心の中を掻き乱すような、あの強い意志を持った声。
その声を発した人物の姿に、悟空は思わず目を見開きました。
「三蔵……!?」
今、自分の見ているものが信じられずに、悟空は呆然としています。
どうして、明日の朝に来るはずの三蔵が此処にいるのでしょうか。
すると、三蔵から少し遅れて捲簾がその場に姿を現しました。
そう、あの時、観世音菩薩が「悟空を月へと連れて帰る」と言ったのを聞いてすぐさま、捲簾は馬を走らせました。
おそらくは近くに来ているであろう、三蔵に知らせるために。
明朝の辰の刻に来るという事とこの家と都との距離から推測し、捲簾は三蔵の泊まっているであろう宿を探していたのです。
さほど時間をかけずに見付かったのは、幸運も重なっての事でした。
そして捲簾から事のあらましを聞いた三蔵は、すぐさま一番早い馬に乗って駆け出したのです。
大切な姫を失うかもしれないという、激しい恐怖に耐えながら。
「悟空! 何してやがる! てめえは……俺の后になるんだろうが!」
三蔵は馬を下りながら、常にない大きな声で悟空に叫びました。
「三蔵……。俺は……」
未だ涙の乾かぬ瞳で、悟空は三蔵を見つめます。
三蔵は馬を下りると、月の兵達の制止を振り払いながら悟空の元へと走りました。
「悟空……!」
何人もの兵に邪魔をされつつも、三蔵は確実にその距離を詰め、その手を伸ばしました。
「三蔵……!」
そして悟空もまた、無意識の内に三蔵に向かってその手を伸ばしました。
その手と手が、正に触れ合わんとした刹那。
竜巻のように激しい風が巻き起こり、悟空を乗せた籠は高く舞い上がってしまったのです。
「悟空───!!」
その叫びを吸い込むかのように、悟空を乗せた籠と月の世界の住人達は夜空に輝く月へとその姿を消してゆきました。
それから二年の時が過ぎました。
帝である三蔵は、まるで機械のように仕事をこなす毎日を送っておりました。
八百鼡や独角が少しでも三蔵の気晴らしになればと、色々な宴を催したりするのですが、それも全く意味を為しません。
以前よりもずっと感情を失くしてしまったかのような三蔵に、八百鼡は少し自分のした事を後悔しておりました。
こんな事になるなら、三蔵を悟空に逢わせようなどとしなければ良かったのではないか……と。
自分のした事が却って三蔵を苦しめてしまっている事が、八百鼡には何より痛かったのです。
八百鼡は三蔵の執務用の机の前に立ちました。
「……三蔵様。少しお休み下さい。そんな顔色では、皆が心配致します」
「必要ねえ。まだ仕事が残っている」
八百鼡に一瞥もくれずに、三蔵は書類を何枚も見比べています。
「ですが……」
「必要ないと言っている。お前はお前の仕事をしろ」
そうは言われても、三蔵の体調の悪さは一見して分かるほどなのです。
ただでさえ、あれ以来体調を崩しがちなのです。
このまま放置すれば、近頃都に流行っている病にかかってしまう事だってあるかもしれません。
八百鼡は両手をぎゅっと握りしめると、決意したように前を向きました。
「三蔵様。お休みを取って下さい」
八百鼡が再度促しても、三蔵は今度は無言のままです。
「三蔵様……」
「しつこい! さっさと自分の仕事に戻れ!」
最近はめっきり感情的にならなくなっていた三蔵が、珍しく怒鳴り声を上げました。
「駄目です! 三蔵様の身の回りのお世話も私の仕事です!」
「てめえ、いい加減に……」
音を立てて椅子から立ち上がり、ようやく八百鼡を見た三蔵は言葉をそこで途切れさせてしまいました。
「八百鼡……」
目の前の八百鼡は、普段からは考えられないくらい厳しい表情をしておりました。
そして、その瞳には……うっすらと涙が滲んでいたのです。
涙が流れてしまわないように懸命に堪え、両手をきつく握りしめながら八百鼡はそこに立っておりました。
今まで三蔵がどんなにきつく当たっても笑顔で受け流していたあの八百鼡が、涙を浮かべているのです。
「……お休みを取って下さい、三蔵様」
もう一度、今度はゆっくりと、八百鼡は三蔵を真正面から見つめながら言いました。
三蔵は椅子を引いて机から離れると、執務室の扉へと向かいました。
「……少し仮眠する。目を通した書類は右側に置いてあるから、それぞれの担当者に渡しておけ」
