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「あれ、三蔵?」
聞き慣れた声に振り返ると、心底驚いたような表情の八戒が立っていた。
八戒のこんな表情は珍しい……が、今はそんなことを考えている場合ではない。
「……悟空は一緒じゃないんですか?」
八戒が訝しげな視線を向ける。
「何で俺がいちいちサルと一緒に行動しなきゃならん」
その悟空を捜しているなどとは、口にしない。
先刻の反応で、悟空に会っていないことは容易に分かる。
「ひょっとして、悟空を捜してるんですか?」
……何でこう、この男は余計な所でいちいち鋭いのだろう。そう三蔵は思い、心の中で舌打ちする。
八戒からすれば、三蔵が1人で町中をうろつくなんて、他に理由を探す方が難しい。特に今回の状況では。
「僕も捜しますよ。2人のほうが効率もいいでしょう」
「別にサルを捜してるなんて言ってねえだろ」
八戒に見透かされたことが面白くなくて、無駄な言い訳をしてしまう。
「あ、そうでしたね。じゃ、僕はあっちの方に行きますんで」
「……勝手に行け」
八戒が苦笑しながら、指差した方向に向かう。
三蔵は町の出口の方を見る。
町の中はあらかた捜した。残っていた場所の方から八戒が歩いてきた。残るは……。
三蔵は、一瞬何かを考えるような素振りの後、町の外へと歩き出した。
頬に落ちてきた冷たさで、悟空の意識が浮上する。
ゆっくり眼を開けると、周りはひどく薄暗かった。
それでも割と早く眼が慣れ、ここが洞窟のような所であるらしい事は分かった。
起き上がると、洞窟の入り口が見える。
少しずつそこに近付いてみて、悟空は驚いた。
入り口のすぐ前にあったのは……水なのだ。
まるで、透明の壁があるかのように、水は入り口で止まり、中には入ってこない。
しかし、手を伸ばしてみると壁などはなく、水に触れる事も出来る。
だが、上を見上げてみても湖面は見えない。
ただ、ひたすら水の青が見えるだけだ。
どうすれば帰れるのかも分からず、悟空はその場に座り込んでしまった。
その時。
「……目が覚めた?」
突然の声。
悟空が慌てて振り向くと、先刻までは誰も居なかったはずの場所に蒼い髪の美しい女性が立っていた。
(人魚……?)
悟空は咄嗟にそう思った。
何しろ、悟空が沈んだのは“人魚の湖”なのだから。
しかし、目の前にいる女性にはちゃんとした人間の足があった。
「……なぁ、ここ何処? あんた、こんなトコで何してんの?」
マトモな答えが返ってくるかどうかはともかく、一応聞いてみる。
「ここは湖の中よ。私は……ここに棲んでいるの」
「棲んでる……? まさか……人魚……?」
“人魚”という単語に、女性は僅かに反応したが、すぐに表情を整える。
「人魚だと思う?」
逆に聞き返され、悟空は戸惑う。
「……わかんねぇ。ちゃんと足あるし……」
女性はクスと微かに笑うと、悟空に背を向けて歩き出す。
「ついてきて……」
「え……何処に?」
「帰りたくはないの? 上に」
そう言われては、悟空はついていかざるを得ない。
絶対に帰らなければならない。しかし、帰る方法が分からない。
湖面が見えない以上、あの入り口から出て帰れる保証は何処にもない。
下手をすれば、またあの渦に巻き込まれる可能性が高いのだ。
悟空は少し警戒しつつ、女性の後について歩いていった。
しばらく歩くと、広場のような場所に出た。
真ん中には巨大な噴水のようなものがある。
「この中を覗き込んでみて」
少し逡巡した後、悟空が言われるままその噴水の淵から覗き込むと、そこに見えたのは……。
「……三蔵!」
思わず悟空は叫んだ。
噴水の中に、湖のほとりらしい所を歩いている三蔵の姿が見えた。
こんな所で三蔵が1人で散歩なわけはない。
……悟空を捜しに来てくれたのだ。
町から湖まで、少々距離がある。
その距離をわざわざ来てくれた。悟空の為に。
悟空の中に巣食っていた靄が、少しだけ晴れていく気がした。
ただ純粋に、嬉しかった。
帰らなきゃ。なおさら強く思う。
「……そう、彼があなたの一番大切な人なのね」
先程までとは比べ物にならないくらいの冷たい声が響いた。
「たったヒトリの……大切なヒト……」
そう彼女が呟くと同時に、噴水の水が意思を持った触手のように悟空に巻きつく。
引き千切ろうとしても、何故か、ただの水のように通り抜けるだけだった。
