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結局、ほとんど眠れないまま夜が明ける。
三蔵は疲れ切った表情のまま、法衣に着替える。
どれだけ疲れていようが、『三蔵』として課せられた仕事はこなさなければならない。
それは、この寺院に『三蔵』として着院しているからには当然の義務だ。
隣の寝室につながるドアを三蔵は見つめる。
あれから、一晩中声は止まなかった。
そしてその声は、今なお響いてきている。
おそらくは悟空も眠っていないのだろう。……夢を見る事が怖いのかもしれない。
悟空の見る夢───それは、三蔵の知らない500年前の想いの残照。
悟空があそこまで不安定になる夢など、それ以外に考えられないだろう。
500年前の事は、悟空は憶えていないと言っていた。
だが、頭では忘れていても、心の中には想いが残っているのだろうか。
三蔵の知らない、誰かへの想いが……。
今、悟空の様子を見に行けば、再び悟空は昨夜のような瞳で三蔵を見るのだろう。
三蔵を見ているようで見ていない、そんな瞳で。
それが分かっていて、何故行ってやらなければならないのか。
「……くだらねえ……」
昨夜から感情に振り回されがちな自分に、三蔵は吐き捨てる。
悟空がどんな状態だろうと、自分には関係ない。
ペットの面倒を見るのは飼い主の役目だが、メンタルな部分まで面倒を見てやる義理はない。
三蔵はそう結論付けて、執務室に向かう為部屋を出る。
三蔵本人もまだ気付いてはいなかった。
『関係ない』と思ったのではなく、そう思いたかったのだという事に……。
ドアの向こうで更にドアの閉まる音を、悟空はぼんやりと聞いていた。
三蔵が仕事に行ったのだろうという事は、悟空にもすぐに分かった。
分かったからこそ、余計に胸の痛みは広がっていく。
自分は、必要ないのかもしれない。
連れ出してしまったその責任を果たしているだけで、本当は出ていって欲しいのかもしれない。
悟空が出て行くのを、待っているのかもしれない……。
三蔵がそう望んでいるなら、悟空はここを出て行かなければならない。
むしろ、その方がいいのかもしれないとも思う。
これ以上そばにいて、失くすのはイヤだ。
それなら離れてしまった方が、離れても三蔵が幸せでいてくれた方がいい。
離れてしまえば…………失くす事も、ない。
だが、悟空はここを出て行ってしまえば、他に行く所などない。
昨日会った2人はダメだ。三蔵は場所を知っている。
三蔵の知らない、三蔵から離れた場所……。
そんな場所など知らない。
悟空の記憶には常に三蔵がいる。
三蔵のいない記憶なんて────……。
────悟空────
「……え……?」
今、声が聞こえたような気がした。
三蔵に似た、でも三蔵とは違う、声。
「誰……? 誰だよ……!?」
その声が懐かしくて、嬉しくて、痛くて、悲しくて。
胸がキリキリと締め付けられるような錯覚に陥る。
「イヤだ……! イヤだよ、置いてかないでよ……!!」
悟空自身、自分が何を言っているのか分かってはいない。
訳も分からず、恐怖だけが悟空の中に染み込んでいく。
その場にいる事に耐えきれずに悟空は部屋を飛び出し、寺院の正門へと駆けていく。
幾人もの僧達とすれ違ったが、僧達は悟空に侮蔑の眼差しを向けるだけだ。
正門を通り抜けると、どちらに走っているのかの認識もないまま、再び悟空は駆け出した。
何処でもいい。逃げたかった。
何も届かないところまで……。
日がすっかり落ちた頃、ようやく三蔵は仕事を終えて私室に戻った。
法衣を脱ぎ、疲れ切った身体をベッドに投げ出し、目を閉じる。
一睡もしていない上での仕事だったので、さすがに三蔵の体力も限界に近い。
ちらりと隣の悟空の寝室に目を向ける。
結局あれから、悟空はどうしたのだろうか。
仕事の忙しさを理由にして、三蔵は朝に部屋を出てから一度も戻らなかった。
昼食と夕食は部屋に届けるように、きつく言い付けておいた。
だから腹を空かしている事はないだろう。もっとも、悟空は常に空腹状態だが。
今朝まではあれほどうるさかった悟空の声が、今は全く聞こえない。
声が止んだのは、三蔵が仕事を開始してしばらくしてからだった。
昨夜はほぼ徹夜に近かったから、きっと眠ったのだろうと思った。
悪夢を見ている時などは眠っていても呼ぶのだから、きっと熟睡してしまったのだろう、と。
今も眠っているのだろうか。
悟空の事だから、床にそのまま寝ている可能性もある。
……寝ている内なら、悟空の瞳も見なくて済む。
三蔵はベッドからゆっくり起き上がると、悟空の寝室に足を向けた。
なるべく静かにノブを回し、ドアを開ける。
案の定、ベッドには悟空どころか毛布すらない。
三蔵はそのまま部屋の中を見渡す。
毛布はあった。部屋の隅の方に投げ出されている。
だが……肝心の悟空の姿がない。
「何処に行きやがったんだ、あのバカ猿……」
悟空が行く場所───そんな所があっただろうか。
昼間の内なら、街に出て行く事もよくある。
最初は三蔵と一緒じゃなければ行かなかったが、今では1人でよく遊びに行っている。
しかし、もう完全に外は暗闇に包まれている。
今更、この寺院や近くの街で迷う訳はないはずだ。
「……ふん、その内帰ってくるだろ」
三蔵は自分の寝室に戻り、ベッドに横になる。
もし悟空に何かあって帰れなくなっているのなら、悟空は三蔵に助けを求めるだろう。
だが、そんな声は聞こえない。
だとすれば、悟空は自分の意思で動いているのだろう。
三蔵が探しに行ってやる理由などない……。
……微かに、何かが聞こえた。
誰かが静かに泣いている。
呼んでいる訳じゃない。助けを求めている訳でもない。
ただ、泣いている。声を殺して、静かに……。
「眠れねえじゃねえか、バカ猿が……!」
三蔵は横たえていた身体を起こす。
呼びもしないで、ただ泣いている。
「俺にどうしろってんだよ……!」
必要としているのは、求めているのは別の『誰か』であるくせに。
ソイツの代わりになどなれない。なりたくもない。
『誰か』の代わりにされるなんて真っ平だ。
……考えてみれば、悟空は最初からソイツを呼んでいたのかもしれない。
何故、その声が届く先が三蔵だったのかは分からない。
しかし、もしそうだったなら。
どうして自分のそばに置いておく必要があるのか……。
そして悟空は、どうして三蔵のそばに留まり続けているのか……。
三蔵は立ち上がり、再び法衣を着てドアに向かう。
どちらにしても、この声が聞こえる限り徹夜を余儀なくされるだろう。
それなら、さっさと見付けて結論を出した方が良い。
そう、理由はそれだけだ。
どうせ眠れないから、捜しに行く。
それ以外の理由など、あるわけが……ない。
三蔵は一度立ち止まると、すぐにまた歩を進めて部屋を出た。