あの会見の日から5日。
未だ、天蓬の出した要求をこなしたという知らせは届いていません。
悟空は彼ら5人を心配すると共に、少し安心しておりました。
悟空にとっては、まだ『結婚』などというものは遠いものでしかないのです。
あの5人の事は嫌いではありませんが、求婚は困ってしまうのです。
そんな事を徒然と考えておりますと、困った事にどんどん目が冴えて参ります。
いつまでも寝付く事が出来ず、悟空は窓をそっと開けました。
そこからは柔らかく、そして何処か懐かしい月の光が降り注いで参ります。
どうせ寝付けぬのなら、と、悟空は薄い着物を上に羽織って外に出ました。
金蝉を起こさないように気を付けながら外に出た悟空は、辺りを散歩する事にしました。
夜風が肌に心地良く、少し小高くなっている場所まで歩いていきます。
そしてそこで悟空は、ふっと空を見上げました。
そこには少し欠けた月が、辺りをうっすらと照らしております。
その欠けた月が、まるで自分の事のように悟空には思えました。
金蝉も天蓬も捲簾も、とても悟空を可愛がり、大切にしてくれています。
愛されている事を感じていても、何故だか満たされない思いがあるのです。
それが何故なのか分からないまま、悟空はずっと月を見上げておりました。
一方、帝である三蔵は泊まっている宿からこっそり抜け出しておりました。
いつもいつもお付きの女官だの従者達だのに付いてまわられ、三蔵はうんざりしていたのです。
それは狩りに赴いた今日とて同じで、そろそろ我慢も限界です。
故に、こうして夜中に宿を抜け出し、一人の時間を満喫しているのでありました。
少しの時間であるなら、のんびりした従者達に気付かれる事もないでしょう。
三蔵は月の光に誘われるまま、土地勘のない道をあてもなく歩いておりました。
どれくらい歩いたでしょうか。
三蔵は、緩やかな丘陵になっている場所に人影を見つけました。
都ならばともかく、ここは遠く離れた田舎です。
こんな真夜中に人が出歩いているのは、とても珍しい事です。
三蔵は折角の一人の時間を邪魔されたくないと、歩く方向を変えようとしました。
その時、地面に落ちていた木の枝を踏んでしまったらしく、パキリという音をたててしまいました。
そんな小さな音でも、他には風の音と虫の静かな声しかない空間では良く響きました。
人影の方もまさかこんな時間に人がいるとは思わなかったのか、その影が驚いたように振り向きました。
その時、真っ先に目に入ったのは、美しい金色の双眸でした。
三蔵は、息をする事すら忘れそうなほど、その瞳に意識を奪われました。
月を背にし、逆光であるにも関わらず、その瞳はまるで自ら輝いているかのような鮮やかさです。
身につけている着物は決して高いものとは言えませんでしたが、三蔵には今まで見たどの姫よりも美しく輝いて見えました。
そうして、三蔵は理由もなく悟ったのです。
……今、目の前にいる姫こそが、『かぐや姫』なのだと。
悟空は、突然現れた青年に酷く戸惑っておりました。
木の枝を踏む音が聞こえ、最初は金蝉が悟空がいない事に気付いて捜しにきたかと思ったのです。
そうして振り向いたら、そこにいたのは予想とは違った人物。
それだけならば、悟空はすぐにその人物に興味を失ってしまっていたでしょう。
しかし、振り向いて目の前に現れたのは、夜空に輝く月のように眩い金色でした。
悟空はその美しい金糸の髪に、目を奪われてしまったのです。
お互いがその目を釘付けにされ、沈黙がおり、行動が止まったのはほんの一瞬。
すぐさま三蔵は目の前にいる姫へと足を進めました。
悟空の方はというと、戸惑いながらもその場から立ち去る気にもなれずに立ち尽くしておりました。
両者の距離がほんの1メートルほどになったところで、三蔵は足を止めました。