それを聞くと、八百鼡の表情が見る間に明るくなりました。
「はい!」
一気に元気になった声を聞きながら、三蔵は執務室を出て仮眠用にしている部屋へと向かいました。
一方、金蝉もまた、魂がそこにないかのような生活を送っておりました。
本来なら、以前の生活に戻っただけの事であるはずなのです。
元々金蝉は一人で暮らしていたのですから。
しかし、悟空と一緒に暮らしていたその時間は、金蝉にとって余りにも鮮烈すぎたのです。
朝起きてきた時に「おはよう!」という声がない事が、こんなにも寂しくて。
家に帰った時に「おかえり〜」という声に出迎えられない事が、こんなに悲しいなんて思ってもいなかったのです。
突然ガラリと家の扉が開かれる音に、金蝉は弾かれるように振り向きました。
ですが、そこにいたのは金色の瞳ではなく、昔から見知っている顔でした。
「金蝉……またロクに寝てないんですか?」
「いい加減ちゃんとした生活しろよ。その内、4ヶ月前みたいにぶっ倒れるぞ」
その二人の言葉が聞こえているのかいないのか、金蝉は振り向いていた頭を戻しました。
「おい、金蝉。……いいや。ま、とにかくメシ作ってやっからちゃんと食えよ」
捲簾は金蝉の頭をポンッとはたくと、家の奥へと入っていきました。
「金蝉……気持ちは分かりますが、吹っ切らないといつまでも辛いだけですよ」
天蓬は、敢えて厳しい口調で金蝉に話しかけます。
「もう何年経ったと思ってるんですか? そんな風に腐っていても、悟空は帰ってきませんよ」
『悟空』という、あの日以来口にしなかった名前が金蝉の感情を刺激したのでしょう。
金蝉は立ち上がりながら振り向くと、天蓬の胸倉を掴み上げました。
「てめえ……!」
しかし、天蓬は動じる事なく更に言い募ります。
「現実からいつまで逃げてるんですか? 悟空はもういないんです!」
天蓬は胸元にある金蝉の手を強く掴みました。
「……お願いします、金蝉。僕も捲簾も、これ以上そんな生気のない貴方を見ていられないんですよ」
金蝉を見つめる天蓬の視線は、ひどく真剣で、痛々しいものでありました。
天蓬も捲簾も、何も出来ずに悟空を失った事が苦しいのです。
そして、悟空がいなくなって何も見なくなってしまった金蝉を見続ける事も。
この二年間やり場のない痛みを抱えてきたのは、彼らとて同じなのです。
「……悪かった」
金蝉は小さく呟くと、掴んでいた手を離しました。
「分かってる。分かってるんだ。悟空がもういない事も、このままじゃ駄目な事も。しかし、俺は……」
力なく椅子に腰を下ろした金蝉を、天蓬は静かに見つめていました。
「金蝉……。いっそこの家を出ませんか? 僕達の住む町に越してきたら……」
ここにいたら悟空の思い出からいつまで経っても離れる事が出来ないと、そう思った天蓬は金蝉に提案をしました。
忘れる事が決して最善ではないけれど、そうせざるを得ないほど大きな存在だってあるのです。
答えない金蝉に、天蓬は出来るだけ優しい口調で言いました。
「今すぐ決めなくてもいいですから、少し考えてみて下さい」
「ああ……」
顔を少し上げて、金蝉は僅かにですが天蓬に笑いかけました。
自分には、こんなにも真剣に自分を心配してくれる友人達がいるのだと、そう思えたからです。
数日後、天蓬は再び捲簾を伴って金蝉の家へとやってまいりました。
ですが、玄関をくぐっても、いつもならそこにあるはずの金蝉の姿がありません。
「金蝉? ……出かけてるんでしょうか」
「奥かもしんねえぜ? ま、出かけてたなら出かけてたで、良い傾向なんだろうけどよ」
捲簾は勝手知ったる様子で、奥の方へと入っていきました。
すると、左手側の部屋の襖が少し開いているのに気付きました。
「……この部屋は……」
捲簾と天蓬は顔を見合わせました。
その部屋は、悟空が使っていた部屋だったからです。
二人がその開いた隙間からそっと部屋を覗き見ると、そこには金蝉が立っておりました。
一瞬、悟空が帰ってきたのかと期待をしてしまった二人は一気に力を抜くと襖を開けました。
「こんなところにいたのかよ。何してんだ?」
捲簾の声に、金蝉はゆっくりと振り向きます。
