おやすみ



日もすっかり暮れ、辺りが暗闇に覆われ始める。
未だ終わらぬ書類に走らせている筆を一旦止め、三蔵は背凭れに身体を預けた。
時計を見ると、あと10分ほどで日付が変わる時刻だった。
どうも今日中に私室には戻れそうにもない。

悟空は、どうしているだろうか。
普通なら、この時間なら確実に眠ってしまっている。
だが、三蔵が忙しく、なかなか悟空に時間を割いてやれない日が続くせいか、ここ最近は三蔵が戻ってくるまで寝ずに待っている事が非常に多い。
今日もまた、無理をして目を擦りながら懸命に起きているのかもしれない。

そんな事を考えてしまうこと自体、以前の三蔵からは信じられない事だろう。
自分が、あんな小猿の事を仕事の手が止まるほど気にしている。
拾ってきた当初は、ただの責任感から面倒を見ているハズだったのに。

悟空も最初の頃は、ひたすら三蔵に纏わりついていた。
あんまり離れないので、何度か怒鳴ってしまった事もある。
……もちろん、後悔をしたのは当然だが。
しかしこの頃は、悟空は三蔵にワガママを余り言わなくなった。
三蔵が忙しいと言えば、おとなしく引き下がり、部屋で待っている。
それは三蔵にとってありがたい事であるはずだ。
だがどこかで、あっさりとした引き方に不快感を隠せない自分がいる。

三蔵は筆を置いて椅子から立つ。
どうせこの調子では、終わりそうにもない。
本当なら今日中に終わらせておきたかったのだが、仕方がない。
明日、早めに来て済ませればいいだろう。
そう結論を出し、三蔵は執務室を出て私室のある方へと歩き出した。




「三蔵、まだ終わんないのかな……」
悟空は、今にも閉じそうな瞼を擦りながら時計を見る。
時刻は日付が変わる10分前。
こんな時間まで起きている事は、悟空にとってはかなりキツイ。
でも、三蔵はもっと大変なのだ。こんな遅くまでずっと仕事をしているのだから。

三蔵に連れられて寺院に来た頃は、三蔵の仕事なんてよく分からなかった。
いや、今もよく分からないのだが、相当忙しい事は分かる。
自分を連れてきた事で、三蔵の立場が悪くなっている事も。
三蔵はそんな事気にしていないみたいだけど、悟空はそれがイヤだった。
悟空が何か問題を起こす度に、三蔵まで悪く言われる事が。

だから、なるべく大人しく、良い子にしていようと思った。
三蔵が忙しいなら、部屋で三蔵の帰りを待つ事にした。
今までみたいに執務室まで押し掛けて、仕事の邪魔はしちゃいけないと思った。

それは、思ったよりもずっと大変な事だったけれど。
何度、執務室に続く廊下を走りそうになったか分からないけれど。
三蔵の邪魔になって、嫌われるくらいなら……我慢できた。


……足音が聞こえた。
だんだんと、近付いてくる足音。
悟空の顔から眠気が消え失せ、代わりにパァッと笑顔が浮かぶ。
こんな時間、この部屋に近付いてくる足音の主なんて考えるまでもなかった。

ドアが開いた瞬間に、悟空は駆け寄り、予想通りの人物に思い切り抱き付く。
抱き付くと言うよりタックルと言った方が正しいその勢いに、足音の主──三蔵は後ろに一歩よろけた。
さすがにいきなり飛び付いてくるとは思ってなかったので、ハリセンを出す事すら忘れてしまう。

「なっ……! いきなり飛び付くんじゃねえ!」
三蔵は、未だギュッと抱き付いている悟空の頭を押し返す。
「……あ。ごめん……」
三蔵から手を離し、気落ちしたように下を向く。
三蔵のこの行動は、第三者から見れば明らかに照れ隠しなのだが悟空にそれが分かるはずもない。

さっきのタックルで廊下に出てしまった三蔵は、悟空の頭をクシャリと撫でてやりつつ
悟空を促して部屋の中に入り、ドアを閉める。
寝室へのドアに向かいながら、悟空を振り返り声を掛ける。
「何でこんな時間まで起きてやがんだ。ただでさえ、朝起きれねえくせに」
答えの分かりきっている質問を、何故あえてしているのか。
三蔵自身、そう思わないでもない。
もしかしたら、言わせたかったのかもしれない。悟空自身に。

悟空はもちろんそんな事にまで気付かず、キョトンとした顔をしている。
「え、だって、ここんとこ三蔵ずっと忙しいし……メシも別々で……。
 だから、せめて三蔵が帰ってきた時には俺、迎えたくて……」
少しでも、会って話が出来る時間を作りたくて。
閉じそうになる瞼を懸命に開いて、三蔵の帰りを待っていた。

それでも、三蔵の仕事の邪魔をすまいと、寂しくても1人で耐えていた。
正直、三蔵もここまで悟空が我慢強いとは思っていなかった。
執務室に来なくなった当初は、何日ももたないだろうと踏んでいたのだ。
しかし、1ヶ月経った今も、それは続いている。
それはきっと、悟空の三蔵への想いの深さの証明。

