「……くっ……くくく……」
くぐもった笑い声が耳に届き、悟空は弾かれたように倒れている男を見た。
「てめえっ……何したんだよ!」
「は……、もうすぐ、この地下室は……崩れ、ます、よ……」
途切れ途切れに紡がれる言葉に、悟空は目を見開く。
男は、身体を引き摺るようにして剥製の林立する中に這っていく。
「彼らは……私のものだ……永遠に……」
さっきの衝撃で倒れた剥製を抱きながら、男は血まみれで笑う。
その姿に、悟空はぞくりと背筋に寒気が走った。
……この男は、この剥製達と心中する気なのだ。
そう悟った時、悟空は今の状況の深刻さに気付いた。
男は、もうすぐ地下室が崩れると言った。それは事実だろう。
現に、今も少しずつ天井からパラパラと破片が落ちてきている。
だが、三蔵も悟浄も八戒も神経ガスにやられていて動けない。
悟空も多少は動けるとはいえ、神経ガスは確実に悟空の余力を奪っている。
「は、はははは。君達も、一緒に……眠……るんだ……私と……は、はは、あはははははは……!」
狂ったように笑い続ける男も、最早悟空の目には入っていなかった。
今は、無事にここから脱出する事に集中しなければならないのだ。
悟空は必死に考えを巡らせる。
どうすればいいか、どうすれば三蔵達を助けられるのか。
けれど、時間がなくて焦れば焦るほど考えなんて思い浮かばない。
八戒や三蔵なら何か考え付くかもしれないが、2人とも意識はあるものの口が利けないようだった。
少しの間考え込んでいた悟空だったが、強い決意を浮かべた目で顔を上げた。
もう考えている時間はない。一刻を争うのだから。
良い方法が思い浮かばないなら、一番原始的な方法を取るしかない。
悟空自身で3人を担ぎ上げて運ぶという、単純な手段を用いるしかなかった。
すぐさま悟空は行動に移った。
まず辺りを見回して、三蔵の衣類一式を見つけた。
三蔵をベッドから降ろして服を着せ、八戒と悟浄の倒れている場所まで運ぶ。
そして三蔵を背中に背負い、八戒と悟浄を両脇に2人の脇の下から抱え込むように担ぐ。
普段の悟空なら、3人を担ぐ事も多少頑張れば出来る。
しかし、今は悟空の身体もガスに蝕まれている。
本来なら、立って動いているだけでも賞賛に値するくらいなのだ。
よろけそうになりながら、悟空は3人を担いだまま歩き出した。
階段を、1歩1歩確実に上っていく。
引き摺る状態になっている両脇の八戒と悟浄の身体が階段に当たるが、この際仕方がない。
悟空も必死なのだ。今、瓦礫でも崩れてきようものなら防ぎようがない。
本格的に崩れてくる前に、一刻も早く地上に出なければならない。
降りてきた時と同じはずの階段が、とてつもなく長く思えた。
唯一の救いは、周りのネズミもどき達が襲ってこない事であろうか。
あの男が息絶えたのかどうか知らないが、助かる事には違いない。
気を抜くとその場に崩れ落ちそうな身体を精神力だけで支え、悟空はひたすら上った。
息が上がり、身体が震える。
早く、早くと思う気持ちとは裏腹に、なかなか進まない足がもどかしかった。
三蔵も、悟浄も、八戒も……絶対に失えない。
動かないはずの身体を動かせるのも、3人を……何より三蔵を失いたくないからだ。
悟空は上だけを見て、懸命に地上を目指した。
上から漏れる微かな光が、悟空の目に入る。
悟空達が入ってきた隠し扉だ。
扉は閉められているようだが、扉の隙間の部分が少しだけ明るく見える。
間に合った! 悟空に安堵の表情が浮かぶ。
その一瞬、悟空の気が緩んだ。
今までは最大の注意を払いつつ上ってきたが、ほんの一瞬だけ集中力が途切れた。
それが、懸命に動かしてきた足をもつれさせる結果となった。
ただでさえ見えづらい足元の階段を僅かに踏み外したのだ。
「……っ!」
前に倒れ込むような状態で、危うく階段を滑り落ちそうになる。
それを防いだのは、三蔵の法衣だった。
衝撃によってひび割れ、飛び出ていた壁の一部に法衣の袖の部分が引っかかったのだ。
もちろんそれによって止まるのは僅かな時間だが、それで充分だった。
何とか悟空はその場に踏み止まる。
心臓が早鐘のような早さで脈打っている。
もしあのまま落ちていれば、間違いなく4人とも助からなかっただろう。
再び3人を担いで上ってくる体力も、そして時間の猶予もない。
悟空は震える身体を無理矢理落ち着かせ、再び集中し直す。
もう、今のような失敗は許されない。
この館の外に出るまで、絶対に安全だと確信できるまで決して気は抜いてはならない。
悟空は表情をきつく引き締め、残りの階段を上っていった。
隠し扉を身体ごと押し付けるようにして開け、まず左腕に渾身の力を込めて八戒を外に出す。
