ヒトリ・フタリ


三蔵は悟空の腕を掴んだまま、街の出口のほうへ歩く。
悟空が実際にどの道を通ったのかは分からないが、出ていった方向から考えてそう間違ってはいないはずだ。
「何か思い出しそうになったら言え」
そう言ってはみるが、町中ではそう期待できないだろう。
記憶の断片があるとすれば、それは……。

案の定、何の収穫もないまま湖に到着する。
そこでようやく三蔵は手を離した。
余程強く掴んでいたのか、悟空は掴まれていた箇所をさすっている。
宿からここまでずっと引っ張られて歩いていたせいか、悟空は咽喉の渇きを覚えた。
湖のほとりに近付き、水がキレイなのを確認して、手ですくって飲もうとした時。
悟空の手が止まる。
同じ事がなかっただろうか。ここで。
「? おい、どうした」
水をすくう形のまま止まってしまった悟空に、三蔵が尋ねる。
「なんか……前にも同じ事した気がする……」
「何だと?」
「ここで……そう、咽喉乾いて……」
思い出さなきゃならない。手掛かりを。
大事なものを取り戻すための手掛かりを……!



必死で記憶の糸を辿ろうとしている悟空を、三蔵達は黙って見つめる。
今ここで余計な口を出せば、悟空の気を散らして再び記憶は沈み込むだろう。
悟空は思い出そうとしている。ここであった出来事を。
微かにでも思い出せるのは、三蔵とは直接関係のない記憶だからなのか。
あくまで、ソイツが奪いたかったのは『三蔵に関する記憶』だけなのだろうか。
だとしたら、それは何故……?
記憶を奪いながらも、全くの無傷で三蔵の元に悟空を返した事といい、相手の目的が読めない。


「……三蔵?」
考え込んでいる三蔵に、八戒が遠慮がちに小声で話し掛ける。
三蔵は視線を八戒に向ける事で続きを促した。
「その“人魚”への会い方なんですけどね。
 伝承では子供が溺れて気を失い、気が付いたら洞窟にいて、そこに 人魚がいた……」
「ああ」
「ただ、これでは悟空の場合は成り立たないと思うんですよね」
確かに、悟空がこんな湖で溺れるとは思えない。
そう思い、悟空の方に再び視線を向けると、悟空が目を見開いてこちらを見ていた。
「どうした」
「……溺れる……子供……」
どうやら2人の話が聞こえていたらしかった。
この話が悟空の記憶に何か引っ掛かったのだろう。悟空は湖をジッと見つめている。




子供……溺れる……水……。
悟空の中でグルグルと単語が回る。
目に映っている湖の風景が揺れた気がして、過去の風景と重なる。
その時。子供が見えた。溺れている子供が。
「子供だ……。そう、子供だよ!」
突然叫んだ悟空に三蔵は歩み寄り、悟浄と八戒は顔を見合わせている。
「子供がどうしたんだ」
三蔵に尋ねられ、悟空は一瞬戸惑いながらもそれに答える。
「ここで水を飲んで、座ってたんだ。
 そしたら、何かが落ちる音がして…………そっちを見たら子供が溺れてて……」
三蔵達は黙って、一生懸命に思い出しながら話す悟空に耳を傾けている。
「それで、俺、助けなきゃって思って……。泳いでったんだ。
 で、その子のトコ着いて……手ェ伸ばして……」
そこで悟空の声が止まる。

「……手を伸ばして、どうしたんだ」
「手、伸ばして、それから……」
それから……どうしたんだっけ? 掴んだはずだ、その手を。
でも。悟空は自分の手を見つめる。
掴んだ感じが、手に全く残っていなかった。
掴まなかったのか? そんな筈ない。泳いでいったのは確かなのだから。
悟空は手を見つめながら、何とか思い出そうとする。
自分はあの時、どうしたのか。そして、子供はどうなったのか。
子供を見つけて……泳いで……そして手を掴もうと……! そう、掴もうとした。でも……。

「『掴めなかった』んだ……」
悟空がポツリと言った言葉に、三蔵は眉を寄せる。
「掴めなかった……?」
「うん……。手を掴もうとして、そしたら……!
 そうだ、消えたんだ! 俺、掴んだハズなのに……!」
「消えたァ!? 子供がか?」
悟浄が、信じられないといった様子で声をあげる。
「消えたって、どういう風にですか?」
「こう、手を掴んだ瞬間に、煙かなんかみたいに……」
不安げに悟空は話す。こんな突拍子もない事を信じてくれるだろうかと。



