていこうとするのだろう。
リンナが無関係というなら、エーコは違うのだろうか。
そもそも、ベルカとエーコはどういった関係なのか。
ただ単に、助けてもらった恩人というだけなのか、それとも────

妙な邪推をしてしまう自分の醜さが、嫌になる。
けれど、それがもし邪推ではなかったら。
本当に、ベルカとエーコが特別な関係であったなら。
いや、もしそうだとしても、リンナにそれをどうこう言う権利はない。
共に付いて行かせてもらえるだけでも、有難いことなのだ。

それでも、2人が仲良く話している姿を見ると目を逸らしたくなった。
「エーコ」とベルカが彼の名を呼ぶたび、黒い靄が胸の内に溜まっていく。
アルロン伯の屋敷を発ってからも、リンナは名前すら訊いてはもらえない。
ベルカが王族である以上、ベルカ自身が尋ねてくれるまではリンナは名乗れない。
けれど、ベルカの方は全くリンナの名を気にする気配はない。
名前を知らなくても気にならないくらい、自分はベルカにとってどうでもいい人間なのだろうか。

いや、それだけならまだマシな方かもしれない。
リンナが付いてくることを、本当に嫌がっているのだとしたら。
アルロンの屋敷でのやり取りで付いていくこと自体は許してもらえたが、それもエーコの口添えがあってこそだ。
エーコに言われたから仕方なく、許しただけなのかもしれない。
そうなのだとしたら、今の自分はあまりにも滑稽だ。

けれど、それでもリンナはベルカを守りたかった。
ベルカにとって迷惑でしかなくても、少しでもこの命と身体をもってベルカを助けたかった。

考えても仕方のないことだとは分かっている。
ベルカの心の内など、リンナに見えるはずもない。
傍に置いてもらえている。
それだけで満足すべきだと、頭では理解しているのに。



城に潜入するにあたっての設定の確認をするためにエーコの部屋を訪ねようとした時、部屋の中から大きな物音が聞こえた。
何かあったのかと、慌てて扉を開ける。
「エーコ殿! どうかなさい────」
口に出した言葉が、不自然に途切れる。
それ以上、声が出なかったのだ。

ベッドの上に折り重なるようにして倒れている、マリーベルの姿をしたベルカとエーコ。
エーコがベルカに覆いかぶさる形で倒れ込んでいるため、ベルカの表情は見えない。
こちらを振り向いたエーコと目が合った瞬間、カッと頬に熱が上る。
「あ……し、失礼を……致しましたっ……」
視線を逸らし、リンナは動揺の残るままに急いで扉を閉めた。

その場を一刻も早く離れたくて、リンナは足早に自分に割り当てられた部屋へと歩く。
部屋に入り扉を閉めたところで、思わずその場に座り込んでしまった。
やはり、そうだったのだ。
ギュッと目を瞑ると、先程の光景が脳裏に浮かんでしまう。
振り払おうとしても、目に焼きついて離れない。

ダメだ、忘れなければ。
いつも通りの顔で、2人に接することが出来るように。
この先もずっと、ベルカの傍でベルカを守っていくために。

そう考える理性とは裏腹に、感情は悲鳴を上げている。
何がこんなに痛みを生むのか。
それも分からないままに、呼吸を奪われるほど胸が締め付けられていく。

ガリ、と爪が部屋のカーペットを引っ掻く。
何故、こんな気持ちになるのだろう。
ベルカが男とそういう関係にあることが、ショックだったのだろうか。
相手が女性だったなら、こんな思いはしなかっただろうか。
そうじゃないことを、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。
けれど、今のリンナにはそれに気付く余裕すらなかった。

コンコン、という小さな音と共に、扉に凭れたままの背中に軽い震動を感じた。
「そこにいるよね、ぼくだよ、エーコ」
「……エーコ殿?」
「ちょっと話があるんだけど、部屋に入れてくれないかなぁ?」
話とは、おそらく先程の件だろう。
リンナは急いで立ち上がり、ひとつ深く呼吸をする。
普段通りの姿を。声を。
そう心の中で呟き、リンナは扉を開けた。

扉を開くと、リンナが言葉を発する前にエーコは笑顔でスルリと部屋に入ってきた。
「ごめんねー、あんまり人前で話すことじゃないからさ」
悪びれずに言うと、エーコはソファに腰掛ける。

「……エーコ殿、お話というのは……」
「あ、うん、さっきのことなんだけど……」
困ったように笑うエーコを遮るように、リンナは少し早口で言葉を重ねた。
「先程のことでしたら、決して他言は致しませんのでご安心ください……」
男同士というのは、やはり世間一般から見れば特殊な関係だ。
人に知れることは、極力避けたいのは当然だろう。

だが、エーコはきょとんとした顔でリンナを見ている。
訳が分からずリンナが眉を寄せると、エーコは小さく、ふぅん……と呟いた。
「そっか、それならいいや」
ニッコリ笑って、エーコが立ち上がる。
リンナの横を通り過ぎていくエーコを、ただその場に立ち尽くしたまま見送る。

そのまま部屋を出て行くかと思っていたが、エーコは立ち止まるとリンナに向かって振り返った。
「……もー! そんな顔するんなら、最初からそういう余計なこと言わずに、確かめればいいじゃない!」
エーコがビシっとリンナを指差す。
『そんな顔』というのがどんな顔のことなのかは分からないが、エーコは怒っているのか困っているのか判断のつきづらい表情でジッとリンナを見ている。
「『さっきのことはどういうことなのか』って訊きたいんでしょ!」
「わ、私は、そのような……」
そんなことを尋ねる権利など、リンナにあるはずがない。