そして、捲簾の後ろに立っている天蓬を見ると静かに話し始めました。
「……天蓬。この前言っていた件だが……」
この前の件……それは、この家を出て天蓬達の住む町に越してこないかというあの話である事は、天蓬にもすぐに分かりました。
「決心がついたんですか?」
促すような天蓬の声に、金蝉は頷きます。
「……決心した方向は逆だがな」
「え?」
この言葉に、天蓬と捲簾は少し驚きました。
二人の反応は予想通りだったのでしょう、金蝉はそのまま言葉を続けました。
「俺は、死ぬまでこの家で暮らす。何処にも移らねえ」
「どうしてですか、金蝉? ここにいても辛いだけで……」
そう言いかけた天蓬を、捲簾の手がすっと制しました。
金蝉は視線をこの部屋全体に向けました。
この部屋は悟空が連れ帰られたあの夜のまま、悟空が生活していたそのままに置いてあるのです。
「悟空は月に帰っちまった。もう、この地上の何処にも……いねえ。
だが、悟空は確かに『此処』にいた。この部屋がその証だ」
他の部屋よりも少し散らかった部屋。未だ残されている生活感の名残。
「俺がこの家を捨てたら、誰が此処を守る? 証すら、風化されて消えちまう。
悟空が此処にいた……その事だけは、忘れたくねえ。忘れる事なんて……出来ねえ」
そう言いながら、金蝉は悟空が初めて編んだ少しいびつな竹籠を手に取りました。
「俺は、アイツがいた証を守り続ける。それが、俺に出来る最後の……」
竹籠を見つめて呟く金蝉の表情は、もう迷いのないものでありました。
「……そんだけ言えりゃ上等だな。ま、合格って事にしといてやるか」
突然外から響いた声に、金蝉は庭に通じる襖を音を立てて開きました。
「……! てめえは……!」
なんと、そこにいたのは、あの夜悟空を連れ去った張本人の姿であったのです。
「よお。お揃いだな」
「てめえ……何しに来やがった」
金蝉の眼差しが剣呑な光を帯びます。天蓬や捲簾の瞳にも険しさが宿ります。
何しろ彼らから悟空を奪い去った人物が目の前にいるのですから、当然とも言えましょう。
「んな目で睨むんじゃねえよ。……返してやんねえぞ?」
「な……んだと……?」
観世音菩薩がさらりと言った台詞に、金蝉は目を見開きました。
その金蝉の反応を面白がった風に見ていた観世音菩薩ですが、供の者に目配せすると、あの夜に悟空を乗せて舞い上がった籠が金蝉の真正面に運ばれてきたのです。
「まさか……」
金蝉は、その籠を見つめ、ただ立ち尽くしておりました。
金蝉の目の前で、まるでスローモーションのようにゆっくりと籠から降りてきたのは────。
「……悟空……!」
その名を呟く事が、今の金蝉にとっては精一杯でした。
夢でも見ているのだろうかと、そんな場違いな思考が掠めていきます。
「金蝉……! 金蝉────っ!」
余りに懐かしい声が金蝉の名前を呼び、縁側に上ると力いっぱい飛びついてきました。
「金蝉……金蝉……やっと、会えた……!」
ぎゅっとしがみつきながら、金蝉の耳元で涙に滲んだ声が聞こえます。
金蝉は震えながら手を上げると、そぅっと悟空の背中に触れました。
そして、触れた瞬間、別れた時よりも少し背の高くなった悟空を思いきり抱きしめました。
「悟空……! 本当に……お前なんだな……」
「うん……うん! 俺だよ、金蝉……!」
悟空は涙をポロポロと零しながら、ひたすら金蝉の背中の着物を握りしめます。
少し落ち着くと、天蓬と捲簾が悟空達の傍にやってきました。
「悟空……本当に、帰ってきたんですね……」
「……ったく、帰ってくるなら最初からそう言えってんだよ……」
天蓬もまた悟空をぎゅっと抱きしめ、捲簾は悟空の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜました。
「ごめん……ごめんね、天ちゃん、ケン兄ちゃん……」
ますます涙を溢れさせた悟空を宥めるように、捲簾はもう一度頭を撫でてやりました。
「おい、悟空。アイツのトコにも行くんじゃねえのか?」
後ろから掛けられた声に、悟空は後ろを振り向きました。
ですが、それに答えたのは悟空ではなく金蝉でありました。
「どういう事だ。……いや、そもそもどうなってやがるんだ、これは」
