三蔵はというと、神経ガスに身体の自由を奪われ、声も出せないでいる。
さっきからの屈辱的な扱いに、言いたい事は山ほどあるのに、それが声にもならない。
三蔵の様子を見ながら、男はベッドの端に腰掛ける。
「寒いですか、三蔵様? でも、服着てちゃ剥製に出来ないし、我慢して下さいね」
そう、今の三蔵は衣服を全く身に着けていない。
男によって全て取り去られている。
唯一身体を覆っているものは、腰より下に掛けられたシーツだけだ。
男は、三蔵の身体を無遠慮にジロジロと見ている。
「顔も綺麗ですけど、身体も白くて適度に筋肉ついてて綺麗ですね」
三蔵が口が利けないのを分かっていて、三蔵の神経を逆撫でするような言動を繰り返す。
「そんな目をしないで下さい。ああ、あと私はそっちの趣味はありませんので、安心して下さって結構ですよ」
男が何か喋るたびに、三蔵の中に激しい怒りが溜まっていく。
いつもならとっくにキレているのだが、今は身動きが取れないのでどうしようもない。
三蔵の目に宿る殺意にも、男は全く怯む様子を見せない。
絶対的に有利な立場な事もあるが、相当度胸の据わった男である。
笑みを崩さぬままに、三蔵の髪に触れて遊んだりしている。
その時、微かに震動が伝わった。
男の視線が三蔵を離れ、部屋の入り口である扉に向けられる。
その10数秒後。
激しい音を立てて、鉄の扉が開かれた。
「三蔵!!」
扉から室内に入って一番に、悟空が叫んだ。
この部屋に三蔵がいる。その3人の予想は当たっていた。
だが、目の前の三蔵の状態を見て、悟空達はその場で固まってしまった。
ベッドの上に寝かされた三蔵。
全裸に剥かれ、ただシーツが1枚かけられているだけだ。
そしてそのベッドには見知らぬ男が腰掛け、三蔵の髪に触れている。
三蔵の瞳は閉じられ、気を失っているようにも見えた。
実際には今の自分の状態を認識している三蔵が、その屈辱から3人と目を合わせないように閉じているだけなのだが、そんな事までは3人の知るところではない。
この状態を見て、誤解するなというほうが無理な話である。
例の剥製の並んだ部屋の窓は元通りにカーテンが閉められているため、尚更だ。
悟空も、その手の経験はないものの、多少の知識くらいはある。
その想像に行きついた瞬間、悟空は身体中の血が沸騰するかのような錯覚を覚えた。
一番先に言葉を発したのは、悟浄だった。
「……てめえ、三蔵に何しやがった!!」
そして、その言葉を八戒が継ぐ。
「……返答如何によっては、楽には死ねませんよ?」
悟浄も八戒も、目の前の男に対して敵意を露にする。
その2人の視線をまともに受けながらも、男は微笑を崩さない。
「何をしたか……ですか? 貴方がたのご想像通りの事かもしれない、と言ったら……?」
明らかに面白がった風に男は笑う。
その言葉に、更に悟浄と八戒の目に敵意……いや、殺気が篭る。
そして悟浄と八戒が1歩踏み出そうとした、その瞬間。
ピタリと当てられたメスに、2人の動きが止まる。
鋭い切っ先を持つメスが、三蔵の喉元に当てられている。
「ここ、頚動脈です。ここを切ったら、いくら三蔵法師様でも死んでしまいますよね」
楽しそうに笑いながら、男は三蔵の喉を浅く切る。
一筋の血が、つつ……と首を伝って落ちていく。
「止めろ! ぶっ殺すぞ、てめえ!!」
悟浄が叫ぶものの、効力はないに等しい。
この状況では、迂闊には動けない。
あの男の目は本気だ。
こちらが少しでも妙な動きをすれば、躊躇いなく三蔵の喉にその刃を突き立てるだろう。
どうにかして、せめてメスを喉から離させなければ動きようがない。
これは時間稼ぎだ。実際にそれにかかった三蔵はそれを知っている。
だが、それを知らせようにも体が動かなければ、口も利けない。
顔も動かせないので、視線で伝える事も出来ない。
三蔵はそんな自分の姿に、激しい憤りを感じた。
何も出来ず、ただ成り行きに任せる事しか出来ないなど。
しばらくその状態のまま、膠着状態が続いた。
そして、変化は突然現れた。
悟浄が、その場に膝をついたのだ。
「……悟浄!? ……!!」
