桃源郷かぐや姫








あれから1ヶ月が経ちました。
三蔵は表面上はいつもと変わりなく帝として仕事をこなしておりました。
ですが、どんな時も心を掠めるのはかぐや姫の笑顔。
あの時、自分の気持ちを抑えて悟空を無理矢理連れ帰らなかったその自制心は、賞賛ものでありましょう。
実のところ、それをちょっとだけ後悔している三蔵でありますが、それでも悟空に嫌われてしまうよりは遥かにマシです。
少なくとも、悟空の心が自分に向いている事は確認できたのですから。

しかし、遠く離れて逢えない時間というものは、互いの心に寂しさを生むもの。
その寂しさに慣れてしまう……それが、一番怖い事でございます。
それ故に、三蔵は仕事の合間を縫っては文をしたため、悟空へ届けさせました。
悟空の心に、いつでも自分の存在が在り続けるように。
そして悟空からも、たどたどしい字ではありますが、返事が届きます。
その返事を読んでいる間、自分を取り巻く空気が柔らかくなっている事など、三蔵自身は気付かぬ事。
ですが、確実に三蔵は悟空との出逢いから変化していったのです。





そんな風に、何度文のやり取りを交わしたでしょう。
やり取りを重ねれば重ねるほど、お互いの逢いたさは募るばかりです。
悟空も、三蔵に逢いたい気持ちがどんどん自分の中で膨れ上がっていくのを感じておりました。
文の中の三蔵はとても優しく、自分を気遣ってくれます。
「いつか后として三蔵の元へ行く」と言った、その「いつか」に関しては全く触れる事はありません。
悟空を苦しませまいと、敢えて触れないようにしてくれているのでしょう。
その三蔵の心遣いが、却って悟空の心に痛みを与えているなどとは露ほども気付いていないのでしょうが。
三蔵が優しければ優しいほど、未だここを出て三蔵の元へ行く決心のつかない自分が歯がゆくなるのです。


「……悟空」
いつものように三蔵からの文を読んでいた悟空に、金蝉が声を掛けました。
悟空はパッと文を置いて、金蝉に精一杯の笑顔を向けました。
「どうしたの、金蝉? あ、薪が足りなくなったなら、俺、行ってくるから……」
「違う。そんな事じゃない」
「……金蝉……?」
いつもよりずっと真剣な表情をしている金蝉に、悟空もまた自然と表情が変わります。

金蝉は、暫く迷うように沈黙していましたが、やがて何かを決意したように口を開きました。
「悟空、お前は……本当はどうしたいんだ」
「ほ、本当はって……?」
「……帝の元へ嫁ぎたいのか?」
その核心をついた言葉は、悟空の心臓を跳ね上がらせるのに十分でした。

何も言えずにいる悟空の様子を見て、肯定と受け取った金蝉は悟空の前に座りました。
「……俺は正直、あの帝にお前を嫁がせるのは気が進まねえ。
 だが、お前があの帝が好きだというなら、それがお前の幸せだというなら……俺に遠慮だけはするな」
「金蝉……」
「お前の幸せを決められるのはお前だけだ。自分が本当に望む事をしろ」
この1ヶ月、三蔵の事を想って過ごしていた悟空をずっと金蝉は見続けてきたのです。
だからこそ、明るく振舞っている中で時折見せる寂しげな表情が金蝉にとっても辛かったのです。

ずっと大切に慈しんで、育ててきた娘。
本当なら、何処にもやりたくないのです。出来るなら、ずっと傍で見守ってゆきたいのです。
しかし、それは決して叶わぬ事。
いつかは巣立ち、新たな道を築き上げていくのを送り出すのも、育て親としての役目なのです。
どれほど辛くても、悟空が決めた道へ進むために背を押してやる事……それが金蝉に出来る最後の事でした。

