開け放した窓から少し肌寒い風が吹き込んでくる。
八戒はその風を身体に感じると、大きく伸びをした。
まだ朝早く、宿の前の通りを見下ろしても人通りはまばらだ。
普段寝起きの悪い八戒にしては珍しく、今日は気持ちの良い朝だった。
その原因は、3日ほど前に遡る。
小さな町の宿に泊まった時の事だ。
部屋で荷物の整理をしていた八戒のところに、悟空がやってきた。
そして、こう言ったのだ。
3日後の八戒の誕生日をお祝いしたいから、その日は街に泊まれるようにしてほしい、と。
本当は内緒にして当日驚かせたかったそうだが、街に泊まれないと意味がないので予定を管理している八戒に言いに来たらしい。
もちろん、八戒に異論があるはずもない。悟空が誕生日を祝ってくれるというのだから。
八戒が了承すると、悟空は嬉しそうに笑いながらこう付け加えた。
「プレゼント用意するから、楽しみにしててくれよな」
そう言って悟空が部屋を出て行った後、八戒は頬の緩みを抑えるのが大変だった。
部屋に1人だけなのだから特に抑える必要がないといえばそうなのだが、さすがに1人でニヤついているのはとても怪しい。
しかし、嬉しい気持ちはどんどんと湧き上がり、結局その日から八戒はずっと上機嫌だった。
そして今日、八戒の誕生日を迎える。
一体悟空がどんなプレゼントを用意してくれているのか、それが楽しみで仕方がない。
もちろん悟空が八戒のために用意してくれたものなら何でも嬉しいのだが、悟空がどんなものを選ぶのか興味をそそられるのも事実だ。
悟空の事だから食べ物だろうか。それとも、以前のように八戒を気遣ったものを一生懸命選んでくれているんだろうか。
普段なら朝は起きてしばらく頭が働かないのだが、今日はやけに頭がすっきりと冴えている。
それほど浮かれている自分に少々苦笑するが、そんな自分が嫌ではなく、むしろ嬉しかった。
朝食を済ませた後、八戒は悟空に宿を追い出されてしまった。
色々準備をするから、夕方まで街で遊んでいてほしい、と。
それなら買い出しをしようかと思ったものの、買い出しは三蔵と悟浄がするからいい、と言う。
普段なら2人とも確実に嫌がる……というか今日もはっきりきっぱり嫌がっていたのだが、悟空が「八戒の誕生日なのだから」といつになく表情と態度に迫力を滲ませて押し切ってしまった。
出掛けに三蔵が「変なところばかり似てきやがって……」などと呟いているのが聞こえたが、それは聞こえないフリをした。
それで出てきたはいいものの、何もする事もなくぶらぶらと歩くばかりだ。
遊べと言われても、悟浄ならともかく普段から本を読むくらいしか娯楽を楽しむといった事がない八戒は、余りこういった時の楽しみ方を知らない。
せいぜい、お茶を飲んだり雑貨店や本屋を見て回ったりするくらいだ。
ひとまず八戒は近くの店に入り、お茶を飲む事にした。
運ばれてきた紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
考えてみれば、こうしてゆっくりと過ごすのも久し振りかもしれない。
静かに紅茶を飲みながら、八戒は店の外に目をやった。
通りではたくさんの人々が、忙しなく、あるいはのんびりと往来している。
きっと今日の自分は、たった今目にしている人々の誰よりも幸せだろうと思う。
大切な人が、自分のために誕生日を祝おうと頑張ってくれている。
どういう準備をしているのかは知らないが、きっと一生懸命になってやっているだろう悟空を想像して、八戒は軽く笑う。
早く、夕方になればいい。
こうして1人で静かに過ごすのもいいが、やはり誰よりも悟空と一緒にいたかった。
日が傾き始めた頃、そろそろいいかと宿に戻った。
すると、丁度三蔵と悟浄が宿を出ようとしていたところだった。
「おや、2人とも出掛けるんですか?」
そう尋ねた八戒に、三蔵と悟浄は軽く顔を見合わせた。
「おお。小猿ちゃんがお前のためだけに用意したもんだしな。俺らからの祝いは後で、な」
片目を閉じてそう告げると、悟浄は三蔵と共に宿を出て行ってしまった。
2人を見送った後、八戒は悟空の部屋へ向かうべく階段を上る。
『用意した』と言っていたから、もう既に準備は終わっているのだろう。
階段を1段上るごとに、気分が高揚していくのを感じる。
ワクワクする、という言葉が1番ふさわしいだろうか。
まるで子供のようにドキドキしているのが、自分でもよく分かった。
1つ息をついてから、ドアをノックする。
すると、すぐさまドアが開かれ、悟空が顔を出した。
「お帰り、八戒!」
笑顔でそう告げると、悟空は八戒の腕を引っ張って部屋の中に招き入れた。
予想しなかった光景が目の前に現れ、八戒は一瞬何の反応も出来ずに立ち尽くしてしまった。
八戒の目の前にあるのは……大きめのテーブルいっぱいに並んだ料理の数々。
