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風が草や葉をさざめかせる音だけが、やけに大きく聞こえる。
三蔵は一歩ずつ、確実に悟空に近付いていく。
その距離が2メートル程にまで近付いた時、三蔵は足を止めた。
「……こんな所で、何してやがる」
悟空は目を驚きに見開いたまま、その場に立ち尽くしている。
その様子に、三蔵の表情が微かに曇る。
やはり、自分に来て欲しくなかったのだろうか、と。
そんな考えが頭をよぎる。
悟空は、目の前の光景が信じられなかった。
何故、そこに三蔵が立っているのだろう。
会いたい気持ちが、幻を作り出してしまったのだろうかとも思う。
だが、何度瞬きをしてみても、三蔵の姿は変わらずそこにある。
思わず駆け寄って抱き付いてしまいそうな自分を、悟空は必死にこらえた。
今のこの状態で三蔵のぬくもりを感じてしまったら、離れられなくなる気がした。
一緒にいてはいけない。どんなに恋しくても。
いつかは、失うその日が来てしまうなら。
互いの間に沈黙が下りる。
三蔵も悟空も、言うべき言葉が分からなかった。
悟空のじっと何かに堪えているような姿に、三蔵の中に痛みが走る。
自分が来た事で、却って悟空は苦しんでいるのかもしれない。
この草原で悟空を見つけた時、安堵と焦燥を感じた。
悟空をようやく見つけ出せた安堵。
そして、月に連れて行かれそうな悟空の姿への焦燥。
それを認めた時、三蔵は気付かざるを得なかった。
悟空を、手放したくないと思っている自分自身に。
そしてそれが、どういう感情から来ているものなのかという事に……。
三蔵はここに来る間中、考えていた事がある。
悟空のこれからの事だ。
悟空に会って、もし悟空が寺院から……三蔵から離れたいと言うなら、好きにさせようと思った。
むしろその方が、広い世界に出た方が、悟空にとっても良いだろう、と。
だが……実際に悟空に会った今は、それを許す事が出来ない。
何があっても、悟空が出て行きたいと言っても、離したくない。
……悟空が望んでいるのが、自分ではないとしても。
三蔵は再び悟空に向かって、殊更ゆっくりと歩を進める。
そして手の届く距離で立ち止まり、悟空の頬へと手を伸ばす。
手が触れようとした瞬間、悟空が身を引いた。昨夜のように。
しかし、三蔵は昨夜のようには手を止めない。
そのまま手の方向を変え、腕を掴んで悟空を強引に引き寄せて抱きしめる。
「なっ……! さ、三蔵っ……!?」
悟空は慌てて離れようとする。
だがしっかりと抱きすくめてられている為、腕が外れる事はない。
「……イヤか?」
三蔵が、今まで聞いた事がないほどの頼りない声で呟く。
悟空の顔が、切なそうに歪められる。
イヤな訳ない。こんなに暖かいぬくもりを、イヤだなんて思えるはずがない。
でも、離れられなくなりそうな自分がイヤで。
いつか失くす事がイヤで……。
「……イヤだよ……」
悟空から返ってきた答えに、三蔵の腕が微かに震えた。
覚悟はしていた。
だが、実際に言葉で返ってくるとその痛みは相殺どころか倍増した。
「……そうか」
そう呟いて、しかし三蔵はその腕を離せなかった。
離すべきなのは十分過ぎるほど分かっている。
それでも、悟空を抱きしめる腕はその強さを増していくばかりだ。
悟空の身体が震えているのが、三蔵にも明確に伝わってくる。
恐れているのだろうか、三蔵を。
三蔵の表情が、苦痛に歪む。
痛みなんて、忘れたと思っていた。
いや、もう既に麻痺してしまったものだと、そう思っていた。
だが今、これほどの痛みが三蔵を襲っている。
悟空の「イヤだ」という、たった一言で。
こんな自分が存在する事など……今まで知らなかった。
「イヤだ」と答えれば、三蔵は離れると思っていた。
きっと悟空に今度こそ愛想を尽かして、離れるだろうと。
だけど、三蔵は悟空から腕を離さない。
苦しかった。そのぬくもりが、その優しさが。
どんどん心を持っていかれる事が、怖くてたまらなかった。
今なら間に合うと思ったのに。
今ならまだ、離れる事が出来ると思ったのに。
「イヤだ……! イヤだよ! これ以上持ってかれたら……俺……! 俺……!!」
悟空は再び三蔵を押し返した。
一旦抵抗が止んでいた為三蔵も力が緩まっていたのか、今度は三蔵の腕が外れた。
その時、悟空は初めて目にしたものに驚いていた。
……三蔵のひどく傷付いたような、泣きそうな表情に。
三蔵は、感情がそのまま表情に出る事はほとんどない。
だからこそ、悟空の動揺も大きかった。
初めて目の当たりにした、三蔵の大きな感情の揺らぎ。
その原因が自分だという事は、いくら幼い悟空でも容易に分かる。
悟空の中に、強烈な罪悪感が押し寄せる。
……三蔵が、自分を必要としてくれているのだろうか。
こんな、三蔵に迷惑ばかりを掛けて、何も返せない自分を。
そんな自惚れが、自分に許されるのだろうか。
三蔵は、自分を見たまま固まってしまっている悟空から、ふと顔を背けた。
悟空の驚きようから見て、自分は今相当ひどい顔をしてしまっているのだろう。
そんな顔を見せる事は、何だか卑怯な気がした。
悟空を戸惑わせ、決断を鈍らせるようで。
……例え、三蔵の本心はそれを望んでいたとしても。
悟空があくまで三蔵を拒絶するのなら、三蔵は無理やりには連れて帰れない。
そうしたいと思ってはいても、無駄だと分かっている事は出来ない。
無理に連れて帰っても、またいなくなるだけだろう。
鎖にでも繋いで、閉じこめておかない限り……。
自分の中に浮かんだバカな思考を、三蔵は即座に否定する。
そんな事を望んではいない。自由を奪えば、その輝きは失われてしまうだろう。
三蔵が何よりも惹かれた、眩しいくらいの輝きは。
そうなれば今、三蔵が取れる行動は一つしか有り得ない。
三蔵は悟空に背を向けて歩き出す。
寺院の方へと、ここに来た時よりも重い足取りで……。