先程は再会の喜びばかりが先に立ち、何故悟空が地上に再び下りてこれたのか気にする余裕がなかったのです。
「あの時に言っただろ。『月の世界での刑罰が残っている』と。それが明けた。それだけの事だ」
確かにそう言っていたのは、金蝉も天蓬も聞いていました。
ですが、大罪を犯したと言っていたにしては二年は短くはないかと金蝉達は警戒を崩しません。
その金蝉達の考えを読んだかのように、観世音菩薩は付け加えました。
「地上と月の世界じゃ、時の流れが違うからな。こっちの一年は向こうじゃ百年近くに相当するのさ」
「それじゃ、悟空は……」
「そう、コイツは二百年の刑罰に耐え切った。だから許されてここにいるんだ」
金蝉は悟空を見つめました。二百年、そんな気の遠くなるような時間、悟空は耐えてきたのです。
そんな金蝉を見上げ、悟空は笑いました。
「金蝉達のおかげだよ。もう一度会いたくて……だから俺、耐えられたんだ……」
「……そうか……」
金蝉は悟空の頭に手を置き、二年ぶりに見せる優しい表情で言いました。
「……おかえり、悟空」
それを聞いて、悟空が泣きそうな、しかしこの上なく嬉しそうな笑顔を見せました。
「……金蝉、ただいま!」
元気よく答えると、悟空はもう一度金蝉に抱き付きました。
「感動の場面を邪魔したくはねえんだが……さっさとしねえと、送ってかねえぞ。こっちも忙しいんだ」
いつの間に上がってきたのか、観世音菩薩が悟空の隣に立っています。
「あ……ごめんなさい」
「送るって何処にだ」
予想はついているのですが、金蝉は一応確認してみました。
「……三蔵のトコ」
悟空は少し顔を赤くして俯きました。
それを見て金蝉はため息をつくと、悟空の頭にポンッと手を乗せました。
「……さっさと行ってこい。その代わり、時々はちゃんと帰ってこいよ」
「うん! ありがとう、金蝉! ……絶対、絶対会いに帰ってくるから。俺の家は此処なんだもん」
悟空の頭に乗せた手を掻き回して、金蝉は笑いました。
「なら、帝が心労で倒れねえウチに行ってこい。約束は守るもんだ」
「うん。今度は破らないよ。三蔵との約束も、金蝉との約束も」
「ああ」
悟空が再び籠に乗り込むのを、金蝉達は見守っておりました。
これは別れではありません。必ず、ここに帰ってくると、そう思えるのですから。
大きく息を吐くと、三蔵は背凭れに凭れかかりました。
八百鼡に諭されて以来休息は取るようにしているものの、心に開いた穴は決して埋まるものではありません。
今この時にも、三蔵を支配するのはあの月夜の出逢い。そして、月夜の別れ。
歳月が経てば、想いも痛みも薄らぐものだなどと言ったのは誰だったでしょうか。
薄らぐどころか強くなっていく想いと痛みに、三蔵はこの二年間ずっと苛まれてまいりました。
もう一度逢えるのなら、どんな事でもしてみせるでしょう。
「悟空……」
届くはずのない呼びかけが、三蔵の口から漏れました。
……しかし。
「……三蔵……」
小さく聞こえた、愛しい声。
最初、三蔵はとうとう自分がおかしくなってしまったのかと思いました。幻聴まで聞こえるほどに。
しかし、三蔵を呼ぶ声がもう一度聞こえ、反射的に辺りを見回してその声の発生源を探しました。
そして、後方……部屋の外の夕闇に浮かぶ籠を見つけたのです。
籠は浮かんだままゆっくりと部屋に入ると、音もなく床に降りました。
そして、籠から人影が出てくるのを、三蔵はその場で固まったまま見つめておりました。
出てきたその姿を見とめた瞬間に、三蔵の足は無意識に動いておりました。
悟空が言葉を発する前に、三蔵は駆け寄ったそのままの勢いで悟空を抱きしめました。
これには悟空もさすがに面食らったのか、真っ赤になってうろたえております。
「さ、三蔵……!?」
三蔵はただただ無言で、悟空をきつく抱きしめます。
その力強さが、悟空には嬉しくてたまりませんでした。
本当のところ、悟空は少し不安だったのです。
約束を破って月に帰った悟空を、三蔵は怒っているのではないかと。
そして、もう悟空の事など嫌いになってしまったのではないかと。
だからこそ、悟空は地上に下りて最初に三蔵に会いに行けなかったのです。
けれど、こうして三蔵は悟空を抱きしめてくれました。
