涼やかな風が辺りを吹き抜けていく。
昨日出逢った場所に立って、悟空は湖を眺めていた。
三蔵と名乗った青年に、羽衣を返す条件として『妻』になる事を強いられてしまった。
そして、それを悟空も承諾した。いや、承諾せざるを得なかったのだ。
あの羽衣がなければ、天界には帰れない。飛ぶ事すら出来ないのだから。
今更ながら、悟空は地上にこっそり遊びに来た事を後悔していた。
地上に降りてこなければ、あの時羽衣を風にさらわれなければ。
こんな風に、地上に縫い止められる事もなかったのに。
悟空とて、決して地上が嫌いなわけではない。
むしろ、生命力に溢れる地上が好きだからこそ、たまに内緒で降りてきたりする。
しかしそれも、『遊びに来る』からこそ楽しいのであって、『地上で暮らす』なんて考えた事もなかった。
だって、天界には何より大切な『太陽』がいてくれるから。
その『太陽』の傍に在る事が、悟空にとって一番大切な事なのだ。
「……金蝉、心配してるかなぁ……」
金蝉。天界の中でも異端視されている悟空を暖かく包んでくれる、優しい太陽。
悟空が地上に降りる事を、金蝉は余り良く思っていないようだった。
だから、今回もちょっとだけのつもりで、金蝉には内緒で来たのだ。
こんな事なら、金蝉の言う事をちゃんと聞いておけば良かったと思う。
何も言わずにいなくなった悟空を、金蝉は今頃心配してくれているだろう。
もし地上に来ている事に気付いてくれても、悟空を捜し出すのは決して容易な事ではない。
金蝉に会いたかった。
会えなくなって一日しか経っていないけれど、今まで一日だって離れた事はなかったのに。
悟空の瞳に、微かに涙が浮かぶ。
「……金蝉……」
帰りたかった。大切な人のいる天界へ。
そのためには、羽衣を取り返さなくてはならない。
もちろん悟空も、三蔵が返してくれるのを黙って待っている気はなかった。
今朝三蔵が仕事に出掛けた後、家中を探し回ってみたのだ。隠せそうなところを、隅から隅まで。
そして、羽衣を見つけた。
羽衣を見た瞬間、悟空は嬉しかった。これで帰れる。そう思った。
だが、悟空が伸ばしたその手が羽衣に触れる直前、弾かれるようにその手を撥ね返された。
何度試してみても同じだった。
どうしても羽衣に手が届く前に弾かれてしまう。
───結界───
悟空の頭に、その単語が過った。
まだ少女とはいえ、悟空の天女としての力は決して弱いわけではない。
それでも、いくら破ろうとしても出来なかった。
かなり強い結界で守られている事は間違いない。
この結界に触れた時、初めて悟空は三蔵という存在を強く意識した。
彼は、何者なのだろう。
これほど強い結界を造れる人間。それは、そうそういるものではない。
彼はどういう人物で、何のために悟空をここに留めているのか。
何か目的があるのか、だとしたらその目的は何なのか。
三蔵の能力や目的を知らない事には、羽衣を取り返す事は出来ない。
まずは、知る事。それから始めなければならないと、悟空は触れられない羽衣を見ながら思った。
多くの人々が往来する、大きな街。
三蔵が住む家のある森から少し離れたところにあるこの街が、三蔵の主な行動範囲だった。
日常の物資の補給もだが、仕事の依頼を受けるために足を運ぶ事が多いためだ。
三蔵はいつも通る道を、目的地に向かってただ歩いていく。
道の両側にある商店になど見向きもしない。
今日は仕事のために来たのであって、それ以外の目的はない。
大通りをいくらか進んだ所にある、個人でやっている規模の小さい花屋に入る。
といっても、別に花を買うためではない。
その店の主人こそが、三蔵が仕事上最も付き合いの深い人物なのだ。
スターチスやカスミソウ、ゼラニウムなど、手入れの行き届いた花が三蔵を迎える。
元々三蔵は花には興味はないのだが、こうして来るうちに幾つかは覚えてしまった。
ここの店主が来るたびに色んな花にまつわる伝説やら花言葉やらを、聞きもしないのに話し出すのだ。
頭の良い、仕事上では非常に有能な男なのだが、付き合っていると些か疲れる事がある。
三蔵はため息をつくと、どうやら自宅になっている奥に引っ込んでいるらしい男に声を掛けた。
「……おい、八戒! 何してやがる!」
その声に、奥から軽い足音を響かせて碧の瞳の青年が顔を見せた。
「おや、三蔵。今日は早いですね」
にっこりと穏やかな微笑みを浮かべつつ、八戒は店の方へと一段降りる。
「うるせえ、今日来いと連絡寄越したのはてめえだろうが」
「あ、ちゃんと届きましたか? 良かったぁ、初めて送ったんで心配だったんですよ」
「……アレは何なんだ。いきなりウチの戸をぶち破りやがって……。修理費は請求するからな」
