日がすっかり高く昇り、暖かい陽射しが降り注いでいる。
悟空は三蔵の家に戻り、リビングの椅子に座っていた。
「……腹減ったぁ……」
テーブルに突っ伏しながら、悟空は弱々しい声をあげる。
朝食は三蔵がパンを用意してくれていたが、昼食がない。
羽衣を探し回っている内に家の勝手は分かってきたものの、肝心の食糧が見当たらない。
冷蔵庫も殆ど空に近い状態である。
三蔵がいつ帰ってくるのかは知らないが、悟空にとって食べ物がないというのは拷問と同じである。
いっそ外に出て、食べ物を調達してこようかとも思ったのだ。
だが、三蔵は悟空に対して、自分の許可する以外の場所への出入りを禁じた。
羽衣を盾に取られている以上、迂闊に三蔵に逆らうわけにもいかない。
今のところ、悟空に許されている行動範囲はこの家と、森の中と湖。
森の外へ出る事は、一切許されていない。
あの羽衣の結界を考えると、三蔵がいないからといってバレないなどと楽観する事は出来なかった。
空腹に耐えながらじっとしていると、家の外から足音が近付いてきた。
パッと顔を上げて、扉の方を向く。
悟空が立ち上がるのと、三蔵が扉を開けるのとは、ほぼ同時だった。
「お帰り!」
待っていたとでも言う風に出迎える悟空に、三蔵は少し驚いた表情を見せる。
「……ああ」
短く答えると、三蔵は椅子に座る。
三蔵の少し疲れた様子を見て悟空は考えると、キッチンの方に駆けていった。
経験がないため試行錯誤しながらも、何とか一人分のお茶を淹れる。
悟空はそれを持ってリビングへ戻り、三蔵の前のテーブルに置く。
「はい。お茶……飲む?」
「やけに殊勝じゃねえか。……そんなに羽衣を取り返したいか?」
「……俺、そんなつもりじゃ……」
悟空の表情が傷付いたようなものに変わるのを見て、三蔵は顔を逸らす。
そして目の前に置かれたお茶を、ゆっくりとした仕草で飲んだ。
三蔵とて、悟空がご機嫌取りなんていう事を考え付くような器用な人間じゃない事は分かっている。
目の前に差し出されたお茶が、純粋な優しさである事も。
しかし、悟空がここにいるのが羽衣を取り返すためである事も事実だ。
悟空が何気なく取った行動に、思わずその事実を忘れそうになるから。
だから、自分に確認するように、三蔵は殊更『羽衣』を強調してしまう。
三蔵がお茶を飲み終わるのを待って、悟空は切り出す。
「なあ、もうお昼だけど……ごはん、どうすんの?」
「そうだな。買い出しにも行かなきゃならねえし、町に出る」
「町に!? 俺も行っていいの!?」
「ああ。これからはお前にも買い出しに行ってもらうからな」
それを聞いて、悟空の顔が明るくなる。
町に、森の外に出られる。
この閉鎖された空間に閉じ込められている現状から抜け出せるのだ。
お茶を飲み終わると三蔵は席を立った。
「すぐに準備しろ。出来次第、出掛けるぞ」
「うん、分かった!」
元気よく返事をすると、悟空はあてがわれている部屋へと入っていった。
三蔵は私室のデスクの引き出しに依頼に関する書類をしまい、鍵をかける。
仕事柄、依頼人やターゲットの情報を外に漏らす事は許されない。
だからこの仕事用のデスクには、機械的な鍵に加え、呪術の結界も張ってある。
この結界と羽衣に張ってある結界。そしてもう一つ張っている結界がある。
いくら一流の呪術師である三蔵でも、この三つの結界を維持するのは負担がかかる。
しかし、どの結界も決して解くわけにはいかない。特に、後者の二つの結界は。
それによって身体にどれだけの負担がかかろうと、解く事によって失うものの方が大きいのだ。
「……逃がさねえ……」
微かに呟き、三蔵は別の引出しから取り出したものを握りしめた。
三蔵が私室を出てリビングに入ると、悟空が玄関近くで待っていた。
町に行ける事が嬉しくてたまらないのだろう。表情が昨日より格段に明るい。
それがまるで自分の元から離れる事を喜んでいるように見えて、三蔵の視線が冷えたものになる。
三蔵は無言のまま悟空に近付き、その手首を掴んだ。
「……痛っ……!」
掴む力の強さに、悟空の表情に少し苦痛の色が浮かぶ。
更に手を引っ張って自分の方へ寄せると、三蔵は手に持っていたものを悟空の手首につけた。
ようやく三蔵が悟空から手を放すと、悟空は自分の手首につけられたものを見る。
「これ……何? ブレスレットみたいに見えるけど……」
「これからはずっとしてろ。外すなよ」
「……っていうかこれ、外れないじゃん!」
悟空は手首にはまっているブレスレットを外そうとしてみるが、全く外れない。
「外すなって言っただろうが。無駄な事してんじゃねえ」
「何だよ、これ!? なあ、何でこんなのつけなきゃなんないんだよ!?」
「うるせえ。耳元で騒ぐんじゃねえよ。……さっさと行くぞ、悟空」
悟空の抗議を無視してそれだけ言うと、三蔵は玄関から外に出た。
それを見て、悟空も諦めた風にブレスレットから手を放すと、三蔵に続いた。