「……お前……名は?」
「……悟空……」
その名を聞いた時、三蔵はやはりと思いました。
確か八百鼡からかぐや姫の話を聞かされた時、その名を聞いた覚えがあったのです。
「悟空……か。良い名だな」
三蔵はそう言うと、左手でそっと悟空の右手をとりました。
今まで色事に関わりがなかった割に、手が早い事この上ありません。
そして悟空も、何故だかその手を振り払う気になれない自分が不思議でなりませんでした。
金蝉はもとより、天蓬や捲簾も家族のようなもの。
彼ら以外から触れられた事などなく、心音がどんどん早くなっていきます。
それでも、その手の暖かさが心地良いような気がしてきてしまうのです。
悟空は顔を赤らめながらも、さっきからの疑問をようやく口に乗せました。
「あ、あんたは……? 誰……?」
そう訊かれ、三蔵は自分が名乗っていない事に気付きました。
「俺は、三蔵だ。玄奘三蔵」
「三蔵……」
確認するように悟空が三蔵の名を呟いた時、三蔵の手の力が少し強まりました。
悟空に名を呼ばれた事が、思いの外三蔵の中に響いたのです。
名を呼ばれただけで何故これほど心が波立つのかと、三蔵は目の前の姫を見つめます。
お互いに視線を外せず、そしてどんな言葉を発せばいいのかも分からぬまま時間だけが流れます。
何か、何かを言わなければ、と二人は言葉を探しました。
そして、三蔵の口が開かれようとした、その時。
「三蔵様ー! いずこにいらっしゃいますー!」
遠くから聞こえた声に、三蔵はハッと振り向きました。
どうやら、宿を抜け出した事がバレてしまったようです。何人もの侍女や侍従の声が聞こえます。
そしてただでさえ目立つ金色の髪は、この見晴らしの良い場所ではすぐに見付かってしまいます。
三蔵は握ったままだった悟空の手をすっと離すと、悟空に小さな声で囁きました。
「……悟空、早くこの場から去った方がいい。アイツらに見咎められたら厄介な事になる」
帝である三蔵が狩りにかこつけて女と密会していたとなれば、それは大きなスキャンダルとも言えるでしょう。
大貴族の姫君ならともかく、悟空は都で噂になっているほどの美しい姫といえども何の位もない一介の竹取の娘なのです。
実際は偶然出逢っただけでも、三蔵を良く思わない貴族達によって歪められた噂が流れるでしょう。
三蔵自身は良いのです。そんな噂を気にするほど繊細な神経を持ち合わせてはおりません。
しかし、その噂が悟空を傷付ける事になるのは明白です。
それだけは、何としても避けたかったのです。
悟空には三蔵の考えている事が分かるはずなどなく、しかし悟空を気遣っての事である事はその声色から感じ取れました。
故に悟空は、その三蔵の言葉に従いました。
離れがたき思いが胸に残るまま、悟空は自分の家の方へと走り去って行きました。
その悟空の後姿が見えなくなるまで見送った後、三蔵はため息を一つ吐きました。
「……八百鼡のヤツ……どうせ気ぃ回すなら徹底しやがれってんだ……」
三蔵は、八百鼡が三蔵を悟空に逢わせるために狩場を変更した事を見抜いておりました。
といっても、気付いたのは悟空に出逢ってからなのでありますが。
日頃から三蔵に「正室を。でなければ、せめて側室を」と言い続けていた八百鼡の事です。
大方、『かぐや姫』になら三蔵が興味を持つのではないかと一計を案じたのでしょう。
結果として、それは成功したと言えます。三蔵の心は完全に捕らわれたのですから。
しかし、折角計画したのなら従者達を抑えておくくらいはして欲しいものだと、三蔵は思ってしまったのでありました。
「三蔵様! このようなところいらしたのですか!」
とうとう見付かってしまったらしく、数多い侍女の一人が声をあげると、他を探していた侍従達も集まってきました。