「そんな三蔵、セコい事言わないで下さいよー。僕と三蔵の仲じゃないですか」
「いつそんな仲になったんだ……。いや、それよりも、アレは何だったのか説明しろ」
「アレって……悟浄の事ですか? いくら三蔵でもそれはちょっと……」
ニコニコと笑いながら、八戒は三蔵の質問をかわす。
『悟浄』と呼ばれた何かの襲来に遭ったのは、3日前だ。
家で仕事の調整をしていたら、突然何かが近付いてくる気配がして扉を見た。
その瞬間、その扉をぶち破って紅い髪の男が現れ、手紙を置いて去っていったのだった。
滅多に動揺する事のない三蔵も、さすがにその時はしばらく呆然と突っ立ったままだった。
もしも八戒がこれからも連絡用にアレを使うつもりだったら、と思うと頭が痛くなる。
「大丈夫ですよ。経験を積めばちゃんと成長しますから」
しれっと言い切った八戒に、三蔵は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
「……俺を練習台にする気か……?」
「だって、三蔵以外のトコには送れないんですよ。信用問題になりますから」
「俺だと信用問題にならんのか?」
「三蔵は、そんな事で目くじら立てるほど狭量じゃないでしょう?」
そう言われてしまうと、怒るに怒れなくなる。自分の器の狭さを露呈するようで。
おそらくは三蔵がそう思う、それも計算に入れての言葉なのだろう。
言葉の応酬では勝てないと改めて悟った三蔵は、早々にこの話題を切り上げて本題に入る事にした。
そう、今日ここに来た目的は仕事の話だ。
どうも八戒と話をすると、いつも何処か脱線してしまう事が多い。
三蔵は基本的に無駄話は好きではないのだが、八戒相手の場合は特に不快になるわけでもない。
八戒の話し方が上手いせいだろう、と思うが、案外波長が合うのかもしれない。
仕事の話をするために、三蔵と八戒は八戒の自宅になる奥へと入っていく。
店の玄関に『準備中』の札をかけて。
三蔵の言う『仕事』とは、当然だが表向き八戒が営んでいる花屋の事ではない。
八戒にとっては『裏稼業』という事になるのだろうか。
三蔵の場合、仕事はこれのみなので表も裏もないのであるが。
八戒が二人分のお茶を淹れ終わると、リビングの真ん中にあるテーブルに差し向かいに座る。
「……さて、早速本題に入りましょうか。今回の依頼の詳しい内容はここに書いてあります」
そう言って、八戒は書類の束を三蔵の前に置いた。
「依頼人は二十五歳の女性です。自分を裏切った男を呪って欲しいそうです」
「ち、またか……」
三蔵はうんざりといった感じで書類に目を落とした。
三蔵は、いわゆる『呪術師』というものだった。
呪術師といっても、人を呪ったりするだけの職業ではない。
むしろ、呪いを祓ったり、迷う霊を鎮めたり、タチの悪い霊を封じたり……といった事を生業にしている者が殆どだ。
三蔵も、元々はそういった仕事で主に生計を立てていた。
だが、三蔵の腕が評判になると、本来の仕事である『呪い』を依頼してくる者が増えてきた。
そんなに呪いたい相手なら自分で呪えと思うのだが、稼ぎの率がいいのは確かだ。
最初は全部断っていたが、今では『ターゲットを殺す』以外の依頼は受けるようになった。
誰かを『殺す』という行為は、殺した人間にも強い『業』を負わせる。
自分の邪魔をするヤツなら、三蔵は躊躇いなくその手にかける。
だが、自分と関係ない他人の憎しみの末の『業』まで背負ってやるほど三蔵はお人好しではない。
『業』を背負う覚悟がないのなら、殺したいなどと軽々しく口にするべきではない。
『呪殺』は全て拒否している三蔵であるが、それでも『呪い』の依頼はまるで減らない。
まるで、この世界そのものが何処か狂ってしまっているかのように。
人の心は荒み、気に入らない他人を呪って破滅させる。
他人を呪うという事が、どれほど危険を伴うものであるかも知らずに。
呪いが失敗すれば、呪術師も依頼者もただでは済まない。
以前三蔵が依頼を受けて呪いを祓った事があった。
その時、呪いを行っていた呪術師は無事だったがその依頼者は重傷を負ってしまい、今なお意識不明の状態だ。
呪術師本人は、呪いが返されてもその対処法を知っている。
だが、自分で呪う能力もない依頼者がそんな方法を知っているはずもない。
依頼者が重傷で済んだのは、八戒が調べてきた依頼者の情報を元に三蔵が作ったヒトガタにもその呪いを分散させたからだ。
もしも三蔵が呪いをそのまま全て返していたなら、依頼者の命はなかっただろう。
そして厄介な事に、呪いを依頼してくる人間の九割以上はその危険性を知らない。
たまたま三蔵専属の仲介者である八戒を通して三蔵に依頼に来た人間は、まだ幸運な方だ。
