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寺院の門を出た所で、三蔵は一度立ち止まった。
ここから悟空がどちらに向かったのか。
悟空が知る場所は限られている。
だが、昨夜の悟空の様子から見て、そんな事など考えずに進んだ可能性もある。
今、手掛かりになるのは、微かに聞こえる泣き声だけだ。
この声も消え入りそうで、集中していないと聞き逃しそうになる。
何とかその声の方向を辿りながら、三蔵は歩き始める。
悟空を見つけたからといって、解決になるかどうかは分からない。
第一、悟空は三蔵を呼んではいない。
ただ、泣いているだけだ。
むしろ三蔵には来て欲しくないと思っているかもしれない。
来て欲しいのは、昨日見ていた『誰か』。
そう考えた瞬間、三蔵の中で何かがチリチリと焦げるような、そんな感覚がした。
焼け焦げた部分が、ひどく痛む。
気付かないフリすら出来ないほど、その痛みは徐々に広がっていく。
炎が燃え移り、延焼していくように。三蔵の内部を侵食していく。
三蔵には痛みを止める術が分からない。
どうすれば痛みが和らぐのかという事すら。
ただ強くなっていく痛みに苛立ち、心が乱れていく。
三蔵は自嘲の笑みを浮かべる。
自分はこんなにも弱かったのだろうか。
たかが飼っている猿一匹の事で、自分の中のコントロールさえ出来なくなるほど。
悟空。たった1人の、その存在が。
何故これほど自分を振り回すのだろう。
こんな感情など失くしたハズだったのに。遥か遠い雨の夜に。
それとも、失くしたのではなく封じ込めていたのか。……無意識で。
三蔵は悟空を五行山の封印から解き放った。
三蔵が自ら封じていた感情を解放したのは……悟空なのか。
例えそうだとしても。
三蔵は悟空の腕を掴むことは出来ない。
悟空が望んでいるのは、自分ではない。
ならどうして。
自分はこうして悟空を捜しているのか。
こんな夜中に、小さな声を辿りながら悟空を見つけ出そうとしているのだろう。
『どうせ眠れないからだ』
そう思った。いや、思おうとした。
だがそれは取って付けた理由である事を、三蔵は心の何処かで感じている。
昨夜の呼ぶ声ならともかく、今夜の泣き声は眠れないほどうるさい訳じゃない。
耳を澄ませなければ聞こえないくらいの声だ。
それにも関わらず……耳に付いて眠れない。
悟空の泣き顔が頭から決して離れない。
三蔵は、声を聞き逃さないように気を付けながらひたすら歩く。
もう既に、寺院からは相当遠くに来てしまっている。
身体の疲れなど、もはやどうでも良くなっていた。
今、三蔵を苛んでいるのは、精神部分だ。
とにかく、早く悟空を捜し出したかった。
そうしなければ、『何か』に押し潰されそうな気がした……。
周りが闇に包まれた中で、悟空は1人膝を抱え、木にもたれて座り込んでいた。
夜の草原は、何かに飲み込まれてしまいそうで、怖い。
悟空はひどく虚ろな目で月を見上げていた。
寺院を飛び出して、どうするつもりだったんだろう。
行く所なんてないのに。
自分には、三蔵のそば以外にいる場所なんてないのに。
ただ、あの時聞こえた声から逃げ出したかった。
とても、懐かしい声。きっと、知っていたはずの声。
でも。
その声に応えてしまったら、何かが壊れてしまいそうで怖かった。
あのまま、その声に心を委ねてしまいそうな自分が怖かった。
何より、その声を“失くした”事を、もう一度認識する事が怖かった。
覚えていない過去。戻らない時間。
でも、三蔵がいてくれたから。
だから悟空は失くした過去を、取り戻したいとは思わなかった。
けれど。
……『歴史は繰り返す』、そう何かの本で読んだ事がある。
それが本当なら、また繰り返すのか。
また、自分は大切な人を失くすのだろうか。
それだけは、絶対にイヤだ。
三蔵を失ったら、きっと悟空の精神はその痛みに耐えられない。
だけど、どうしていいのかが分からない。
あの夜、夢から目覚めて以来、三蔵を見る度にそのまま消えてしまいそうで怖い。
三蔵の事が大好きで。大切で。
だからこそ、失いたくなくて……。
逃げても何にもならない事は分かっていても、そばにいられなかった。
夜風が悟空の頬をかすめて、吹き抜けていく。
本当は三蔵を呼びたかった。迎えに来て欲しかった。
でも、呼べない。呼んではいけない。
これ以上、三蔵に迷惑を掛ける事は許されない。
三蔵を失う前に、そしていつか三蔵に『いらない』と言われる前に、消えてしまいたかった。
失う事は耐えられない。だから、自分から消えてしまえばいい……。
そうすれば、失くさずに済む。
卑怯だと分かっている。
それでも、そうせずにはいられない。
寺院を出てきて、それからどうするかなんて、全く考えていなかった。
悟空は寺院と、その近くの街しか知らない。
行くあてなんて、あるはずもない。
このままここで、ずっと座っているのもいいかもしれない。
いっそ生命が消えるまで……。
悟空は微かに笑う。
三蔵は今頃、どうしているだろう。
仕事から戻って、部屋で眠っているのだろうか。
それとも、悟空がいない事に気付いて捜してくれているのだろうか……。
そんな事、ある訳ない。
自分が、三蔵にとってそこまでしてもらえるような価値があるなんて思えない。
いつもいつも迷惑を掛けて、怒られて、呆れられて。
でも、他の僧達みたいに悟空を蔑んだりはしなかった。
1個の人格として、認めてくれていた。
手を差し伸べてくれて、頭を撫でてくれた。
思い出すほどに悟空の瞳に涙が滲む。
三蔵に会いたかった。
もう一度、あの厳しくて優しい声が聞きたかった。
自分から出てきたはずなのに。
どうしようもなく、暖かい手が恋しかった。
……その時、風が騒いだ。
悟空のもたれている木の遥か後ろの方から、草を踏みしめる音が聞こえる。
悟空は木から背を離し、立ち上がりながらゆっくりと後ろを振り返る。
その悟空の瞳に入ってきたのは────月に照らされた、金色だった。