言うと同時に、八戒の足元も揺らぐ。
「これは……!」
身体の自由が利かなくなってきている事に気付いた時には、もう遅かった。
悟浄、八戒、そして悟空もその場に崩れるように膝をついた状態になる。
「妖怪だけあって、結構かかりましたね。でも、もう動けないでしょう?」
男は三蔵の喉に当てていたメスを外し、ベッドを回り込んで悟空達の前に出る。
身体さえ動けば、男を倒す絶好のチャンスだ。
八戒も悟浄も何とか身体を動かそうと試みるものの、どんどん痺れてくる一方だ。
……その時。
ぞくりとするような強烈な殺気を八戒と悟浄は感じた。
殺気の発信源は、自分達の隣。
2人は自由にならない身体をかろうじて僅かに動かし、その殺気の主───悟空を見遣った。
いつもの悟空からは考えられないような、冷たい眼差し。
男に向けられたそれには、明確な殺意がこめられている。
八戒も悟浄も、そして、その気配を感じ取った三蔵も、驚きを隠せなかった。
これまで、敵に対してでも、悟空はこれほどの殺意を見せた事はなかったのだ。
最初に部屋に入ってきた時の一言から全く言葉を発していなかった悟空を、おかしいとは思っていた。
だが、まさかここまで怒りを溜めているとは思わなかった。
悟空は、膝をついた状態から、震えながらではあるが立ち上がろうとしていた。
ゆっくりと、しかし確実に悟空の身体は起き上がってくる。
如意棒を支えにして立ち上がり、その視線が男に向けられる。
その悟空の殺気に射られた時、初めて男の表情から余裕が消えた。
胸の内から自分でも抑えきれないほどの殺意が溢れるのを、悟空は感じていた。
三蔵の身に何が起こったのか。目の前の状況が語ってくれている。
そして、それを目の前の男も否定しなかった。
それは、三蔵にとっては死に等しい、いや、死よりも耐えがたい行為のはずだ。
誰よりも気高い三蔵の誇りを踏み躙り、引き裂いたのだ。
いつもならカッとなって男に向かっていくところだが、そうならない自分が不思議だった。
代わりに、静かに涌き出てきたのは……冷たい殺意。
三蔵はきっと、そんな行為を受け入れさせられた自分自身を許さないだろう。
許せなければどうする? ……三蔵なら、殺してしまう。
例えそれが自分自身でも。むしろ、自分自身であるからこそ、何の躊躇いもなく。
今、目の前にいる男が奪ってしまう。悟空から、三蔵を。
三蔵を傷付け、苦しませ、殺してしまう。
許せるはずがない。許す事など出来ない。
これほど、誰かを殺してやりたいと思った事はなかった。
こんな黒い感情が、自分の中にあるなんて、知らなかった。
「……驚きましたね。まだ動けるなんて。でも、立つのがやっとでしょう」
一度は悟空の視線に怯んだものの、男はすぐさま表情を整え、微笑で顔を飾る。
「無理をしないで大人しく倒れていた方が楽ですよ?」
そう言いながらも少し身体を悟空から離したのは、危険を察知したからかもしれない。
だが、その瞬間。
一瞬にして眼前に迫ったものに、男は反射的に反応し、それをかわした。
微かに掠った頬に、一筋の血が流れる。
悟空は振り返りながら、再び如意棒を構える。
今の一撃で決めるつもりだったが、やはりガスが身体の神経を侵していて上手く動いてくれない。
本来ならとっくに動けなくなっているはずの身体。
それを動かしているのは、激しい怒り。
目の前にいるこの男を倒すためなら、こんなガスなんか撥ね退けてみせる。
悟空は身体中から力をかき集め、男に向かって床を蹴る。
今度は激しい打撃音を響かせ、男の身体が宙を舞った。
男は部屋の奥にあるカーテンに激突した。
ガラスの割れる激しい音と共に、男はカーテン諸共奥にある部屋に倒れ込んだ。
カーテンが引き千切れ、奥の部屋の様子が悟空の目に入った。
そしてその光景に、その場で立ち尽くす。
それは、三蔵が見たものと全く同じもの。大量の人間の剥製。
「……な、んだよ、これ……?」
悟空は、余りの光景に思わず呆然と呟く。
それに意識を取られ、悟空は気付かなかった。
床に倒れ、血を吐きながら男が微かに笑った事に。