森の中を無言で歩く三蔵の後ろをついて行きながら、悟空はさっきから感じていた疑問を口にする。
「なあ、何処行くの? 今朝出掛けた方角と反対じゃん」
今朝、三蔵が街に行くと言って出たのは西。しかし、今向かっているのは東だ。
「これから行くのは西の大きな『街』じゃねえ。もう少し小規模な『町』だ」
「何で? 大きな街の方が色々あるんじゃねえの?」
「……さっきも言ったが、これからお前にも買い出しとかで町に行ってもらう。いきなり大きな街じゃ迷うだろう」
その言い分に、何だかバカにされたような気がして悟空は突っかかる。
「迷わねえよ! 俺だって、そんなにバカじゃねえもん!」
そんな悟空の頬を膨らませた子供のような仕草に微かに表情を柔らかくし、三蔵は付け加える。
「お前をバカにしてるわけじゃねえ。あそこは初めて行くヤツは大抵迷うんだよ」
「ふうん……」
それでもなお、悟空は納得のいかない顔をしている。
納得出来なくて当然だ。それなら迷わないよう何度か一緒に行けばいいだけの事なのだから。
実際、三蔵が小さな町を選んだ理由は全く違うもの。
……あの西の街には八戒が住んでいる。
悟空を連れて行けば、何かの偶然で出くわしてしまうかもしれない。
八戒にだけは会わせたくない。
この純粋な天女に心を奪われるのが分かっているから。
そして人の心理を読む事に長けた八戒は、悟空の心をも絡め取ろうとするだろう。
そんな事が許せるわけがない。
いつの間にか下りてしまった沈黙に、悟空は居心地が悪そうにしながらも黙って歩いている。
そして時折、木々の間から差し込んだ陽の光を反射して輝く金糸の髪を見つめたりしていた。
綺麗な綺麗な金色の髪。
悟空の『太陽』と同じ髪の色。
なのに、その金色は、悟空を地上に縛り付ける。
天女の羽根である羽衣を奪い去って。
悟空は上を見上げた。すると、木の枝の隙間から青空が見えた。
羽衣を纏っている時はとても近かった空が、今はやけに遠い。
手を伸ばしてみても、届かない。
ぼうっと上を見ながら歩いていたせいか、悟空は足元の小石につまづいた。
「ぅわ……!」
そのまま地面の上に、音を立てて転ぶ。
「いってぇ……」
身体を起こそうとしたところに、先を歩いていた三蔵が駆け寄ってきた。
「何してやがんだ、ボっとしてんじゃねえよ。…………大丈夫か?」
最後の一言だけ小さな声で呟き、三蔵は悟空の前に片膝をつく。
その表情が心配そうに曇っているのを見て、悟空は意外さで思わず三蔵を凝視してしまった。
出逢ってからの三蔵の態度からして、まさか心配してくれるとは思わなかった。
悟空が三蔵の顔をじっと顔を見たまま動かないので、三蔵が不審そうに尋ねる。
「……何だ」
「あ、ううん……何でもない。大丈夫だよ」
そう悟空が答えると、三蔵は息をついて立ち上がる。
悟空も立ち上がろうと体勢を変えた時、目の前に手が差し出された。
「……え?」
一瞬その意味が分からなくて、悟空はキョトンと手を見つめている。
「……さっさと掴まれ」
「え、あ! うん……」
言われるまま、悟空は差し出された手に自分の手を重ねる。
すると、三蔵は悟空の手を握って上に引っ張り上げた。
その勢いで悟空が立ち上がると、三蔵はその手を放す。
「ケガなんてしてねえだろうな」
その言葉に、悟空は腕や足を動かしたり、その場でジャンプしたりしてみた。
「うん、別に何ともないよ」
「……そうか、ならいい」
そう言うと、三蔵は再び町の方に歩き始めた。
その三蔵の様子を見ながら、悟空はほんの少し笑った。
もっとずっと冷たい人間かと思っていた。
でも、どうやらそうじゃないらしかった。
不機嫌な顔をして、そっけない態度で、でもさりげなく心配もしてくれる。
そんなところが、まるで誰かみたいだと思った。
「おい、何突っ立ってやがる! さっさとしろ」
いくらか離れた場所で、三蔵が立ち止まって振り返っていた。
こうしてちゃんと後ろにいる悟空を気にしてくれる。
「……今行く!」
悟空は小走りで三蔵の立つ場所に駆け寄った。
「……さっきはありがとう」
「何がだ」
「手ぇ貸してくれて」
「お前だけで立つのを待ってたら、どんどん遅くなるだけだからな」
「あ、ひでえ。そんな事ねえもん」
「どうだかな」
三蔵は先を歩いているため、その顔は見えない。
だが、不機嫌ではないのだろうという事は何となく分かる。
『三蔵』という人間を、まずは一つ、知る事が出来た気がする。
優しさを素直には見せられない、とても不器用な人なのだと。
確かに三蔵は、悟空から羽衣を奪い、この地に縫い付けている張本人だけれど。
でも、彼は何処か、悟空の太陽を思い出させる。
根底に流れるものが金蝉に似通っているようで、どうしても嫌いになってしまえない。
どのみち、羽衣を取り戻すまでは一緒にいなくてはならない。
それなら、もっと三蔵を知って理解する努力をしてみてもいいのかもしれないと思う。
いつか、天界にいる太陽の元に帰る時までは。