出逢いとは、罪なのだろうか。
決して重なる事のない運命が出逢う事は…………あってはならない事。
分かっていたのに、出逢ってしまった。
鳥のさえずりが響く森の中の、その中央。
そこには、天女が降りてくるという伝説の残る、美しい湖があった。
その湖のほとり、程近いところにある木に凭れて、金色の髪の青年が座っている。
青年はその伝説を信じているわけではなく、別段興味も抱いていなかった。
天女になど興味はないし、そんなご都合主義な伝説など何処にでもあるものだ。
単に、この森の中に一人で暮らしている青年にとっては休むに丁度良い場所だから。
だから、この湖には仕事の合間に少しの時間だけ休みに来る。それだけの事だった。
青年に浮かぶのは、無機質な冷たい表情。
これほど美しい湖を見ても、別に何の感銘も受けず、淡々とした視線を向けるばかりである。
湖にも、森にも、当然人間にも、何にも興味がない。
ただ生きるために仕事をこなし、金を得る。
生きている理由も、たった一つだけ。
それを達成してしまったら、青年は生きる事すら放棄してしまうだろう。
しばらく一人で湖を眺めた後、再び仕事に戻る。
いつも変わる事のない時間。
それが、今日も繰り返されるはずだった。
だが、突然青年の視界を遮ったものがあった。
青年は咄嗟に『それ』を払い除けると、臨戦体勢に入る。
仕事柄、不意をついて襲われる事も多々あるからだ。
しかし、その払い除けたものの正体を見て、青年は訝しげな表情になる。
先程青年の視界を遮ったもの。それは真っ白な羽衣。
どうやら上から降ってきたようだが、上を見上げてみても、あるのは木々の枝と青空ばかりだ。
周りに視線を走らせるが、自分以外の人間の気配はしない。
青年は周りに気を配りながら慎重に、地に落ちた羽衣を拾い上げた。
その余りの軽さに、少々驚く。
まるで何も持っていないかのように、その羽衣はその存在を重量としては全く主張していない。
ただ、ほのかに発光しているのではないかと思えるくらいの白さが、周りから羽衣を浮き立たせている。
決断力に優れた青年にしては珍しく、その羽衣の処理に迷う。
普段ならばこんな得体の知れないものは捨て置くなり処分するなりするのだが、
この羽衣に限ってはそういう気にはなれなかった。
何か、自分にとって重要なものをもたらすような、そんな予感を覚えたのだ。
その時。
ガサリ、という木々をかき分けるような音が背後から聞こえ、青年は勢い良く振り返った。
時間が、止まったような気がした。
振り返った先にいたのは、誰の目をも惹き付けるであろう、美しい少女。
年の頃は、十四、五歳といったところだろうか。
息を弾ませ、茶色い髪を風に靡かせている。
だが、何よりも青年の目を縫い止めたのは、その太陽のように輝く金色の瞳。
そのまま吸い込まれてしまいそうな感覚さえ憶えた。
その場に立ち竦んでしまった青年を見て、少女もまた驚いたように大きな瞳を更に見開いている。
少女の口元が動いたかと思うと、小さな呟きが漏れた。
「……シャドウ……?」
意味の分からない呟きに、青年は眉を顰める。
明らかに自分を見て呟かれた言葉だが、何の事かまるで分からない。
呟いてしまってからハッと我に返ったらしい少女は、青年の手の中にある羽衣にようやく気付いたらしい。
足音すら響きそうにない軽い足取りで、青年の前まで駆けてきた。
「……俺の羽衣、アンタが拾ってくれたんだ。ありがとう」
そう言って、ふわりと微笑む少女から青年は視線を離せずにいた。
外見と言葉遣いのギャップに多少戸惑ったものの、その花のような笑顔に目を奪われる。
少女は笑顔で青年に向かってその白く小さな手を差し出す。
だが、返そうとしてその手が止まった。
これを返せば、少女はすぐさまこの場から去ってしまうだろう。
そうなれば……もう二度と逢う事はなくなる。
こんな偶然の出逢いが、再び訪れるわけがない。
欲しい。
青年の心に、そんな言葉がすっと降りてきた。
こんな風に、何かを欲したのは初めての事だった。
そして初めて故に、それを手に入れる方法を、一つしか思い浮かばなかった。
「……お前、名は?」
羽衣を返す手を止めたままの青年に首を傾げていた少女であるが、不意に名を尋ねられてキョトンとした顔になる。
「俺? 俺は、悟空だよ」
「悟空……」
青年は告げられた少女の名前をゆっくり繰り返した。
「……あの……俺の羽衣……」
いつまでも返してくれないので、さすがに少女──悟空も痺れを切らしたらしい。
少し困ったような顔をして、羽衣を返してくれるように改めて促す。
だが、ここで返ってきたのは悟空の意に反したものだった。
「これが、お前のものだという証拠が何処にある?」
「しょ、証拠?」
「そうだ。それがお前に証明できるか?」
「証明なんて言われても……それ、俺のだもん……」
まるで幼い子供のように可愛らしい声で主張する様までが、青年の心を惹き付ける。
「そんな自己申告じゃ、渡すわけにはいかねえな」
「そ、そんな……」
悟空の泣きそうな顔を見て、青年の内に罪悪感が起こる。
だが、どうやってでも欲しかった。誰に卑怯だと言われても。
「そんなに返してほしいなら……条件によっては返してやらん事もない」
「え、ホント!?」
「要は、お前がそこまでして取り戻したい、っていう意志を見せればいい。
そうすれば、お前のものだという主張を信じてやる」
「分かった! で、どうすればいいんだ?」
取り戻せると知って、悟空は途端に張り切って青年に詰め寄る。
その様子に少しの苛立ちを感じながら、青年は言い放った。
「……これを返して欲しいなら……俺の妻になれ」
数瞬立ち尽くしていた悟空だったが、ようやく言われた事の意味が飲み込めたのか即座に抗議の声をあげる。
「つ、妻ってなんだよ、それ!?」
「俺と結婚して一緒に暮らす、という事だ」
「そういう意味じゃなくて! ……何で、そんな事……」
「条件を飲むんだろう? それとも、これはいらねえのか?」
「……!」
青年は手の中の羽衣をちらつかせる。
それを見ると、悟空は手をギュッと握りしめて俯いてしまった。
「……アンタの妻になったら……羽衣、返してくれるのか?」
「ああ。お前がちゃんと妻としての務めを果たせるなら、約束は守ってやる」
しばらくの間考え込んでいた悟空だったが、何かを決心したかのような表情を見せると顔を上げた。
「……分かった。アンタの妻になる……」
その返事を聞いて、三蔵は初めて悟空に対して微かな笑みを浮かべた。
「決まりだな。……それと、俺は『アンタ』じゃねえ。三蔵……玄奘三蔵だ。
今日からお前の夫になる男の名前だ。しっかり覚えておけ」
そう言うと、青年──三蔵は自分の暮らす家へと踵を返した。
もちろん、その手には真っ白な羽衣を持ったまま。
後ろからついてくる気配を感じ取りながら、三蔵は羽衣に目を落とす。
初めて自ら欲したもの。それを手に入れた。
二度と返してなどやる気はない。
例え本当に天女だったとしても、そんなもの知った事か。
天にも何処にも帰さない。返さない。
永遠に、ここに繋ぎ止めてやる。
この純白の羽衣を、漆黒の鎖に変えてでも。