ヒトリ・フタリ



宿に帰りついた後、八戒はまずは悟空を風呂に入れ、三蔵を部屋で休ませた。
三蔵は必要ないと言っていたが、あんな状態では冷静な思考など望めないだろうと思い、半ば強引にベッドに押し込んできた。
大体ここで八戒に押し切られること自体、いつもの三蔵らしくない。
悟空が風呂から上がって、食事を済ませる間に、少しでも調子を取り戻して欲しかった。
「おい、八戒。一体どうなっちまってんだよ」
悟浄がハイライトに火をつけながら、いつになく真剣な声音で尋ねる。
「……悟空は三蔵の事を『誰だ』と言っていました。いわゆる、記憶喪失……だと思いますが」
「俺達の事は覚えてるのにか? 三蔵の事だけ忘れちまうなんて……普通逆じゃねえ?
 三蔵だけは忘れなかったってんなら、まだ分かる気もするけどよ」
「そうなんですよね……」
そう言って、八戒も目を伏せて考え込む。

そう、八戒もそこが納得できないでいた。
悟空にとって三蔵は、何よりも大切な存在のはずだ。
何らかのショックによって記憶を失ったのなら自分達のことも忘れているはずだし、かろうじて記憶が残ったとしても、それこそが三蔵の記憶であるはずだ。
それが今は、三蔵の事だけを忘れてしまっている。
この事実は、悟空の記憶喪失に第三者が関与している事を八戒達に語っていた。
だが、問題のその“第三者”が八戒達には分からない。
悟空を見つけたあの湖が怪しいとは気付いているものの、
具体的な『誰か』の存在までは思い当たらなかった。
これに関しては、三蔵と悟空に話を聞くしかない。

悟空が風呂から戻ったのを見て、八戒は悟浄にそっと話し掛ける。
「悟浄、悟空の方は僕が話を聞きますんで、悟浄は三蔵をお願いします」
「俺に素直に話すとも思えねえけどな」
「大丈夫ですよ、多分」
「そうかぁ? ま、いいけどよ」
悟浄は少し疑わしげな表情を見せたが、八戒の提案通り、三蔵の部屋へと向かった。




コンコン。

「入るぜ、三蔵」
言う前に既にドアを開き、部屋に足を踏み入れている。
いつもなら、ここで三蔵の不機嫌極まりない声と、時と場合によっては銃弾が飛んでくるのだが、今は憎まれ口すら飛んでこない。
これはこれで、何となく寂しいものがある。
そして、悟空の事でこれほど三蔵が精神的ダメージを受けている事が、悟浄は少し面白くない。
三蔵にとっての一番の存在は悟空なのだと、改めて言われている気がして。
悟浄自身、自分の気持ちを押し付けるつもりなどないが、嫉妬を感じてしまうのは仕方がない。

そんな気持ちを押さえ、椅子に座ってマルボロをふかしている三蔵に再び声を掛ける。
「……三蔵。起きてて大丈夫なのか?」
「病人じゃねえんだ、当たり前だろ」
あの顔色はどう見ても病人のようだったが、わざわざ口に出して機嫌を更に悪くする必要はない。
回りくどい言い方は、今の三蔵には逆効果だろうと思い、直接的な尋ね方をする事にする。
「なぁ、悟空のことだけどよ。……なんか心当たりねぇのか?」
三蔵からの返事はないが、そのまま話を続ける。
「お前のことだけ忘れてるなんざ、どう考えたって不自然だろ。妖怪かなんか絡んでんじゃねえ?」
悟浄のその言葉に、三蔵が反応する。
「……人魚」
「は? 今、なんつったんだ?」
“人魚”と聞こえた気がした。……が、唐突に出てきた言葉の意味するところが分からない。
「この町に伝わる伝承で、悟空を見つけたあの湖には人魚が棲んでいるそうだが……」
「人魚なんてマジにいんのか? お伽話じゃあるまいし」
だが、三蔵は考え込んでおり、悟浄の声には答えない。
今話しかけても無駄だと悟った悟浄は、三蔵の思考を待つことにした。






人魚。

悟空が三蔵に話した伝承。
三蔵自身、人魚なんていうものが存在するとは信じ難い。
だが―――湖に落ちたと言っていた悟空。
そして、その後見つけたときには三蔵の記憶を失っていた。
たとえ、人魚ではなくとも、それに類する何者かがあの湖に居るとしか考えられない。
もしも、本当に伝承の人魚なのだとしたら。
何故、悟空は記憶を奪われたのか。
伝承では、人魚は不老不死を与えるのではなかったか。
もちろん、伝承はあくまで伝承だ。むしろ事実とは異なる場合の方が多いのだろうが……。

