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見えたのは、紅。
目の前を染める紅。紅。紅。
大好きな金色が、紅く染まっていく。
見ていることしか出来なくて。
ただ、泣く事しかできなくて。
冷たくなっていく身体を、認めたくなくて。
必死に呼んだ。───大切な名前を───
「────!!」
悟空は叫びながら、飛び起きた。
息が乱れ、顔と身体中に汗が貼りついている。
手で顔の汗を拭うと、汗とは違う冷たいものが手の甲に触れた。
その時初めて、悟空は自分が泣いている事に気付いた。
「……俺……何で泣いてんだろ……?」
夢から目覚める瞬間、誰かの名前を呼ぼうとした気がするが、その名が思い出せない。
でも、胸が張り裂けそうに痛かった事だけ覚えている。
自分は、誰の名前を呼んだんだろう……。
そして、何故涙が止まらないんだろう……。
「おい、悟空」
ドアの外から突然にかけられた三蔵の声に、悟空はビクリと身を竦ませる。
そんな必要などないのに。三蔵の声に怯える理由なんて。
「開けるぞ」
そう言いながら、三蔵がドアを開けて入ってくる。
そして悟空を見た途端、三蔵の表情が変わる。
「何……泣いてやがる」
「……何でもないよ」
「何でもねえのに泣くのか、てめえは」
三蔵は悟空の座っているベッドに近付き、悟空に手を伸ばす。
「ホントに何でもないっ……!」
悟空は悲痛な声を上げて、身を引き三蔵の手を避ける。
伸ばされていた三蔵の手がピタリと止まる。
「……そうか。分かった」
三蔵はクルリと踵を返し、部屋から出ていく。
三蔵が出ていった部屋で、悟空は何かに耐えるようにシーツを握り締めていた。
あの時、三蔵の手が触れるのが怖かった。
三蔵が怖かった訳じゃない。
なのに、何故だか触れたらすり抜けてしまいそうで、触れられなかった。
また失くす事が……恐ろしかった。
…………『また』?
悟空は、自分が思った何気ない考えに思考が立ち止まる。
大事なものを失くした記憶なんか、ない。
だけど……失くしたという喪失感だけが感情に刻み込まれている。
助けて、助けて、助けてっ……!
身体が震える。今、悟空を支配しているのは……恐怖。
悟空はベッドから降りて部屋の隅に行き、座り込んで毛布に丸まる。
起きて考えるのも、眠って夢を見るのも怖かった。
三蔵は自分の部屋に戻ってベッドに再び入ったものの、眠る事が出来ずにいた。
「……うるせえ……」
寝返りを打ちながら、小さく呟く。
部屋に戻ってからもずっと、悟空は三蔵を呼び続けている。
そもそも三蔵が悟空の部屋を訪れたのも、悟空が三蔵を呼んだからだ。
だが、悟空は「何でもない」としか言わない。
悟空を拾ってから5年。
こんな事は少なくなってきていたのだが……。
悟空を拾ってから2年ほどは、悟空は1人で眠る事が出来なかった。
だから必然的に三蔵が添い寝をしてやる形になった。
三蔵への信頼が確固たるものに変わった頃、ようやく悟空は三蔵がそばにいなくても眠れるようになった。
突然いなくなったりしない────そう確信できるようになったという事だ。
そして悟空の成長に合わせて、やがて寝室を離した。
それでも、部屋を離した最初の頃は悪夢にうなされてはよく三蔵を呼んだ。
尋ねてみても、夢の内容はすっかり忘れてしまっているようでどうしようもない。
最近はそれも少なくなり、三蔵も少なからず安堵していたのだ。
しかし、今夜はまた以前のように三蔵を呼んだ。
いや、正確には『以前のように』とは言えないだろう。
悟空が涙を流しているのを見たのは…………初めてだった。
今まで、どんなに悪夢にうなされていても、悟空は涙を流さなかった。
それが今夜に限って、何故……?
今日特別に何かあっただろうか。
せいぜい、三仏神の命で『猪悟能』という大量殺戮者を連行した事ぐらいだ。
『沙悟浄』とかいうバカとも会ったが、特に悟空に変わった様子もなかったはずだ。
「うるせえってんだよ……!」
悟空の声は一向に止まない。
普段ならここらでもう一度部屋を訪ねてやるのだが、今夜は行く気になれなかった。
さっき、悟空は三蔵を見なかった。
視線は確かに三蔵の方を向いてはいた。
だが、悟空が見ていたのは……三蔵ではない、別の誰か。
その場にいた三蔵の影に、『誰か』を見ていた。
その事実に、無性に腹が立つ。
────俺以外のヤツなんか、見てんじゃねえよ────
咄嗟に浮かんだそんな考えに、三蔵は愕然とした。
今、自分は何を考えたのか。
子供じみた独占欲。
今まで、悟空の瞳に映っているのは自分だけだった。
いや、そう思い込んでいた。悟空が、あまりにも三蔵だけを慕うから。
バカみたいな優越感を感じて、何時の間にかそれが当然のように思っていた。
────アイツは、俺が拾った、俺のものだ────
違う。そんなハズなどない。
悟空は、自身の意思を持った独立した生命なのだから。
────だから、俺だけを求めていればいい────
「……うるせえって言ってんだろ!!」
三蔵はベッドから飛び起きて叫ぶ。
今の言葉は、悟空に向けたものか、それとも三蔵自身に向けられたものなのか。
三蔵にも分かってはいなかった。
「呼ぶなっ! てめえが呼んでんのは俺じゃねえんだろ!」
今も泣きながら呼び続けるその声に耐えきれずに、三蔵は再び叫んだ。
やめろ。呼ぶな。俺の頭の中で俺以外のヤツを呼ぶんじゃねえ!
気が狂いそうになる。何も聞こえなければ、知らないフリも出来るのに。
心の中を、どす黒いものが駆け巡っている。
これの正体を、三蔵は知りたくなかった。
“嫉妬”という、黒く醜い感情を。