「三蔵様! ご無事だったのですね!」
「ああ、良かった。三蔵様にもしもの事があったらと、気が気ではありませんでした」
三蔵の姿を確認した侍従達は、ホッと息を吐きます。
もしここで三蔵に何かあれば、彼らは間違いなく責任を取らされ、事によっては死罪も有り得るのです。
心から三蔵を心配する者も多数いるのですが、もし三蔵が今の地位から追い落とされればあっさり寝返るであろう者も多いのです。
それ故に、三蔵は悟空を見られたくなかったのです。
もしも、姿を見せたのが八百鼡や独角、葉といった者達だけであるなら、三蔵は悟空の存在を隠しはしなかったでしょう。
「うるせえ。ガキじゃあるまいし、いちいち探しに出てくんじゃねえよ」
わらわらと寄ってくる侍従達にそう言い捨てると、三蔵は宿泊している宿へと歩き出しました。
吸い込まれるかのように美しい金色の双眸を、未だ心に焼き付けたまま……。
小さな音と共に、悟空は家の扉を開け、中に入りました。
「……何処に行ってたんだ」
突然聞こえた声に、悟空は心臓が止まるかと思うくらい驚きました。
「こ、金蝉っ……! お、起きてたの……!?」
「お前が起きて出ていってるのに、俺が呑気に寝てるとでも思ってるのか?」
「ご……ごめんなさい……。眠れなくて、散歩でもと思って……」
怒られると思ったのでしょう、悟空はシュンとなって俯いてしまいました。
「謝らなくていい。別に怒ってるわけじゃねえ」
「え……?」
「ただ、こんな夜中だ。田舎とはいえ、妙なヤツがいないとも限らねえ。
寝付けなくて外に出たい時は、俺を起こせ。散歩くらいなら付き合ってやるから」
「金蝉……」
悟空は驚いたように、金蝉を見つめました。
金蝉の瞳に怒りは浮かんでいません。そこに浮かぶのは、純粋な心配の色。
「……ごめんなさい、金蝉」
「謝らなくていいって言っただろう。約束だけしろ。夜中に一人では出歩くな」
「うん、分かった。約束する」
はっきりと約束すると言った悟空の頭を、金蝉はくしゃくしゃと撫でてやりました。
「外歩いて気が晴れたなら、そろそろ寝ろ」
「……うん、おやすみなさい、金蝉」
そう言うと、悟空は自分の寝室へと入っていきました。
しかし、いつまで経っても眠る事が出来ません。
目を閉じると瞼に浮かんでくるのは、あの月に照らされた金色の髪。
悟空は、左手で自分の右手にそっと触れました。
三蔵と名乗ったあの人が触れたその場所に、まだ温もりが残っているように感じてしまうのです。
もう逢えないのだろうかと、悟空は右手を見ながら思いを馳せます。
悟空が知っているのは、『三蔵』という名前だけです。
何処で何をしている人なのか、まるで知りません。
あの時遠くから聞こえた『三蔵様』という呼び方から察するに、身分の高い人なのでしょう。
「……逢いたい……」
どうしてそう思ってしまうのだろうと、悟空はぐるりと寝返りをうつと枕に顔を埋めました。
今まで感じた事のない、不可思議な感情が悟空の中で膨らんでいきます。
「分かんないよ……。何で、俺……」
逢いたい気持ちだけが募り、彼の人を想うたびに胸の辺りが苦しくなります。
でも、どれほど逢いたいと思っても、悟空に彼に会う術はありません。
様付けで呼ばれるほど身分の高い人など、この周辺に住んでいるわけがないのです。
都かその近くの大きな街からお忍びで来た人なのかもしれない、と悟空は考えました。
それが遠くであればあるほど、悟空にはどうしようもなくなります。
「もう逢えないなんて……ヤだよ……」
その姿はこんなにも目に焼き付いているのに、余りにも遠くて、悟空は枕をぎゅっと抱きしめました。
その夜、悟空は生まれて初めて全く眠れぬ夜を過ごしたのでありました。