しかし、ソレが何者だとしても、三蔵はこのままで済ますつもりはない。
よりによって悟空の、三蔵に関する記憶を奪ったのだ。
取り戻すのは当然だが、元凶となったヤツにはそれ相応の報いを受けさせねば気が済まない。
手がかりは、今の所悟空のみだ。
どうやって、ソイツに会ったのか。
悟空が覚えている可能性はかなり低いが、話の断片から多少は推測できるだろう。
三蔵はそう考え、立ち上がると部屋を出ようとする。
「お、おい、三蔵? 何処行くんだよ」
悟浄が慌てて三蔵の肩を掴む。
その手を無造作に振り払い、そっけなく答える。
「食堂に決まってんだろ。バカ猿から色々聞き出さなきゃならんからな」
食堂に居ると断定している辺り、三蔵も既に正常な思考パターンを取り戻しているようだった。





「悟空? ちょっといいですか?」
悟空が目の前の料理をあらかた食べ終わった所で、八戒が口を開く。
「ん? なに、八戒?」
「どうして、わざわざ町を出て、湖になんて行ってたんですか?」
「どうしてって……」
悟空は考え込む。何故、湖に行ったのか。何故、あんな所に居たのか。
悟空には何故だか思い出せない。
気が付いたらあそこにいて、知らないヤツが自分を覗き込んでて……。
……知らない? そう、知らないはずだ。見たこともないヤツ……のはずなのに。
あの時に見た金糸の髪と紫暗の瞳が、網膜に焼き付いているかのような感覚。
キレイな金色の髪。まるで太陽のような……。

……太陽?
悟空の中で、何かが反応した気がした。
太陽。それは悟空が何よりも望んだもの。
自分は、その太陽の暖かな光の中に居たのではなかったか。
なくてはならないものが足りない気がして、悟空の身体が微かに震える。
寒い。心の奥の方が、凍り付いてしまったかのように寒くてたまらない。
このまま放っておかれたら、凍え死んでしまいそうな程。

「……悟空? 悟空、大丈夫ですか!?
ガタガタと震え出した悟空に、八戒が心配そうに声を掛ける。
心配などさせたくなくて、でも、震えは一向に止まらない。
訳の分からない凍えが身体中を支配していく。
その時、悟空の頭に何かが触れる感触がした。
その瞬間、震えが嘘のようにピタリと止まる。
悟空が視線を上げたその先に居たのは……湖で見た男───三蔵だった。


「何震えてやがんだ」
三蔵の声が響く。
悟空はじっと三蔵を見たまま、動かない。
「……おい、どうした」
三蔵が少し不審に思い、再び声を掛けても、悟空は三蔵に視線を固定したままだ。
悟空は自分自身が感じている事が不思議だった。
三蔵の手が触れた瞬間、止まった震え。
三蔵の声を聞く度に、消えていく凍え。
理性が分からなくても、本能が理解する。
自分は彼を……三蔵を知っているのだと。
思い出したい。悟空は心底そう思った。




自分を見たまま動かない悟空を見て、三蔵は一瞬、思い出したのかと思った。
だが、悟空の様子から察するにそういう訳でもなさそうだった。
思い出したと言うよりは、三蔵を見て何かを感じ取ったと言った方がいいのかもしれない。
それでも。湖の時のような瞳で見られるより、遥かにマシだと三蔵は思う。
あんな瞳を向けられるのは二度とごめんだった。
その為にも、手掛かりを見つけなければならない。
“人魚”への手掛かりを。


三蔵はテーブルを挟んで悟空と向かいの椅子に座り、その隣に悟浄も腰を下ろす。
「悟空」
三蔵が呼びかけると悟空は僅かに反応を示したが、どう返せばいいのか分からないらしく黙ったままだ。
三蔵は構わずにそのまま続けた。
「昨日、町で聞いてきた“人魚の湖”の伝承の事は覚えてるのか」
「人魚の湖……? あ、うん、覚えてるけど……」
「言ってみろ」
「え?」
「その伝承の内容だ」
「う、うん」
悟空はよく訳を飲み込めないまま、話し始める。



……それはやはり、昨日三蔵が聞いたものと同じだった。
もちろん、悟浄と八戒には初耳ではあるのだが。
「……その辺の記憶はいじられてねえようだな」
三蔵が小さく呟く。
この伝承自体は、ソイツにとって都合の悪くなるようなものではないということか。
だとすると、この伝承から手掛かりを見つけるのは難しいだろう。
いっそのこと、この伝承に関する記憶も奪われていれば、ここに手掛かりがあると確信できただろうが……。
「悟空、今朝起きてからの行動で、覚えてることを全部話せ」
残るは、悟空がとった行動。
「えっと……、朝は八戒に起こされて、食堂で飯食って、橋が壊れたっつって今日も泊まる事になって、それから……」
「……それから?」
「それから……あれ……? えっと……?」
「ふん……、やっぱりな」
三蔵の予想通りだった。
その後は三蔵と話をしていたのだ。覚えている訳がない。

三蔵は静かに立ち上がり、悟空の腕を掴んで立たせる。
「な、何すんだよ……」
それには答えずに、悟空を引っ張って宿の玄関に向かう。
「おい、三蔵! 何処行くんだよ」
ピンと来た八戒が、悟浄の質問に代わりに答える。
「湖ですよ。悟空が通ったであろう足取りを辿るんです」
「……ああ、なるほどな」
八戒と悟浄も、前の2人に遅れないよう、後に続いた。




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