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食事が済み、それぞれ一旦部屋に戻る。
チェックアウトのための準備を済ませるためだ。
八戒と悟浄も部屋に戻り、荷物をまとめ始める。
「……どう思います?」
「……どう、っつわれてもなぁ」
悟浄も、悟空の変化には気付いていた。
食事中も、悟浄がからかうといつも通りの反応を見せた。
……が、気持ちがどこか入っていなかったのだ。
「昨日は特に変わった所もなかったんですけどねぇ……」
八戒がため息混じりに呟く。
「三蔵サマとナンカあったんじゃねえの?」
そういう軽い問題ではないだろうと悟浄も分かっているのだが、わざと冗談めかして言ってみる。
八戒の笑顔攻撃が来るかと思ったが、返ってきたのは真顔での一言だった。
「……やっぱり……そうでしょうか……」
一瞬、理解できなかったが、なんとか正常な思考を取り戻し、聞き返す。
「お、おい、やっぱりって……? おまえ、何か心当たりあんの……?」
「先に言っておきますが、悟浄の想像しているようなコトではありませんよ?」
今度こそニッコリと完璧なスマイルを向ける。
「……俺の想像してるコトって……?」
「ヤダなぁ、決まってるじゃないですか。成人指定生物さん?」
さらに笑顔のまま、物騒なことを口にする。
「でも、悟空でそういうのを想像するのは止めてくださいね?
僕、まだ悟浄に生きてて欲しいですから」
「殺しますよv」と聞こえたような気がしたのは、気のせいだろうか……。
笑顔の中にここまで恐ろしさを含ませることが出来るのは、八戒以外には存在し得ないだろう。
「まぁ、冗談はこの辺にして、話を真面目に戻しましょうか」
悟浄は冗談には思えなかったが、口には出さない。
ここで余計なことを言ったが最後、本当に冗談でなくなってしまう。
そんな悟浄の胸の内を知ってか知らずか、八戒は何事もなかったかのように話を進める。
「実際問題、悟空が三蔵以外のことでおかしくなったことが、今までありました?」
「まぁ、確かに……な」
悟浄が少し視線を落とし、同意する。
だが、今回は三蔵にすら原因が分かっていないようだった。
正確には、原因は分かっているものの理解できない、ということなのだが。
「でもよ、俺達がどうこう言ってもしょうがねえんじゃねーか?
猿のことは飼い主に任せるしかねえだろ」
「そう……でしょうね」
三蔵に分からないものが、自分達に分かるはずがない。少なくとも悟空のことに関しては。
とりあえずは、様子を見るしか取れる方法はないだろう。
自分達が口を挟んで、事態が悪化しないとも限らない。
「とにかく、下に降りようぜ。三蔵サマに銃弾撃ち込まれちまう」
珍しく悟浄が八戒を促し、2人はロビーに降りていった。
悟浄と八戒が降りてくるのを待ち、チェックアウトをしようとした所に、思わぬ情報が飛び込んできた。
昨日の夕刻からの雨で、この先の河が増水し橋が押し流されてしまったと言う。
よりにもよって、西に行くために渡らなければならない橋が。
「他に道はないのか」
足止めなど冗談じゃない、と言った風に三蔵が宿の主人に尋ねる。
雨自体は上がっているのだから、当然と言えば当然だろう。
「ないことはないが…………北へ回る道だから却って遠回りになっちまうよ?」
「遠回りって、どのくらいかかるんですか?」
不機嫌そうに問い返そうとした三蔵を制して、八戒がやんわりと聞き返す。
「そうだねぇ……。ここから橋超えた先の街までは……普通に行けば1日で済むが、迂回していくと5日はかかっちまうなぁ」
「5日もですか!?」
「ああ、だからここで橋の補修を待ったほうが早いと思うよ? 河の水も直に治まるだろうし……」
「いいじゃねえの、ちょっとくらい待ったってさ。そっちの方がまだ早いってんだから」
