暖かな春の陽気の中、悟空は長い後ろ髪をなびかせて足取りも軽く街を歩いていた。
その表情は明るく、見るからにご機嫌である。
「おいバカ猿! 余りウロチョロすんじゃねえ」
後ろから飛んできた声に、悟空は振り返って少しだけ駆け戻る。
「いいじゃんか、一緒に街に来るなんて久しぶりなんだしさっ」
「ったく、何がそんなに嬉しいんだか……」
「嬉しいに決まってるじゃん! 三蔵、忙しくて滅多に一緒に遊んでくれないんだもん」
そして、そんな貴重な休みに悟空に付き合ってくれているのだから余計だ。
悟空は余り1人で街に下りてきたりする事は少ない。
元々悟空は三蔵以外に親しい人間はいないし、正直少し怖かったのだ。
特に寺院では妖怪である悟空を忌み嫌う者が殆どであるため、悟空にとってはその悪意こそが悟空へ向けられる普通の感情だと思い込んでいたのだ。
たくさんの人間のいるところに出て行けば、より強い悪意に晒されるに違いない、と。
三蔵と一緒に街に行くようになって、そんな事はないと分かったけれど。
三蔵と一緒ならどんな場所に出ても平気なのが、少し不思議な気もする。
傍にいてくれると、何故だかとても安心するのだ。
だから、悟空はこうして三蔵と一緒に出掛けられる時間が大好きだった。
ついはしゃぎすぎて怒られる事も多いが、そんな事なんて全然気にもならなかった。
「なあなあ、三蔵。あれ、美味そう!」
悟空は立ち並ぶ店の1つを指差す。
指差した先にあったのは、お持ち帰りも出来るお好み焼き屋だ。
「今さっき食堂でチャーハンを5杯食ったばかりだろうが」
「もう消化されたもん」
「……どんな濃硫酸だ、お前の胃液は」
呆れたように言いながらも、三蔵はお好み焼き屋の方に駆け寄る悟空の後をついてきてくれている。
「……なあ、これ買ってもいい?」
「1つだけならな」
「ありがと、三蔵! ……じゃあ、え〜っと……」
表に立てられたメニューを眺めながら、悟空は品定めを始める。
その時、隣の店に響いた明るい声に悟空は振り返る。
どうやらケーキ屋らしい隣の店では、30代くらいの女性がホール型の生クリームケーキを注文していた。
「子供の誕生日用なので、名前を入れて頂けますか?」
そして少し待った後ケーキを受け取ると、女性は嬉しそうにケーキを抱えて行ってしまった。
悟空はまたメニューに視線を戻したが、どうしても気になる事があって三蔵を振り返る。
「決まったのか?」
「ううん、そうじゃなくて、三蔵に訊きたい事があるんだけど……」
「何だ」
「あのさ……『たんじょうび』って何? 『たんじょうび』にはケーキを買うもんなのか?」
三蔵の少し驚いたような表情が気になったが、悟空はそのまま答えを待つ。
「『誕生日』ってのは、そいつが生まれた日の事だ。ケーキを買うのは、生まれたその日の祝いだな」
三蔵の答えに何故か聞き覚えがあって、悟空は首を傾げた。
「……あれ? 俺、確か前にもそれ訊いたよな。ごめん、三蔵、同じ事訊いちゃって……」
だが、今度は三蔵が悟空の言葉に怪訝な顔をする。
「……お前に誕生日の事を訊かれた覚えはないが」
「え? でも……」
確かに先程三蔵が教えてくれた事を、どこかで聞いた気がするのだ。
ずっと前だった気がするが、誰に教えてもらったのかは思い出せない。
三蔵じゃないなら、一体いつ、誰に教えてもらったのだろう。
思い出そうとしてみても、靄がかかったみたいに霞んでその先にあるものが見えない。
その事が歯がゆくて、何故だか胸が痛くて泣きたいような気持ちになる。
「……悟空」
「あ、ごめん、俺、なんか勘違いしてたのかも……」
三蔵の眉が不機嫌そうに顰められるのに焦って、悟空はそこで思い出そうとする事を止めて話を戻した。
「えっと、それなら俺の『たんじょうび』は、俺の生まれた日って事だよな」
「そうだな」
「……でも、だったら俺、自分の『たんじょうび』って分かんないや」
岩牢に閉じ込められる前の記憶がない悟空には、自分がいつ生まれたのか分からない。
分からないのだから、祝おうにも祝いようがない。
それは仕方のない事だが、やはり少しだけ寂しくなってしまう。
笑ったつもりだったのが失敗したのか、三蔵の手が悟空の頭に軽く乗せられる。
「自分の誕生日なんざ、俺だって知らねえよ。大した事じゃねえんだから、いちいちしょげるな」