中央にケーキ、その周りにはお菓子や様々な料理などが並んでいる。
「これは……」
テーブルに歩み寄りながら呟くと、悟空は八戒の後を追うようにして隣に立った。
「へへ、凄いだろ? 宿の人に教えてもらって俺が作ったんだ!」
「悟空が?」
八戒は思わず訊き返し、目の前の料理をまじまじと見つめた。
確かに宿で出されたものにしては、形が崩れていたり少々焦げてしまっていたりしたものが多い。
しかし、まさか悟空がこれだけのものを作るなんて思ってもみなかった。
八戒の驚きように満足したらしい悟空は、嬉しそうにテーブルの向こうに回り込む。
「ほら、これとか結構上手く出来てると思わねえ? ちょっと見栄え悪いのもあるけどさ」
料理をいくつか指差しながらはしゃいだように話す悟空に、八戒の表情が一段と優しくなる。
「本当に凄いですよ、悟空。こんなにたくさん作るなんて大変だったんじゃないですか?」
「んー、ちょっと。でも、八戒に食べてもらうんだって思ったら楽しかった」
そう言って、悟空は少し照れたように笑った。
「誕生日くらいさ、いつも八戒が作ってくれるみたいに俺も八戒に何か作ってあげたいなって思って」
そこまで一気に話すと一瞬悟空の言葉が途切れ、その顔に不安そうな表情が浮かぶ。
「……八戒みたいに上手く出来なくて、味も美味いか分かんねえけど……」
僅かに俯いたその表情に、八戒は考えるより先に身体が動いた。
俯いたままの悟空を、八戒は腕の中に抱きしめた。
自分のために、慣れない料理を頑張ってくれた。手にたくさんの切り傷まで作って。
そんな悟空を、心から愛しいと思う。
悟空を好きになって本当に良かったと、心底思えた。
「ありがとうございます、悟空。こんなにも目の前の料理を今すぐ食べたいと思ったのは初めてですよ」
抱きしめたまま囁く八戒の腕の中で、悟空はくすぐったいような笑顔を浮かべた。
「なあなあ八戒、食べてみてよ」
期待半分、不安半分といった様子で、悟空は八戒に料理を勧めた。
1番最初は八戒に食べてもらいたいのだろう、普段ならすぐに料理に手をつける悟空がじっと我慢している。
両手をグッと握りしめて身を乗り出す悟空に軽く笑いながら、八戒は箸を手に取った。
「それじゃあ、まずはこれから頂きますね」
すぐ目の前にある八宝菜を口にして────八戒はその場で硬直した。
その体勢のまま、だらだらと大量の汗を流す。
全く予想していなかったわけではないのだが、予想を越える衝撃的な味である。
一口食べたまま動きの止まった八戒に、悟空は不安そうな視線を向けた。
「八戒、どう? やっぱり……不味い?」
途端に花が萎れるように表情を曇らせた悟空に、八戒は我に返って慌てて否定した。
「そんな事ないですよ! ……こっちの方も食べていいですか?」
そう言って少し覚悟しつつ麻婆豆腐を食べてみると、こちらは普通に美味しかった。
他の料理も味見してみたが、どれも普通の味だった。
という事は、形容しがたい味になっているのはこの八宝菜だけらしい。
途中で調味料を間違えたのだろうか……と考えつつも、とりあえず1品だけだった事に安心する。
その事に一息つくと、八戒は未だ不安そうな顔をしている悟空を安心させるべく笑顔を向けた。
「とても美味しいですよ、悟空」
「……本当?」
「もちろんです。悟空も食べてみて下さい」
そう言って、八戒は麻婆豆腐を差し出す。
差し出された麻婆豆腐を食べて、悟空もやっと安心したようだ。
「良かったー。八戒が一瞬止まっちゃうから、すっげえ不味かったのかと思っちゃった」
「いえ、余りに美味しかったものですから。……この八宝菜、僕が全部食べちゃっていいですか?」
「うん! 八戒のために作ったんだし、当たり前じゃん!」
その返事に、八戒は内心ホッとした。
折角悟空が八戒のために作ってくれたのに、この八宝菜の味を知ってしまったら確実に悟空は落ち込むだろう。
悟空のそんな顔は見たくない。
味がどうであれ、悟空が作ってくれた、それだけで八戒にとっては十分にご馳走なのだから。
目の前にある料理は、悟空の自分への愛情の証。
そう思うと、例えどんな出来映えのものでも他の誰にも食べさせたくない。
三蔵にも、悟浄にも。
今ここにある料理も、この時間も、全部八戒と悟空だけのものだ。
こうして誕生日を悟空と2人で過ごせる事が、何よりも嬉しい。
自分の生を疎んじた事もあるけれど、今は生きている事に感謝できる。
生まれてきた事に。そして、悟空と出逢えた事に。
八戒は手を引いて悟空の身体を自分の方へと寄せ、悟空の頬に触れる程度のキスをした。
「は、八戒!?」
「料理のお礼ですよ」
赤くなってうろたえる悟空に、八戒は優しい笑みを浮かべた。
今この瞬間、悟空を独り占めしている事にこれ以上ない幸せを感じながら。
後書き。
八戒の誕生日である以上、八戒に幸せな時間を過ごして頂きたいのは当然。