悟浄が幾分嬉しそうな口調で、宿の主人の意見に乗っかる。
悟浄の目的がベッドと町の女性であることは明白である。
「……どうしますか、三蔵?」
八戒は一行の決定権を持つ三蔵に尋ねる。
「ちっ、仕方ねぇな」
渋々といった感じで、延泊の許可を出す。
「そうこなくっちゃ♪」
言うが早いか、悟浄は宿の外へと向かう。
八戒がため息をつくが、三蔵は既に悟浄のことなど目に入っていない。
今までのやりとりで、朝に感じた違和感が更に強いものとなる。
悟空が、喋っていないのだ。
いつもなら、悟浄と一緒に延泊を主張するはずだ。理由は悟浄とは別のものだろうが。
だが、今は何も言葉を発しなかった。
かろうじて保っていた『いつも通り』すら、崩れてきている。
その事実に、三蔵は態度にこそ出さないが、焦燥感を感じ始めていた。
「じゃあ、三蔵、僕は買い出しに行ってきますね」
「買い出しなら昨日、済ませたんじゃないのか」
「ええ、でも2〜3日足止めされそうですし、昨日見て回れなかったところでも見てきます。
何かいい物が見つかるかもしれませんしv」
実際昨日は町に着いたのは昼前だったが、夕刻頃から雨が降り出したこともあり、ゆっくり店を回る時間がなかったのだ。
三蔵にそう告げてから、八戒は町へ出た。
悟空の変化の原因が三蔵だとすれば、おそらく自分が居ないほうが
悟空も三蔵と話しやすいだろうと思ったのだ。
悟浄も同じ考えだからこそ、早々に町に繰り出したのだろう。
それぐらいは、八戒にも分かっている。
もちろん、八戒に出来ることがあるなら、いくらでも協力するつもりだった。
しかし、今回は自分達が間に入ってはいけない、と思ったのだ。
根拠のない、直感ではあるが。
「何も出来ない……というのも結構ツライものですねぇ……」
思わずひとり言が零れる。
宿に戻った時には、いつも通りの悟空の笑顔が待っていてくれればいい、そう思わずにはいられなかった。
八戒が宿を出て行き、三蔵と悟空だけが残される。
「おい、悟空」
「え、あ、何?」
自分を映していない悟空の瞳にいらだちを覚え、舌打ちすると三蔵は悟空の手首をつかみ、
そのまま自分達の部屋まで引きずっていく。
「ちょ、ちょっと三蔵!? どうしたんだよ!?」
しかし、三蔵は答えない。
部屋のドアを開け、悟空を放り込む。
悟空は、訳が分からないといった顔で三蔵を見ている。
三蔵としては分からねぇのはこっちの方だ、と言いたい所であるのだが。
「おまえ、何に怯えてやがる」
「……怯えてる? 俺が……何に……?」
「聞いてんのは俺だ」
「別に……怯えてなんか……」
そう言ってはいるが、悟空の視線は三蔵から外れている。
自覚がないということか。
食堂での様子を見ている限り、明らかに『何か』に怯えていた。
悟空の精神的な強さは三蔵も知っている。
ある意味、その強さは三蔵以上かもしれない。
だが今は、まるで連れ出した頃の悟空のようだった。
あの頃の悟空は、『置いていかれる』ことにひどく怯え、片時も三蔵のそばから離れようとしなかった。
あの頃に戻ってしまったわけではないが、よく似た危うさを今の悟空は宿している。
「……俺が、おまえを置いていくとか考えてんじゃねぇだろうな」
悟空の肩がビクリと震える。
悟空のその反応が、今の問いの答えを語っていた。
「ちっ……、くだんねぇ」
三蔵が悟空を置いていくなど、有り得るはずがない。
それどころか、万が一悟空の方から離れようとしたとしても、きっと離してなどやれないだろう。
非常に不本意な考えではあるのだが、三蔵もそれくらいの自覚はある。
だからこそ、悟空の杞憂がくだらないことにしか思えなくなってしまうのだ。
「くだらなくなんかないっ……!」
悟空はうつむき、絞り出すような声を発する。