その事が、悟空は涙が出るくらい嬉しい事でありました。
「三蔵……ごめん、ごめんな」
「謝るくらいなら、最初からいなくなるんじゃねえよ……!」
「ごめん……。なあ、三蔵……俺、あの時の約束、まだ果たす資格あるかな……」
「果たすために戻ってきたんだろ。そうじゃねえのか?」
悟空は三蔵の胸に顔を埋めながら、躊躇いがちに尋ねました。
「……俺で良いの?」
「お前以外に誰がいるってんだよ。……俺の后になるんだろ?」
「……うん。なる。三蔵の后になる……」
そうして互いに視線を合わせ、初めて、その唇が重なりました。
数週間後、三蔵と悟空の婚儀が盛大に執り行われました。
当の本人達は質素な式で十分だと思っているのですが、帝の婚儀なのでそういうわけにもいきません。
もちろんその婚儀には金蝉や天蓬、捲簾も出席しています。
帝とその后の幸せそうな姿に、集まった民衆からは割れんばかりの拍手が贈られました。
式も滞りなく終了し、三蔵と悟空はそれぞれ別の部屋で衣装から着替えておりました。
その時、三蔵はふと背後に気配を感じて振り向きました。
「……誰だ、てめえ」
「俺は観世音菩薩だ。悟空から聞いてねえのか?」
そこで三蔵は、再会後に悟空に聞いた話を思い出しました。
「てめえが観世音菩薩か。俺に何の用だ」
「ちょっと話しときたい事があってな」
そう言うと、観世音菩薩は傍にあった椅子に座りました。
「悟空が地上に戻ってきた顛末は聞いてるか?」
「ああ」
「なら、地上と月の世界の時の流れが違う……ってのも聞いたはずだな」
三蔵の表情が厳しくなるのを眺めながら、観世音菩薩は話を続けます。
「少しは感付いてんだろ。あっちで二百年過ごしたはずの悟空が、少ししか成長してねえって事」
観世音菩薩の言う通り、その事については三蔵も少し考えていました。
「……寿命が違うって事か」
「分かりやすく言えばそういう事だな。二百年くらいじゃ、多少背が伸びるくれえだ。
つまり、お前が年とってジジイになっても、アイツは若いままって事だな」
「予測はしていた。俺が先に死ぬ事で、アイツが辛い思いをする事になることも。
……それでも俺は、もうアイツを手放せねえ。アイツにとっちゃ短すぎる時間でも……」
三蔵は自分の手の平を見つめながら、呟きました。
悟空から見れば、自分などすぐに死んでしまう存在なのでしょう。
それでも……悟空の永い時間のほんの一瞬の存在でしかなくてもいい。
ただ、悟空の笑った顔が見たい。傍にいて欲しい。そう思うのです。
三蔵の様子を見ていた観世音菩薩は少し笑うと、立ち上がりました。
「お前がそれでいいなら、いいさ。悟空は納得済みだしな。
……ただ、先に死ぬのはお前じゃなく悟空だろうがな」
「何だと……!? どういう事だ、それは!」
三蔵は観世音菩薩に掴みかかるような勢いで詰め寄りました。
「地上は空気が悪すぎる。それに、百倍の時間の流れの負荷も相当なもんだ。
ただでさえ刑罰で数年ここにいて、身体が蝕まれてる。あと三十年くらいが限界だろう」
予想していなかった言葉に、三蔵は言葉を失いました。
「……悟空はそれを知ってて、それでもお前の傍にいる事を選んだんだ。
せめてその三十年、これ以上ないくらい幸せにしてやってくれ」
観世音菩薩はそうとだけ告げると、ふっと消えてしまいました。
コンコン、という扉を叩く音で三蔵は我に返りました。
扉の外からは、控えめな声が聞こえてきます。
「……三蔵? 着替え終わった? 入っていい?」
三蔵が扉を開くと、悟空がはにかむように笑いました。
「へへ、俺、三蔵のお后様になったんだよな。嬉しいや」
その悟空の笑顔に、先程の観世音菩薩の言葉が重なりました。
『せめてその三十年、これ以上ないくらい幸せにしてやってくれ』
「……言われるまでもねえよ」
「え? 何が?」
零れてしまった呟きに、悟空が首を傾げています。
「何でもねえよ。お前と俺、二人で暮らすために作った館がある。行くぞ」
そっと悟空の額に口付けを落とすと、三蔵は悟空の肩を抱いて歩き始めました。
例え限られた時間であったとしても。いや、限られた時間であるからこそ。
限りない幸せが、二人の時間を埋めてくれる事を信じながら。
END