「うん……そうだよな」
「……そんな事より、どれ買うか決まったのか。さっさとしねえと気が変わるぞ」
「えっ! 待って、今決めるから!」
悟空は慌ててお好み焼きのメニューに視線を戻す。
結局豚玉を買ってもらい、悟空は三蔵とその店を後にした。
その後は、主には食べ物を買ってもらいつつ街を色々歩いて回った。
誕生日の事が気にかからなかったというと嘘になるが、三蔵と一緒に街を歩いていると楽しくて、悟空も自然とその事を忘れていった。
日も大分暮れてから、三蔵と悟空は寺院に戻った。
夕食をとった後、ふと悟空は三蔵の姿が見当たらない事に気がついた。
私室にも寝室にも執務室にもその姿はなく、悟空は急に不安になって寺院内を探し回った。
三蔵の姿が見えないと、悟空は途端に不安になるのだ。
まだ寺院にやってきて2年足らずしか経っていない事もあって、悟空にとって頼れるのは三蔵しかいない。
三蔵がいないと、悟空の居場所が消えてなくなる気がして酷く怖くなる。
「三蔵……」
悟空は小さく呟くと、再び寺院内を探し始めた。
あちこち探し回っても見つからず、小姓に聞いてようやく三蔵が寺院外に出かけた事を知った。
だが、追って行こうにも三蔵がどこに向かったのか分からない。
もう既に日も落ちている今、闇雲に探して見つかる可能性は0に近い。
それでも悟空はじっとしていられずに外に出ようとしたのだが、門のところで止められてしまった。
三蔵が、悟空が外に出ようとしても出すなと言いつけて行ったらしかった。
悟空なら見張りの僧達をかわして出て行く事は簡単に出来るのだが、三蔵が出るなと言っているのを無視してしまう事は出来なかった。
仕方なく三蔵の私室へと戻った悟空は、三蔵がいつも使っている椅子に座る。
床に届かない足をブラブラさせながら、悟空は両手を目の前のデスクの上で組んで頭を乗せる。
しんと静まり返った室内には、掛時計が時間を刻む音しか聞こえない。
余りにも静かすぎて、まるで世界中に悟空しかいないような錯覚に囚われる。
──あの岩牢にいた頃のように。
いつのまにかブラブラさせていた足が止まり、代わりに全身が小さく震え始めた。
今、悟空の傍には誰もいない。
悟空を『悟空』と呼んでくれる人がいない。
「……早く帰ってきてよぉ、三蔵……」
泣きそうな声で呟いた後、悟空の脳裏に考えたくない言葉が浮かんだ。
もし、帰ってきてくれなかったら?
そんなわけないと思っても、その言葉が何度も悟空の頭を過っていく。
今までどこかに出かける時は、例え一言でも声をかけてくれていたのに。
こんな風に、悟空に何も言わずに1人置いたまま寺院を出る事なんてなかったのに。
なのに、どうして今日は黙って出て行ってしまったのだろう。
その疑問が、もう悟空の事なんてどうでもいいのではないかという恐怖に変わる。
「三蔵……三蔵ぉ……」
俯いて組んだ腕に顔を埋めた悟空の目に、徐々に涙が滲んでくる。
1人でいる事が怖かった。
岩牢で、孤独がじわじわと心を侵食していった感覚が再び甦る。
その時、小さくだが聞こえた足音に悟空は勢い良く顔を上げた。
その足音は、ゆっくりと、だが確実にこの部屋に向かってくる。
悟空は椅子から下りてじっとドアを凝視する。
足音はこの部屋の前で止まり、カチャリとドアノブが回された。
「三蔵!」
ドアを開けて現れたその人に、悟空は思いきり走り寄って飛びついた。
「なっ!?」
いきなり飛びつかれるとは思っていなかったのか、三蔵は1、2歩後ろによろけた。
「三蔵、三蔵……!」
「いきなりタックルかましてんじゃねえ、バカ猿! ……おい、どうした?」
突然の事に咄嗟に怒鳴りながらも、悟空の様子の変化に気付いたらしい三蔵の声が若干だが真剣味を帯びる。
「もう……帰ってこなかったらどうしようって……」
「は? そんなわけねえだろうが。何がどうしてそうなるんだ」
「だって、今まで黙って外に出てくなんてなかったじゃんか……。だから俺……置いてかれたのかなって……」
言いながら、悟空は三蔵にしがみつく手に更に力を込める。
「……バカ猿。てめえみてえなバカ、危なっかしくて置いていけるか」
「そんなバカバカ言うなよ! 俺は本気で……」
「だからバカだっつってんだよ。理由くらい多少は推測しろ」
「理由って何だよ……」