いつのまにか、手をきつく握り締めていた。
それは、悟空自身も気付かない部分に潜む昏い心の闇。
不安、悲しみ、そして絶望……。
かつて、感じたことのある感情。
いつなのかは思い出せない。でも、確かに悟空の中に渦巻くココロ。
悟空にも今の自分が分からなかった。
三蔵を信じてるのに、こんなに不安に囚われている自分。
顔が上げられない。
だから、三蔵が今、どんな表情をしているのか悟空には分からない。
確かめるのが怖かった。どうしても、三蔵を見れなかった。
三蔵のそばに居たくて、でも今はただ、この場から逃げ出したかった。
ドアは三蔵の向こうにある。悟空はクルリと身を返すと、窓を開け、そのまま窓から出て走り出した。
「おい! 待て、悟空!」
三蔵の声が悟空の背中にぶつかるが、悟空はその声から逃れるように全力で走り続けた。
「……あのバカ猿!」
悟空が全力で走ったら、三蔵に追いつけるはずがない。
「バカが……!」
半分は悟空に、半分は自分に向けた言葉だった。
三蔵らしからぬ軽はずみな言葉が、悟空を傷付けたことは分かっていた。
しかし、どうして信じられないのかという思いが三蔵にもあり、つい口から零れてしまったのだ。
さすがに今の悟空をこのまま放っておく訳にはいかないだろう。
「世話焼かせやがって……!」
そう呟くと、三蔵も悟空を捜しに宿を出て歩き始めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ずっと走り続けていたため、さすがの悟空も息が切れる。
「あれ……ここ……?」
悟空は、いつの間にか森の中に居た。
夢中で走っていたため、町中をどっちに走ってきたのかまるで覚えていない。
町を出てきたことは目の前の光景で明らかなのだが。
「……腹減ったぁ……」
つい先刻、朝食を食べたことなど既に忘却の彼方である。
しかし、町に戻る気にもなれなかった。
森を町と逆方向に少し進むと、微かに水音が聞こえた。
水でも何も無いよりはマシだと、悟空は木々の間をすり抜け音の方向に駆けていく。
『立ち入り禁止』の立て札があったが無視して進むと、急に視界が開け、そこに見えたのは湖だった。
「あ、ここって、人魚の……?」
そこはまさに、“人魚の棲む湖”だった。
ほとりに膝をついて、湖を覗き込む。
思ったよりずっとキレイな水だった。これなら飲んでも大丈夫だろうと思えた。
手ですくい、コクコクと水を飲む。
だが、水で咽喉は潤っても、心が潤うことはない。
悟空はそのまま湖のほとりに座り込み、膝を抱える。
「三蔵……怒ってるかな……」
きっと怒っているだろう。三蔵の差し伸べてくれた手を、包んでくれた心を、疑ったのだから。
いや、疑ったのではない。信じている。
なのに何故、不安は消えないのだろう……。
その時、湖面が動いた気がした。
直後に、バシャンッという音が耳に届く。
とっさに立ち上がり、そっちを見ると、悟空の目に映ったのは子供だった。
湖面から顔と手を出し、もがいている子供……。
溺れている!
そう思った時には、悟空はもう湖に身を躍らせていた。
海のような波も、川のような流れもない湖で子供の所まで泳ぎ着くのは簡単だった。
悟空は溺れている子供の手をつかんだ────はずだった。
だが、悟空がつかんだその瞬間、子供の姿は悟空の目の前からかき消えてしまったのだ。
「な……!?」
一瞬、沈んでしまったのかと思い、潜ってみるが子供は何処にも見当たらない。
訳が分からず、湖面に上がろうとしたその時。
突然、湖の水が荒れ狂うかのように躍動を始めた。
全く予想していなかった事態なだけに、悟空も反応が遅れてしまった。
湖に出来た巨大な渦に、身体を飲み込まれてしまう。
しばらくは湖面に上がろうともがいていた悟空だったが、息が続かず、ついにその意識を手放した。