悟空の瞳には、今にも零れそうな涙が溜まっています。
「こんぜ……」
涙で揺れる視界の中で寂しそうな金蝉の表情が見えて、悟空は金蝉に抱き付きました。
「金蝉、金蝉っ……!」
金蝉の背中の着物をぎゅっと握りしめて泣く悟空を、金蝉はゆっくりと撫でてやりました。
「……泣いてんじゃねえ。別に、二度と会えなくなるわけじゃねえだろ」
「だけど……」
この家と、帝のいる都とは余りに遠くて。
悟空が嫁いでいけば、なかなか会う事は叶わなくなるでしょう。
「今生の別れじゃねえ。会いたいと思えば、会いにも行ける。
 いくら遠くたって、繋がった地平の上にいるんだからな。そうだろう?」
「うん……そうだよな」
「帝の后になろうが、お前が俺の育てた娘である事に変わりはねえ。だから……」
「だから?」
「もし帝がイヤになったら、蹴り倒して帰って来い。ここはお前の家なんだからな」
思いの外真面目にそう言う金蝉に、悟空は涙がまだ乾かぬままに笑いました。
「はははっ……! 『蹴り倒して』かぁ。そんなコトしたら三蔵、怒るだろうなぁ。……ありがと、金蝉」
涙を浮かべたまま精一杯笑う悟空の髪をくしゃくしゃとかき回した金蝉の表情は、とても複雑そうでありました。





もう何通目かとも分からない悟空からの手紙をいつものように読み始めた三蔵は、ある一行に瞬きを忘れるほど見入りました。

『俺、三蔵の元へ行く決心がついた。だから、迎えに来て』

それを見た瞬間、三蔵はすぐさま立ち上がって八百鼡を呼びました。

「どうされましたか、三蔵様」
「……悟空を迎えに行く。手配をしろ」
「……! 分かりました!」
すぐさま答えると、八百鼡は急いで部屋を出て行きました。
本来ならば使者を送ってから数日置き、相手方にももっとゆっくり仕度をさせるのですが、三蔵もらしくなく気持ちが逸っているのでしょう。
仕度など身体一つでいい、一刻も早く自分の元へ来て欲しい、と。
今日、手配が出来次第すぐにでも悟空を迎えに行く事を三蔵はその場で決めたのです。

もちろん、今日手配が出来てからすぐに向かっても夜中になってしまいます。
さすがにそれは出来ないため、途中で宿に泊まり、翌朝悟空の家へと向かう事になります。
それでも、もうすぐなのです。もうすぐ、悟空をこの腕に抱きしめられるのです。
翌朝到着する旨を伝えるため今すぐ早馬で使者を送る必要がありますが、その辺は言わなくても八百鼡が手配するでしょう。
三蔵は姫を思いつつ、身支度を整えるべく部屋を出ました。





一方、まさか三蔵が文がついた今日いきなり向かおうとしているとは思っていない悟空は金蝉と普段通りに生活しておりました。
今日は天蓬や捲簾も遊びに来ておりました。
おそらく金蝉から悟空が帝の元に行く事を聞いたのでしょう。
もうこんな風に一緒に騒ぐ機会もないのかもしれない、そう思って今日はいつもよりずっと長い時間悟空と遊んでくれました。
そんな中、ずっと笑っていた天蓬がふと真剣な顔になりました。
「悟空……幸せに、なって下さいね」
「天ちゃん……」
「そうだぜ? 幸せになるのが、一番の孝行だ。俺達を喜ばせてくれよ」
「ケン兄ちゃん……。……うん、俺、絶対幸せになるから……」
涙で悟空の瞳が潤みそうになっているのを見て、捲簾は右腕で悟空の首を抱え込みました。
「ほらほら、これから幸せになろうってヤツがシケたツラしてんじゃねえぞ?」
左手で悟空の頭をグリグリしながら、捲簾は殊更明るく笑います。
そんな二人が悟空の幸せを願ってくれる事が、悟空はとても嬉しかったのです。
だからこそ、必ず幸せになると、そう強く思いました。


日が傾き、空がすっかり紅く染まった頃、一人の使者が金蝉達の元へ参りました。
それはもちろん、帝からの使者でございます。
三蔵が既にこちらに向かっている事を伝えると、金蝉はもちろん、悟空もとても驚きました。
「三蔵様は明日の朝、辰の刻にはご到着されるご予定でございます」
「辰の刻? ちょっと待て、まだ何も準備が……」
金蝉は些か急過ぎる迎えに、動揺しておりました。
「ご心配には及びませぬ。三蔵様は悟空姫の身一つで良いと仰っております。
 悟空様さえ来て下されば、他には何もいらぬと……」
「俺だけでいい……? 三蔵がそう言ってるの……?」
顔を真っ赤にしながら、悟空はその使者に尋ねました。
「はい。三蔵様はただ、貴方様だけをご所望しておられるのです」
その言葉に、悟空は赤い顔をますます紅潮させました。
あの三蔵が、他には何もいらない、自分だけを求めていると言うのです。
それを、嬉しいと思ってしまう自分を悟空は感じておりました。




