意識が浮上し、悟空はゆっくりと目を開けた。
重い身体を起こしてみると、悟空は敷物の上に寝かされていた。
ふと、敷物が何重にも重ねられている事に気付いて、思わず笑ってしまった。
これは、今回頑張ったご褒美、という事なのだろうか。
周りを見てみると、悟浄と八戒は傍で眠っているものの、三蔵の姿がなかった。
さっきの、館の地下での事を思い出す。
ドクン、と悟空の心臓が大きく跳ね上がる。
そんなはずはないと思っていても、どんどんと鼓動が早くなる。
立ち上がり、周りを見ると地面に踏みしめたような跡を見つけた。
それを追うようにして、悟空は駆けていった。
しばらく走ったところで、眩しい金色を見つけた。
「……三蔵」
名前を呼ぶと、ゆっくりと振り返る。
「何だ、もう起きたのか」
「うん……。三蔵は寝ないの?」
なるべく、何でもないようなフリをして答えた。
「俺は……別に疲れてねえからな」
その声に含まれるのは、自嘲の響き。
罠にはまり、何も出来ずに助けられた。その事は三蔵にとって耐え難いことだ。
「でも、三蔵は助けてくれたじゃんか」
「……助けた?」
「階段で足滑らせた時、三蔵がいたから落ちなかったんだよ」
「あれは法衣が偶然引っかかっただけだ。俺が助けたわけじゃねえ」
「三蔵だよ。他の誰でも無理だったんだから」
悟空は本気でそう思っている。三蔵だから、あの時助かったのだと。
三蔵は傍にある川の方に足を向ける。
川辺に三蔵が立った時、悟空はそのまま三蔵がいなくなってしまいそうな、そんな錯覚に囚われた。
「三蔵!」
慌てて駆け寄り、三蔵の腕を両手で抱きしめる。
当の三蔵はというと、突然の悟空の行動が理解できないらしく眉を顰めていた。
「……何だ」
「三蔵……三蔵……いなくなっちゃ、やだよ……」
「……? 何の事だ」
「俺……俺は、三蔵と一緒にいたいんだ。何があっても、絶対……」
「何だ、いきなり。どうしたってんだ……」
何を言っているのか分からない、といった感じの三蔵を悟空は見上げた。
「俺には、絶対に三蔵が必要だから。三蔵が必要ないと思ったとしても、俺には必要だから……」
だから、行かないで。何処にも。……最後は小さく呟く。
三蔵の身に何が起こったとしても、三蔵が三蔵である限り、悟空には三蔵が必要なのだ。
悟空の真剣な訴えを、三蔵は戸惑うように聞いていた。
「……俺が、何処に行くってんだ」
「分からない、けど……俺の、手の届かないところに……」
知らず、手が震える。失うかもしれない事が怖くて。
「悟空……さっきから何をそんなに怯えてやがんだ」
「だって、三蔵が俺からいなくなっちゃったらって……」
「この俺がそう簡単に殺されると思ってんのか」
くだらない事を言うなとばかりに、三蔵は言い捨てる。
そんな事、思ってない。
三蔵は敵に殺されるほど弱くない。
……だけど。
それより強いものは、三蔵自身のプライド。
その誇り高さが、三蔵を殺してしまいそうで、怖くてたまらなかった。
「三蔵……俺の手の届く場所にずっといて。こんな風に、掴める場所にいてよ……」
その手に触れられなくなる事が、何より怖い。
不安に揺れた瞳で、悟空は三蔵を見つめていた。
三蔵はそんな悟空をただ黙って、不思議そうに見ていたが、ふと何かを思い出したかのような表情になる。
「……悟空、まさかとは思うが……何か勘違いしてるんじゃねえだろうな」
「……勘違い? 何が?」
「……俺が、あの男に……変な真似をされた、だなんて思ってやがったら殺すぞ」
「え!? 違うの!?」
三蔵の言葉に、悟空は大きく目を見開いて驚く。
「ふざけた誤解してんじゃねえぞ、バカ猿!!」
静かな森に、キレのよいハリセンの音が鳴り響いた。
「いって──! だ、だって、あの状況じゃ普通そう思うだろ!? 三蔵、裸だったし!」
「あれは、あの変態野郎が俺を剥製にするために脱がしやがっただけだ!」