その次に右腕に抱えている悟浄、そして、背中に背負っていた三蔵を上の部屋に出した。
その後すぐに悟空も隠し扉のあった部屋に這い出してくる。
だが、まだ終わらない。
この下が例の地下なのだ。床が崩れてしまったらお終いだ。
既にこの部屋の天井は崩れてきており、床も不穏な音を立てて軋んでいる。
悟空は急いで窓を大きく開け放し、3人を窓際まで引き摺っていく。
「……ごめんな、三蔵、悟浄、八戒!」
そう言うと、悟空は1人ずつ担いで、出来るだけ衝撃が少ないように気をつけつつ窓から外に落とした。
かなり乱暴な方法だが、今はもう手段を選んでいる暇はない。
いつ床が崩れ落ちてもおかしくない状態なのだ。
三蔵達を無事館の外に出し、悟空は自分も脱出しようと窓に足をかけた。
その時、大きな衝撃が襲った。……とうとう、床が崩れ出したのだ。
地下に崩れていく床に引き摺りこまれるように、悟空の身体が部屋の中に傾いた。
巻き込まれる! ……悟空は瞬間的にそう思った。
だが、次の瞬間、悟空の身体が館の外にぐいっと引っ張られた。
そのまま悟空は館の外の地面の上に倒れ込んだ。
「……た、助かったの、か……?」
派手な音を立てて崩れていく館を、悟空は呆然と見ている。
「キュ〜ッ!」
「……ジープ! さっき助けてくれたの、お前!?」
「キュキュ〜」
「そっかぁ……。ありがとな、ジープ!」
悟空が頭を撫でると、ジープは嬉しそうに鳴き、車の形態に変身した。
乗れ、という事だろう。確かに、ここでは崩れてくる瓦礫の巻き添えになりかねない。
よく見ると、悟空達の荷物もちゃんと置かれている。
ジープが館の外に運んでいてくれたんだろう。
悟空は残る力を振り絞って、3人と荷物をジープに乗せ、自分も乗り込む。
しかし、肝心の運転方法が分からない。
それでも普段の八戒の運転を思い出し、見よう見真似でアクセルを踏み込む。
途端、急発進したジープに驚きつつもなんとかハンドルを握る。
少しでも離れた、そして落ち着ける場所に移動するために。
深夜の暗闇の中、悟空は必死にジープを走らせた。
ジープの運転なんて絶対無理だと思っていたが、追い詰められれば何でも出来るものだ。
もっとも、悟空のそれは運転というよりも暴走に近いかもしれない。
後部座席では寝かされた3人があちこちに身体をぶつけまくっている。
しばらく走らせると、ほんの少し開けた場所に出た。
目の前には小さく浅い川が流れている。
歩いて渡れるほどの浅さだが、あの館からも大分離れているし、休むには丁度いい場所だった。
悟空はジープから降り、荷物の中から大き目の敷物を出して広げた。
そしてその上に三蔵と悟浄、八戒を寝かせる。
神経ガスが身体から抜けるのを、ここで待つのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
空がうっすらと白み始めてきていた。
悟空の身体も、随分と痺れが取れてきている。
身体が石のように重いのは、疲れと眠気のせいだろう。
悟空が空から横たわっている3人に視線を戻した時、動きがあった。
「……三蔵!」
三蔵がゆっくりとではあるが、起き上がろうとしていた。
悟空は敢えて手を貸さずに、じっと三蔵が起き上がるのを待っていた。
こういう時に手を貸される事を、三蔵はひどく嫌うからだ。
時間をかけて三蔵は起き上がり、その場に座る。
「三蔵、もう大丈夫?」
「……ああ」
声が出るようになったのなら、本当に心配は要らないのだろう。
そしてほぼ同時に、悟浄と八戒も身体を起こし始める。
それを見て心底安心し、悟空は一気に気が抜けてしまった。
急速に意識が遠のいていく。悟空はそのままその場に倒れ込んだ。
「……ち、無茶しやがって」
眠ってしまった悟空を見て、三蔵はため息をつく。
「今回は、完全に悟空に助けられましたね」
「……だな。ったく、カッコ悪ぃったらねえよな、俺ら」
「街に着いたら、悟空の好きな事いっぱいさせてあげましょうねv」
「こいつの好きな事っていったら、『美味いものをたらふく食う』に決まってるだろう」
「ははっ、違いねえな。ま、いいんじゃねえか、こいつらしくてよ」
泥のように眠る悟空を、3人はいつになく優しい目で見守っていた。
悟空を起こすわけにもいかず、結局三蔵達はその川辺で休む事にした。
もう夜は明けているが、とても出発できるような状態ではない。
幸い鬱蒼とした森のため、陽射しも余り入ってこない。
野犬が襲ってくる気配がないところを見ると、あの野犬達もあの男の手駒だったのだろう。
悟空を柔らかい敷物を重ねた上にそっと寝かせ直し、3人もそれぞれ眠りについた。