「……悟空」
三蔵はポンと悟空の頭に手を置いた。
「明日は昼までに切り上げてきてやる。それまでにどこか行く場所考えとけ」
全く予想外の三蔵の言葉に、悟空は咄嗟に返事が出来ずに目をパチクリと見開いている。

「行きたくねえなら、スケジュール戻すぞ」
「行く! 絶対行く!……でも……」
「何だ」
「仕事、大丈夫なの……?」
「何のために俺がこんな時間まで仕事してたと思ってやがる」
今日中に終わっていれば明日は丸々休みが取れただろうが、時間を空けられただけでも上等だ。
何しろ、ここ最近の仕事量は膨大なのである。


「三蔵、もしかして……俺のために遅くまでかかって……?」
三蔵が、悟空との時間を取るために夜中まで仕事をして、時間を空けてくれている。
その事が、悟空は嬉しくてたまらなかった。
三蔵が悟空の事を考えてくれている、その事が。

悟空は、その嬉しい気持ちのままに三蔵に再び抱き付く。
今度は三蔵も予想していたらしく、悟空を押し返したりはしなかった。
「三蔵、ありがと! へへ……、明日、絶対だかんな!」
「ああ。ちゃんと場所、考えとけよ」
「うん!」
悟空は顔を上げ、花が開いたような笑顔で三蔵に笑いかける。
その笑顔が、仕事で疲れている三蔵を癒してくれる。
きっと、悟空本人にそんな自覚は全くないだろうが。

三蔵がそんな思いで悟空を見ていると、間近にある悟空の目がまた驚きに見開かれた。
「……? どうした、悟空」
「……ううん、何でもない!」
そう言って、悟空は顔を三蔵の胸に埋める。
三蔵は訝しげな表情を浮かべたが、特にそれ以上追求はしなかった。


今、ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけだったけど。
三蔵が、笑った。
悟空は、嬉しすぎてどうにかなりそうだった。
あの三蔵が、ほんの少しだけでも、あんなに優しい瞳で笑ってくれた。
きっと、三蔵自身気付いていないほどの笑みだったけど。
三蔵の笑みが、今、自分だけに向けられたものである事がどうしようもなく嬉しかった。

悟空はますます強く三蔵にしがみついている。
イヤなわけでは決してないが、いつまでもこのまま突っ立ているわけにもいかない。
「おい、悟空。そろそろ寝るから離せ」
「えー……、もうちょっとぉ」
いつの間にこんな可愛らしいねだり方を覚えたのか。
「……さっさと休まねえと、明日、俺が仕事から戻る時間が遅れるだけだぞ」
「あ、それはヤだ!」
悟空はパッと、しかし名残惜しそうに三蔵から手を離す。

「俺は風呂入ってから寝るから、お前は先に寝てろ」
三蔵は悟空を寝室に行かせて、風呂に向かった。
こんな時間になっては面倒なのだが、入らずに寝るのも気持ち悪い。
戻ってくる頃には、悟空ももう夢の中だろう。



風呂から出て寝室に入ると、悟空は三蔵のベッドの横に敷いた自分の布団の上にチョコンと座り込んでいた。
「あ、三蔵、おかえり!」
風呂に入っていただけで『おかえり』も何もないと思うのだが、そんな事よりも。
「先に寝てろって言っただろ」
「うん、でも言いたい事があったから」
「……言いたい事? 何だ」
「言うから、ベッド入って横になって?」
どういう事か分からない三蔵だが、悟空に引っ張られるままにベッドに連れて来られる。
そのままベッドに入り、横になる。

冷静に見てみれば、これはかなり珍しい光景だ。
三蔵がベッドに横になり、悟空がベッドの傍らに膝をついている。
三蔵が悟空より先に寝る事もなければ、後に起きる事もないのだから。

「……で? 言いたい事ってのは何だ」
「んー……、うん……」
悟空はどこか照れたように自分の頬を人差し指でなぞっている。
そして、その指で三蔵の前髪に触れて、一言呟く。



「三蔵……おやすみ」



悟空が、いつも言いたいと思ってた事。
悟空自身が寝る前には、何度も言った事がある。
でも、今夜はどうしても、三蔵が眠りに入るその前に三蔵に言いたかった。
自分のためにこんな遅くまで仕事をして、疲れて帰ってきた三蔵のために。


今度は三蔵が、驚きを隠せずに少し目を見開く。
そして、悟空の思いを察し、一言返す。



「……ああ、おやすみ」




明日のために、疲れている今日を癒すために、今は、おやすみなさい。

悟空が眠ったその後。







END








後書き。

とにかく「甘甘ほのぼの」をテーマに書き上げました。
が、書いてる途中で砂吐くかと思いました……っつーか、吐きました、砂(笑)
ラストシーンが書きたくて、出来あがったようなものなんですよねぇ、これ……。
お互いへの「おやすみ」。なんか好きなんですよv
今回、久し振りにオマケ付です。
どこに入れるか、相当悩みました。……オマケ入れる余地がなかなか見付からなくて。
で、結局「その後」にしました。途中にはどうしても入らなかったんですよ……(涙)




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