「剥製って、あの、いっぱい並んでたヤツ?」
「ああ。俺をあそこに並べるつもりだったんだろうよ」
苦々しそうに、三蔵は袂から煙草を取り出し、口に銜える。
マルボロに火が点されるのを見ながら、悟空は恐る恐る訊いてみた。
「じゃ、じゃあ、何も……されてないの……?」
「当たり前だ! されてたまるか!」
それを聞いて、悟空は一気に力が抜けてしまった。
「そっか……。良かったぁ……」
悟空は心底、そう思う。
三蔵の誇りが、切り裂かれてはいなかった事に。
その場にへたり込んでしまった悟空の横に、三蔵も腰を下ろした。
視線は相変わらず前を向いているが、その表情は先程よりは幾分穏やかだ。
「……なあ、三蔵」
「何だ」
「俺さ……三蔵が、その、そういうコトされたって思った時さ、血が逆流するかと思った」
悟空は膝を抱えて、目の前の川をじっと見つめる。
「で、その後急に心ん中がすっと冷えるような感じがして……腹立つとか、そういうのより『殺してやりたい』って思ったんだ」
それは、明らかな殺意だった。今まで憶えた事がないほどの。
「自分の中が、黒く染まってくみたいだった。俺……こんな俺知らなくて……少し怖かった」
こんな自分を知っても、悟浄や八戒は……三蔵は、自分を受け入れてくれるだろうか、と。
悟空が黙り込むと、その場に沈黙が下りる。
その沈黙を破ったのは、三蔵だった。
「……中に何が潜んでいようと、お前がお前である事に変わりはない。そんな事も分からねえのか」
それは、さっき悟空が三蔵に対して思ったのと同じ言葉。
「分かってる、と、思う。でも……」
「黒い感情を持たないヤツなんて、生まれたばかりの赤ん坊を除けば世界中何処を探してもいやしねえ。
例えいたとしても、そんなつまらねえヤツには会いたいとも思わねえな」
悟空は、淡々と話す三蔵の横顔を見つめた。
遠回しだけど、そんな悟空も全て受け入れてやると、そう言われてる気がした。
「……三蔵。ありがとう」
「ふん、何の事だ」
煙草を揉み消す三蔵の肩に、悟空はそっと頭を凭せ掛ける。
三蔵もそれを嫌がる訳でもなく、悟空の好きにさせている。
マルボロの匂いが心地良くて、触れたぬくもりが暖かくて。
いつしか悟空は眠りの淵に誘われ、ゆっくりと意識を落としていった。
三蔵は規則正しい寝息を立てる悟空の頭をそっと肩から外し、横たえる。
全く起きる気配がないところを見ると、どうやら完全に熟睡してしまったようだ。
このままここで寝かせていたら、いくら悟空でも風邪を引く事は間違いない。
ジープの所に戻って、元の場所に寝かせて毛布くらいは掛けてやらなければならないだろう。
「ったく、世話が焼ける……」
三蔵は起こさないように気を付けつつ悟空を抱きかかえると、さっき歩いてきた道を戻り始めた。
悟空を抱えて歩きながら、三蔵はその悟空の寝顔を見る。
自分達の中で一番疲れているくせに、わざわざ三蔵の姿を捜して、追って。
「……お前は……いつまで……」
いつまで、自分の事を追い続けていてくれるのだろうか。
悟空が強くなればなるほど、そんな事が三蔵の頭の中をよぎる。
いつか、三蔵に背を向けて、別のものを追い始めてしまったら。
そして、『その時』は……決して遠くないのではないか、と。
ガスで動かなくなった身体。それでも残っていた意識の中であの時……そう思ったのだ。
三蔵は、眠る悟空の金鈷に口付ける。
悟空の力──斉天大聖を封じる封印。しかし、悟空自身の心を封じる事は出来ない。
その自由な心を留めておく方法は、1つ。
三蔵自身が、悟空の心を留めておくに足る存在であればいい。
「……行かせねえからな、覚悟しておけよ」
──この先お前がもっと強くなるなら、俺もお前が追い続けていられるだけの男になってやるから。
──だから、『ここ』でずっと見ていろ。俺の事を。
それは、悟空の知らない───ただ1つの誓い。