「な……! 何すんだよ! くそっ……!」
「帰りたいんでしょう? 『帰して』あげる。その代わり……『返して』はあげない……」
彼女が取り出したのは、蒼い宝石。
それを悟空の目の前に掲げる。
瞳が、引き付けられる。
何かを吸い取られるような感覚がして、目の前が急速に暗くなっていく。
「さぁ、帰りなさい。彼の元へ……。あなたが『失くした』人の元へ……」
彼女がそう言うと、触手が悟空を持ち上げ、勢い良く噴水の中へと放り込んだ。
「くそっ、何処まで行きやがったんだ、あのバカ猿!」
三蔵はかなりイラついていた。
町中にいなかった以上、いるとしたらこの湖しかないと思って来たのだが。
もう太陽が傾き始めていると言うのに、悟空は一向に見つからない。
一旦、宿に戻ろうかと考える。
しかし、三蔵は何故かこの湖から離れることが出来なかった。
まるで、何かに引き止められているかのようだった。
仕方なく、もう一度湖の周りを歩いてみる。
しばらく歩を進めたその時。
三蔵の視界に茶色いものが入った。
その正体を確信し、三蔵は駆け寄る。
「悟空!」
思った通り、それは悟空だった。その全身は水に濡れていて、ひどく冷たい。
「悟空! おい、悟空!」
右腕で悟空の肩を少し起こし揺する。
「ん……」
悟空の瞳が、ゆっくりと開かれる。
三蔵が息をついたのも束の間、次の瞬間、三蔵は信じられない言葉を聞いた。
「……あんた……誰……?」
時間が凍りついたような感覚。
数瞬後、三蔵はようやくといった感じで声を絞り出す。
「…………何と言った」
悟空の方は、心底分からないという風に再び尋ねる。
「……あんた、誰? 俺のこと知ってんの?」
その言葉を聞いた瞬間、三蔵の頭に血が上る。
「ふざけてんじゃねえぞ、猿! 俺に向かって『誰だ』だと!? ぶっ殺されてぇのか!!」
悟空の胸倉をつかみながら、大声で怒鳴る。
怒鳴っていないと、バランスが崩れてしまいそうだった。……心のバランスが。
そんなことは知らない悟空は、その手を振り払う。
「何すんだよ! 離せよ!」
初めて向けられた本気での拒絶に、三蔵は言葉を失くす。
今、自分が見ている事、聞いている事に現実感がない。
有り得ない事、有り得てはならない事が目の前に突き付けられている。
三蔵は、身体が凍りついたかのように動く事が出来なくなっていた。
「三蔵! 悟空!」
八戒と悟浄は湖のほとりに座り込んでいる2人を見つけ、駆け寄った。
夕刻近くなっても2人が戻らないので捜していると、三蔵らしき人が町の外に出ていったと聞き、
ようやく見つけることが出来たのだ。
「あ、悟浄、八戒!」
悟空が安心したような顔で名前を呼ぶ。
「なーに、2人でこんなトコにシケこんでんだよ。
ま、『立ち入り禁止』の場所なら2人っきりになれっかもしんないけど?」
「戻って来ないから心配しましたよ? ……あれ、悟空、びしょ濡れじゃないですか!」
「うん、ちょっと湖に落ちちゃってさ」
「早く宿に戻って乾かさないと。風邪ひいちゃいますよ」
「そーだな」
そう言って、悟空は立ち上がり、三蔵の方は見もせずに歩き出す。
三蔵はその場から動かない。
「おい、どうしたんだよ、三蔵?」
悟浄は三蔵の顔を覗き込み、そして驚愕の表情を浮かべる。
真っ青と言ってもいいほどの顔色に、らしくもなく動揺する。
「おい、三蔵! 何だよ、その顔色! 具合でもワリィのか!?」
悟浄の慌てぶりに、八戒も三蔵の元にしゃがみ込む。
そして、予想以上の顔色に八戒も珍しく慌てた。
「三蔵! ……熱はありませんね……。とにかく宿に戻って休みましょう」
そのやりとりを、何処か不思議そうに見ていた悟空が口にしたセリフに、悟浄と八戒は自分の耳を疑った。
「なぁ、悟浄も八戒もそいつの事知ってんの? 誰だよ、そいつ」
「……え?」
今、悟空は何と言ったのだろう。
「だから、そいつの事知ってんのって」
「……冗談にしては面白くねえぞ、猿」
だが、顔を見れば悟空が冗談を言っている訳ではない事は分かる。
ここにきて、悟浄と八戒は三蔵の顔色の意味を悟った。
重い沈黙が場を支配する。
その沈黙を破ったのは、八戒だった。
「……とにかく、一旦宿に戻って、それから話をしましょう」
ずぶ濡れの悟空と、顔色を失くしている三蔵をこのままにはしておけない。
「そうだな……。三蔵、八戒の言う通り、まずは宿に戻ろうぜ」
悟浄の声に、三蔵は黙ったまま立ち上がり、町の方に歩き出した。