使者が帰ってから、悟空は金蝉、それから今日は泊まるらしい天蓬、捲簾と夕食を取っておりました。
いつもの、何気ない夕食の風景。
それもきっと、今日が最後なのです。
努めて普段通りに笑いながら、何処か寂しい空気が過るのをその場の誰もが感じていたのです。






めっきり夜も更け、静かな空気の中にただ虫の声のみが小さく響いております。
悟空は布団に仰向けに寝転んだまま、天井を見上げておりました。
明日の朝には、三蔵がやってくるのです。
悟空は少し離れたところに敷いてある布団の中の金蝉の方をちらりと見ました。
明日には発つのだからと、今夜は金蝉の部屋で悟空は眠る事になったのです。
眠っているのかは、ここからではよく分かりません。
しかし、おそらくはまだ眠っていないのだろうと、悟空は何となく思いました。

「……金蝉、もう寝た……?」
「……いや」
「金蝉……ごめんな」
「謝るな。『幸せになる』と言った、その約束だけ守ればいい……」
「うん……分かった……」
「……なら、もう寝ろ。寝不足の顔を帝に晒す気か?」
「……そうだな。……おやすみなさい、金蝉」
「……ああ……」
言葉を交わすと、悟空はそっと瞳を閉じました。
その瞳に微かに光るものがあった事は、おそらく本人すらも気付いていなかった事でしょう。




それから数刻が経った頃でしょうか。
悟空は、縁側に面した襖の向こうから差し込む強烈な輝きで目覚めました。
最初は朝になったのかと思いましたが、それにしては急過ぎる光でございます。
そして、その光は金蝉の意識をも戻しました。
「……!? 何だ、この光は……!?
金蝉はさっと立ち上がって悟空の傍に駆け寄ると、悟空を左手で庇うようにして悟空の前に立ちました。

それとほぼ同時に、襖が勢い良く両側に開けられました。
そこに立っていたのは、一見美しい女性でありました。
「……何だ、お前は」
金蝉は常にないキツい眼差しで、相手を誰何します。
「俺か? 俺は観世音菩薩だ。月からソイツを迎えに来た」
観世音菩薩と名乗る人物は、悟空を指差しながら事も無げに言いました。

「月……だと?」
「そうだ。ソイツは……悟空は元々月の世界の住人なんだよ」
突然の事に、悟空は何が何だか分からず、ただ呆けております。
金蝉は胡散臭げな目付きで観世音菩薩を見遣りました。
「ふざけんな。コイツは俺が赤ん坊の頃から育てたんだ。……そうだ、『悟空』という名前だって俺が……」
「お前が付けた……か? そうだろうな、そう付けるようにしていたんだからな」
「何だと……!?
観世音菩薩の言葉に、金蝉は目を見開きました。
そんな金蝉を見つつ、観世音菩薩は言葉を続けました。
「大体、お前とてコイツを普通の人間だと思ってたわけじゃあるまい?
 竹に入ってる赤ん坊なんて、普通いねえだろ?」
金蝉は、ともすると震えそうになる手をキツく握りしめました。
悟空が竹から出てきた赤ん坊だと言う事は、金蝉の他には天蓬と捲簾しか知らないはずだったからです。
もちろん、天蓬や捲簾とてそんな事を軽々しく口にする人物ではありません。

金蝉の内心の動揺を見透かしたように、観世音菩薩はふっと笑いました。
「分かったろ? ソイツはお前らの世界の人間じゃねえんだよ」
金蝉が何かを言い返そうとした時、くいっと袖を引っ張られました。
見ると、悟空が頼りない足取りで立ち上がるところでした。
「ど、どういう事だよ……? 竹に入ってたって何? 俺……俺って……?」
「悟空……聞くな。こんなヤツの言う事なんか聞かなくていい」
金蝉は震えている悟空をぎゅっと抱きしめ、観世音菩薩にそれは剣呑な眼差しを向けました。

と、丁度その時、バタバタと足音が聞こえたかと思うと、観世音菩薩がいる場所とは正反対の襖が開かれました。
「悟空! 金蝉! どうしましたか!?
「って、何だ、てめえ!?
おそらく外の光に気付いて客間から走ってきたのでしょう。
天蓬と捲簾が入ってきました。同時に、尋常でない雰囲気に息を呑みます。