「それが知りたきゃ一旦離れろ。ったく、さっきのショックで壊れてても知らねえからな」
「壊れる? 何が?」
悟空は三蔵の言葉の意味が分からず、とりあえずずっと抱きついていた身体を離した。
さっきは三蔵の姿を見るなり走っていったので気付かなかったが、三蔵の手には何やら取っ手付きの白い箱が握られている。
それの正体を考えてみるが皆目分からず、悟空は素直に三蔵に尋ねてみた。
「その箱、何?」
悟空の質問には答えず、三蔵は黙って部屋の中に歩いていくとデスクの上にその箱を置いた。
そして、箱を開けてゆっくりと横から中身を取り出した。
中から出てきたものに、悟空は驚いてしまった。
「……これ……ケーキ……?」
「饅頭にでも見えるのか?」
「そうじゃなくて! 何で……?」
悟空には、どうして三蔵がケーキなどを買ってきたのか、それが分からない。
「何でも何もあるか。バースデーケーキだ」
「ばーすでー?」
「……バースデーってのは誕生日の事だ」
「『たんじょうび』のケーキ? 誰の『たんじょうび』なの? ひょっとして三蔵?」
「バカ猿……。何が悲しくて自分のバースデーケーキを自分で買いに行かなきゃならん」
脱力したように三蔵はため息をつくと、言葉を付け足した。
「……お前のバースデーケーキだ。話の流れで分かれ」
「俺!? で、でも、俺は『たんじょうび』なんて……」
「4月5日」
「え?」
「お前の誕生日は4月5日。つまり今日だ」
「ど、どうして三蔵が知ってるの?」
何が何だか分からないまま、悟空の頭の周りにはクエスチョンマークが散らばっている。
「知るわけねえだろ。俺が決めた」
「決めたって……何で今日なんだよ?」
「俺が五行山でお前を見つけた……それが4月5日だ」
思いもかけない返答に、悟空は零れんばかりに目を見開いた。
「お前が岩牢を出て外に踏み出した日だ。今のお前が生まれた日……だから誕生日だ。……不服か?」
悟空を見つめる三蔵の目は、思いの外真剣なものだった。
決して思いつきではなく、きちんと考えてくれたのだろう。
何より悟空には、三蔵があの出逢った日を覚えていてくれた事が嬉しかった。
「ううん! 俺、すっげえ嬉しい! ありがとう、三蔵!」
そう言うと、悟空は再び三蔵に抱きついた。
頭に三蔵の手の感触を感じて、嬉しくて頬を摺り寄せる。
あの三蔵が悟空のためにと、バースデーケーキを買いにわざわざ街に出かけてくれた。
その事だけで、暖かい灯が悟空の心の中に灯るような気がする。
さっき見たケーキには、小さくだがチョコレートで出来たプレートに悟空の名前が入れられていて、何だかそれがくすぐったかった。
同時に三蔵が悟空の名前入りのケーキをあの仏頂面で注文する姿が少し可笑しくて、クスクスと笑い声が漏れてしまう。
「……何だ」
悟空が笑った理由に勘付いているのか、三蔵のムッとしたような声が頭上から降ってきた。
「何でもない。……俺、幸せだなーって思って」
「この俺が連れ出してやったんだ。当然だな」
「何だよ、それ、すっげえ自信ー」
言いながら、悟空は更に声を立てて笑った。
ケーキに12本のロウソクを立て、1本ずつ三蔵がライターで火を灯していく。
「これを吹き消すの?」
「ああ。……勢い余って顔突っ込むなよ」
「いくら何でもそんな事するわけないじゃんっ」
「どうだかな」
ふふん、と笑う三蔵を軽く睨みながら、悟空は炎を揺らめかせるロウソクに顔を近付ける。
さっきまでの不安や恐怖が嘘のように消えていく。
あんなに震えるほど怖かったのに、今は胸の中が暖かくて心地良い。
その暖かさをくれた人が傍にいてくれる限り、自分は大丈夫だと思う。
初めての『たんじょうび』。
出来る事なら、ずっとずっと一緒の『たんじょうび』を過ごせますように。
そう願って、悟空はロウソクの炎を一気に吹き消した。
END
後書き。
ちょっと時間を遡って、寺院時代の2人です。
まだ八戒や悟浄とも出会っていなかった頃の、2人だけの初めての誕生日。
しかし三蔵様はケーキ買う時、一体どんな顔で「……名前を入れてくれ」とか言ったんでしょうねー。
さぞ照れていたかと思うんですが、照れすぎて物凄い不機嫌顔になって店員さんを怯えさせてそう。
悟空にとっては、辛い思いもしたけど幸せな誕生日であったと思います。
例えこの1話の内に何回「バカ猿」呼ばわりされたか分からなくても(笑)