「ハッキリしないなぁ。訊きたいの、訊きたくないの。簡単な二択じゃないか、どっち?」
訊きたいか。訊きたくないか。
答えなど、ひとつに決まっている。
けれど、それを口に出していいものだろうか。
そんな考えが頭を掠めるが、エーコがここまで答えられる状況を整えてくれている。
ここで誤魔化すのは、エーコを失望させるだけのことだろう。

「……訊かせて、いただけるでしょうか」
そう言うと、エーコがやっとか、とでも言いたそうな顔で笑う。
「いいよ、教えてあげる」
その顔が妙に楽しそうに見えたのは、きっと気のせいなのだろう。

「本当は部屋に来てすぐに誤解とくつもりだったのに、変なこと言うんだもん」
「誤解?」
「そう、誤解。なんか、すっごい盛大に誤解してるでしょ? ぼくとベルカのこと」
誤解。あの光景を見てリンナが考えたことが、すべて誤解だと言うのだろうか。

「しかし、誤解なら、何故あのような……」
「あー……あれはね、事故っていうか……」
言いにくそうに視線を泳がせた後、エーコがポケットから何かを取り出す。
エーコの手の平の上に乗ったそれを、リンナはまじまじと見つめる。

「花の、髪飾り……ですか?」
そこにあったのは、桃色や黄色の花を象った美しい髪飾りだった。
「そう、これ、マリーベルたんに似合いそうだと思わない?」
この髪飾りがマリーベルを彩った姿を想像し、リンナは頬を染める。
「ね? 思うでしょ? だから、これ付けてもらおうと思ったんだよね」
「いや、しかし……」
ただでさえ女装を嫌がっているベルカが、素直にこのようなものを付けるとは思えない。

「これ付けてキミに見せてあげたら喜ぶよーって言って付けてもらおうとしたんだけど、ベルカがすっごい嫌がってさー」
それはそうだろう、と思う。
供をするようになってまだ間もない自分ですら、その様子が容易く想像できる。
「でも折角用意したんだし、いっそ実力行使で……って思ってバタバタしてたら、弾みでベッドに倒れこんじゃって」
ここまで言えば分かるよね、といった顔で、エーコが笑う。

「キミに見られてベルカも相当焦っちゃっててさ、慌てて追いかけようとしてたんだけど、今のベルカじゃうろたえちゃってまともに話せないと思ってぼくが来たんだよ」
とりあえず、事の次第は把握できた。
自分が思っていたような関係ではなかったことに、ひとまず安堵する。
だが、それでも気持ちが晴れたかといえば、そういうわけではなかった。
先程の光景がたまたま偶然だっただけで、ベルカとエーコの互いの気持ちがどうなのかは分からない。

口を出すべきことではない。
それは理解している。
しかし、気付いた時には言葉が零れ出ていた。

「……エーコ殿は、殿下をどのように思っていらっしゃるのですか」
瞬間、思わずハッと片手で口を押さえたが、既に発してしまった言葉は戻らない。
「どのように、って言われても困っちゃうなぁ。トモダチ? ……とも、ちょっと違う気もするし」
腕を組んで首を捻った後、エーコは悪戯っぽい笑みを浮かべてリンナを見る。
「まあ、端的に言うと『好き』かな!」
「そう、ですか……」
やや俯きながらそう答えると僅かに笑い声が聞こえてきて、顔を上げる。
「ははっ、ごめんごめん! 冗談だって! もちろん嘘じゃないけどね、キミが思ってるようなことじゃないよ」
エーコの言葉の意味が分からず、リンナはただその場でエーコを見返す。
「ぼくもベルカも、お互いに別に変な気持ちはないよ。大体、ぼくは可愛い女の子が好きなの! いくらマリーベルが可愛くても『中身:男』には興味ないよ!」
だから安心しなよ、と手をひらひらと振りながらエーコは笑い飛ばしている。

本来ならば、安心しろと言われるようなことではない。
けれど、確かにホッと息をついている自分がいる。
ベルカとエーコが特別な関係ではなかったことに、確かに自分は安堵している。
きっとベルカの未来を思うが故の感情なのだろうと、リンナは自分を納得させる。

エーコは再びソファに近付き、ボスっと音を立てて座る。
「ねえ、今頃きっとベルカもヤキモキしてるだろうからさ。誤解とけたって言ってきてあげなよ」
「あ、は、はい!」
考えてみれば、ベルカはあれから部屋に1人でいるのだ。誤解がとけたかと気を揉みながら。
早く安心できるようにしなければと、リンナはエーコに一礼してから先程の部屋へと向かおうと踵を返しかける。
「あ、ちょっと待って!」
かけられた声に振り向くと、エーコが立ち上がりリンナの方へ歩いてきていた。
そして、リンナの目の前に来ると手の平を差し出す。
「ついでにさ、これ、ベルカに渡してきてよ。キミが言えば付けてくれるかもしれないし」
その手の平の上にあったのは、先程も見せてもらった花の髪飾りだった。

「いえ、ですが……」
正直なところ、この髪飾りを付けたマリーベルを見たいのは確かだ。
だがリンナが言ったからといって、ベルカがこれを付けてくれるとは思えない。
そもそも、誤解の原因になったこれを渡すことはベルカを怒らせることにならないだろうか。
「いいからいいから!」
言いながら、エーコは半ば無理やりに髪飾りをリンナに押し付ける。
押し返すわけにもいかず、結局リンナはそれを受け取ってしまった。






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後編へ続きます。
次はベルカのいるお部屋で。



2010年12月5日 UP




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