「ふん、役者は揃ったか? なら、さっさと話して連れて帰らせてもらう。
 俺も暇じゃないんでな」
「連れて帰る? 誰をどこに連れて帰るっていうんですか?」
天蓬が警戒した眼差しで見つめながら、問いかけます。
「さっきもコイツに言ったが、悟空を月に連れ帰る。そのためにわざわざ降りてきたんだからな」
その言葉に驚きの表情を見せた二人でしたが、天蓬が目配せすると捲簾は頷いて踵を返して走り去りました。
「ん? ……まあ、いいさ。何企んでようが、こちらには関係ねえからな」
「……てめえもな。何企んでようと、悟空を月なんぞに連れて行かせる気はねえ」
金蝉は悟空を庇うように抱き寄せたまま、観世音菩薩を睨みつけました。
「僕も同意見ですよ。いきなり現れて『連れて帰る』だなんて、納得すると思いますか?」
天蓬の表情も、普段の温和な彼からは考えられないほど冷たいものでした。

二人に睨まれても、当の観世音菩薩は全く動じておりません。
「そうだな。簡単な説明くらいならしてやる。……悟空は、月の世界の罪人なのさ」
『罪人』────よりによって、もっとも悟空に似合わないと思われる言葉。
その言葉に、思わず金蝉も天蓬も……そして悟空自身も言葉を失いました。

「悟空は、月の世界の住人。それはさっき言ったな。コイツはそこで罪を犯したのさ。
 それも、とんでもない大罪をな。結果、地上に流刑、という事になった。
 記憶を消し、力も何もない人間の、それも赤ん坊に戻してやり直させる。
 その結果、もしも再び罪を犯すような者に育った場合、今度こそ死罪、という具合でな」
観世音菩薩は、ただ淡々と語り続けます。
「そして、今夜を以って、ようやく定められた刑罰の期限が明けたというわけだ。
 だから、月へと連れ帰るべく迎えに来た。……分かったか?」
そう言うと、観世音菩薩は悟空へと視線を移しました。
「悟空、こちらに来い。お前は月に帰らなきゃならない」
そう言って伸ばされた手を払ったのは、悟空ではなく金蝉でした。

「……ふざけんじゃねえ。罪人? 知った事か。……コイツの帰る家は此処なんだよ!」
「金蝉……」
悟空は泣きそうな目で、金蝉を見上げました。
いきなり罪人だなどと言われ、訳が分からなかった悟空の胸に何よりも響く言葉でした。
「金蝉の言う通りですね。
 大体、地上にいる事が刑罰というなら、放っておけばいいじゃないですか。
 貴方達だって、その『罪人』とやらを地上に落としておけるんだから好都合なんじゃないんですか?」
もっともらしい天蓬の言葉に、観世音菩薩はため息をつきました。
「事はそんなに簡単じゃねえんだよ。
 記憶消して地上に落としたまんまじゃ、罰になんねえだろうが。
 地上での刑罰が明けても、まだ月の世界での刑罰が残ってんだよ。
 記憶も戻さなきゃ償いにならねえ。ま、地上での結果で、多少なりとも減刑はされるだろうがな」
「そんな……! どうしてそこまで……!」
「そこまで手間をかけるだけの事を、コイツはやったんだよ」
「悟空が……どんな罪を犯したって言うんですか」
「そこまで地上の人間には話せねえな」
話は終わったとばかりに、観世音菩薩は金蝉と悟空に近付いていきます。

「寄るんじゃねえ!」
金蝉は悟空を背中に庇うようにして、立ち塞がりました。
天蓬も同様に、悟空と観世音菩薩の間にすっと身体を割り込ませました。
「無駄だな。さっさとどけ」
「ふざけんな」
「冗談じゃないですね」
「……仕方ねえか」
またため息をつくと、観世音菩薩は手を前に上げ、さっと横に凪ぐように振りました。
すると、金蝉と天蓬の身体が何かに吹き飛ばされるかのように宙を舞ったのです。
横の壁に叩きつけられ、それでもすぐさま立ち上がろうとした二人は、目の前に突き付けられた何本もの槍にその動きを止められました。
見ると、かなりの数の兵と思しき者達が外に見えます。


「金蝉! 天ちゃん! ……止めろよ! 金蝉達に乱暴な事……」
「お前が月に戻るなら、手荒な真似はしねえさ。……もっとも、記憶が戻ったら、帰らざるを得ねえだろうがな」
最後の方は小さく呟くと、観世音菩薩は悟空の額にある金鈷に手を伸ばしました。
「今からお前は自分の罪を思い出す。辛いだろうが……耐えろ」
観世音菩薩は少しだけ表情を曇らせると、その金鈷を外してしまいました。