八戒が、三蔵に話を持ってくる前に依頼者と話をしてそういった危険についてちゃんと説明するからだ。
失敗すればもちろん、例え成功しても、呪いは何らかの形で自分自身にも災いをもたらすという事実を。
だが、大半の者はそういった説明も受けられず、結果、自分自身を破滅させていく。
三蔵もそういった連中に同情するつもりは毛頭ない。
他人を呪おうなんていう連中だ。そもそもその時点で何処か狂ってしまっているのだ。
しかし、自分自身ですらどうしようもないほどの憎しみを抱えて動けない人間もいる。
さっきの、三蔵が祓った呪いの依頼者もそうだった。
恋人を死に追いやられ、そして女の身では復讐の手段も限られていた。
だからこそ、三蔵も呪いを全て彼女に返す事を躊躇った。
大切な人を奪われた、その痛みと憎しみは、三蔵自身もよく知るものだから。
「……三蔵?」
書類を読むでもなく見つめてじっと動かない三蔵に、八戒が躊躇いがちに声を掛けた。
「どうかしたんですか?」
「いや……何でもねえ」
自分の思考にはまり込んでいた事に気付き、三蔵は改めて書類に目を通す。
今回の依頼は、自分を裏切った男への復讐……という事らしい。
「……八戒、ひと通り説明はしてあるんだろうな」
「もちろんです。でも、『それでもいいから、この男を破滅させて』って言われちゃいまして」
恐ろしきは、女の執念。裏切り者への報復のためなら、自分の身をも危険に晒す。
三蔵は書類をめくって、詳しい内容を読む。
「……要するに、社会的に抹殺しろって事か」
「そういう事になりますね。殺さなくてもいいから、生きてる方が辛いくらい追い詰めてやって欲しいそうです」
「蛇みてえな女だな……」
「でもこの男、何人もの女性を騙して貢がせた挙句に捨ててるみたいですよ。中には自殺した女性もいるそうです」
「自殺……?」
「ええ。もしかしたら、この依頼者の女性も一度は自殺を考えたんじゃないですか?
それで、それなら男も道連れにしてやろうとか思ったのかもしれませんね」
「なるほどな」
自分が死んでも男は悲しまない。それが分かっているから余計に許せないのだろう。
「それで、どうしますか、三蔵? この依頼、受けますか?」
三蔵はしばらく考えた後、テーブルの上に書類を置いた。
「……いいだろう。この依頼、受けてやる」
「そうですか。それじゃあお任せしますよ。いつも通り、依頼料の交渉とかの雑務は僕が引き受けますんで」
「ああ。その辺はお前に任せる」
「分かりました。何か連絡が必要な時は、また悟浄をお使いに出しますので」
「……出来るだけ静かに来させろ」
「ははは、努力しますよ」
今いち説得力のない返事をすると、八戒はテーブルのお茶を片付け始めた。
三蔵が八戒の店を出ようとした時、八戒が小さな花束を差し出した。
「三蔵、これを」
差し出された小さな花束を見た瞬間、三蔵が心底嫌そうな顔をして一歩引く。
それを見て、八戒が苦笑して言葉を付け足す。
「……はは、三蔵にじゃないですよ。貴方の同居人の女性に」
さらりと紡がれたセリフに三蔵は瞳を見開き、僅かに剣呑な眼差しになる。
「……何故お前がそんな事を知っている」
悟空とは昨日出逢ったばかりだ。もちろん、誰にも話してはいない。
「僕の情報網を甘く見ないで下さいね。 といっても、僕が知ってるのは『女性の同居人がいる』という事だけですけど。
どんな人物で貴方とどういう関係なのかまでは、いくら何でも知りませんよ」
「……ふん。それで、この花束は何のつもりだ?」
「貴方の仕事上のパートナーとして、まあ『よろしくお願いします』といった感じでしょうか」
「無駄だな。アイツは仕事には関わらせねえ。お前と会う機会もねえよ」
「そうなんですか? 僕は是非一度お会いしてみたいですねぇ。
何といっても、あの貴方が一緒に暮らそうなんて思う女性ですから」
「うるせえ」
そう言って踵を返した三蔵を、八戒が引き止める。
「あ、三蔵、これはちゃんと持って帰って下さい。折角作ったんですから。
心配しなくても、あくまで『貴方の仕事仲間』としてで、他意はありませんよ」
三蔵の内心を見透かしたような物言いに眉を寄せながらも、三蔵は渋々その花束を受け取る。
三蔵は悟空のいる自宅への帰途につきながら、八戒の花束を見る。
『是非一度お会いしてみたいですね』
誰が会わせるものか。
八戒とは付き合いが比較的長い分、よく知っている。
表面上は正反対でも、根底の部分であの男は自分と似通った部分がある。
八戒が悟空に逢えば……結果は見えている。
それが分かっていて、逢わせるわけがない。
あの天女は、自分だけのものだ。
他の誰にもあの眩い輝きをくれてやる気などない。
誰を敵に回してでも、それが例え八戒であったとしても。