その瞬間、悟空は震えながら自分の頭を両手で抱えると、その場に膝をつきました。
「あ、あ、あ……うわぁぁぁぁぁぁ!」
「悟空!」
金蝉は叫ぶと、突き付けられた槍など見えないかのように悟空の元へと走り寄りました。
その際、その槍によって身体に幾つもの傷がつきましたが、そんな事を気にする余裕はありませんでした。
叫び続ける悟空の身体を掴むと、金蝉は必死で呼びかけました。
「悟空! 悟空! こっちを見ろ!」
「ごめ……なさい……! 俺、俺……そんなつもりじゃ……うあぁぁぁぁ!」
「悟空っ!!
悟空を頭の上から強く抱きしめると、金蝉はありったけの声で叫びました。

すると、悟空の身体がビクッと跳ね、ゆっくりと顔が上げられました。
「あ……こん……ぜん……?」
「悟空……俺が、分かるか?」
「……分か……る……」
金蝉はひとまず息をつくと、抱きしめたまま悟空の頭を何回も撫でてやりました。

それをしばらく繰り返すと、少しずつ悟空も落ち着いて参りました。
そのタイミングを見計らったかのように、観世音菩薩は再び口を開きました。
「……おい、悟空。思い出したなら、取るべき行動は分かるはずだな?」
悟空はビクリと身体を震わせると、ゆっくりと頭だけ後ろを振り返りました。
よろけながらも立ち上がると、そっと金蝉の身体を押し返して観世音菩薩の方へ身体ごと振り向きます。
そして、頼りない足取りで観世音菩薩のところへと足を進めました。
金蝉に、背を向けて。


「な……! 待て、悟空!」
金蝉は慌てて悟空の腕を掴もうとしましたが、再び複数の槍に阻まれました。
「どけ!」
その槍を力任せに振り払った時には、既に悟空は観世音菩薩の手の内にありました。
「てめえ……悟空から離れろ! 悟空! 戻れ!」
悟空を連れて外に出た観世音菩薩を追って、金蝉もまた外に走り出ました。
履物を履いていないために足裏に痛みを感じましたが、そんな事はどうでもよい事でした。
何よりも、悟空を連れて行かれる事の方が、金蝉にとっては耐えがたい痛みでありました。
帝の元に嫁ぐのなら、どれほど遠くても同じ地平の上。また会える機会はあるでしょう。
しかし、月になど連れて行かれれば、もう会う術などなくなるのです。
永遠の別れ。そんな事が、どうして耐えられるでしょうか。




「悟空!」
金蝉が叫んでも、悟空は振り向きません。
「悟空! どうしたって言うんですか!」
同じく外に飛び出してきた天蓬も必死に叫びます。
なおも振り向かない悟空に、金蝉は今度は少し小さめの声で呟きました。
「『幸せになる』……そう約束したじゃねえか。
 それとも俺はお前にとって、約束を守る価値もないのか……?」
先程までの声に比べると、遥かに小さい声でした。
しかし、その言葉に、悟空は初めて振り向きました。


その瞳は、涙に濡れていました。
大粒の涙が、後から後から頬に跡を作っています。
「こ……ぜん……。ごめん……俺……約束、守れなくて……。
 でも、でも、俺は……幸せに、なっちゃ……いけないんだ……」
「ふざけんな! 幸せになっちゃいけねえなんてわけねえだろうが!」
「ダメなんだよ……。俺は、償わなきゃ……。俺だけ幸せになるなんて、許してくれない……。
 思い出したんだ、全部……俺が……どんな酷い事したのかも……」
涙を零しながら、悟空は金蝉に向かって悲しい顔で笑いました。
「金蝉……今までありがとう……。ここにいる間、すっげえ幸せだった……。もう、十分だから……」
その余りに美しい、そして何よりも悲しい笑顔に、金蝉は次の言葉を発する事が出来ませんでした。


悟空は金蝉に背を向けると、用意されていた籠に乗り込みました。
止めなくてはならない。そう思うのに動かない身体が、出ない声が、金蝉は悔しくてなりませんでした。
「よし、行くぞ」
観世音菩薩の声を合図にふわりと籠が宙に浮いた、その瞬間。






「───悟空!!






激しく強い声が、悟空の名を呼びました。

振り向いた悟空の瞳に飛び込んできたのは……悟空が何より惹かれた、金糸の髪に紫暗の瞳でありました。







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2002年8月20日UP




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