「……どう考えても、罠以外の何物でもありませんね」
八戒が三蔵に向き直りながら言う。
「ああ……」
だが、悟空がここに来たのは三蔵とケンカしたからだ。
ケンカの原因が伝承にあったとしても、予測を立てるのは難しい。
なら、最初から悟空を狙っていた訳ではなく、たまたまここに悟空がいた、ということなのだろうか。
そうだとすれば、今も、この場所に居る三蔵達の様子を何処からか見ている可能性は高い。

三蔵は辺りを見回す。
何かの術の類だとすれば、何処かに媒体がある筈だ。
悟空が見つかった時、濡れてはいたものの、ちゃんと全身が地面の上に投げ出されていた。
それなら、その媒体はソイツの居場所に直結している、という事だろう。
どんな小さな物も見逃さないように、三蔵は注意深く周りの様子を探る。
その時、何かが視界に引っ掛かった気がした。
それに向かって、慎重に歩み寄る。



そこに在ったのは、“うろこ”だった。魚のうろこにしては少し大きい。
八戒達も三蔵の後ろから覗き込んでいる。
「うろこ……ですか。あからさまにアヤシイですねぇ」
「しっかし、よくこんなもん見つけたな。さすが三蔵サマってか?」
草の陰に隠れており、余程目を凝らさないと見つけられるような代物ではない。
三蔵自身、あの位置から何故眼に入ったのか少々不思議なくらいなのだ。
だが、今はそんな事はどうでもいい。
これが、媒体である事はほぼ間違い無いだろう。
そして、これを通してソイツは今も自分達を見ているのかもしれない。

「……で? こっからどうすんだ?」
悟浄が誰にとも無く尋ねる。
「そうですねぇ……。壊し……ちゃダメでしょうね、やっぱり」
ただの結界ならともかく、これ自体が入り口のようなものなら壊してしまっては
それこそ八方塞がり状態に戻ってしまう。
湖の中にも入り口はあるのかも知れないが、潜ったところで見つかるとも思えない。
おそらく、このうろこにしろ湖の中にしろ、何かの術で空間を歪めてあるのだろう。
しばらく自分の思考に沈みこんでいた三蔵が、胸の前で手を組み、何事かを呟き始める。
八戒と悟浄にはあまりよくは聞き取れないが、どうやら真言であるようだった。
「そんなんで、何とかなんのか?」
「さぁ……。でも、僕達では分かりませんし、三蔵に任せるしかないでしょう」
ちらりと八戒が悟空の方に目を向けると、悟空は心配そうな目で三蔵を見つめていた。



悟空は三蔵から目を離す事が出来なかった。
湖で目覚めたあの時。
あの時はただ、状況が分からなくて、目の前にあった知らない顔に驚いて振り払った。
でも、あの時の彼の表情が悟空の脳裏から、いつまで経っても消えない。
そしてその表情を思い出す度に、胸に小さく、しかし鋭い痛みが走った。
その痛みの正体が、悟空には分からない。それが、悟空にはもどかしかった。

三蔵が真言を唱え始めて、数分が過ぎた頃。
うろこが淡い光を帯び始め、微かに宙に浮く。
そして三蔵達の周りにまるで拒絶反応のようにピシリッ、と空気の裂けるような音が幾つも響いたかと思うと、ぐにゃりと景色が歪んだような感覚がして、それと同時に目を灼かんばかりの閃光がうろこから発せられた。








少しずつ光が弱まっていく。
だが先程の光の強さに、三蔵の視力は未だ戻らない。
ザァァァッと水の落ちるような音が聞こえ、ここが先程の湖のほとりではない事を三蔵に教える。
そこに、声が響いた。明らかに、悟空達とは違う声が。
「……ここに来たかったんでしょう? 来て……どうするの?」
口調は優しげであったが、声の冷たさは隠しようもない。

「……てめえか」
三蔵の声に、抑えきれない怒りの色が混じる。
「記憶を盗るなんてセコイ真似しやがって。目的は何だ」
「目的……?」
「とぼけんじゃねぇ。猿の記憶を盗って、どうしようってんだ」
「別にどうもしないわ」
「何だと……?」
「私の目的は彼の『大切な人』の記憶を奪う事……。その先をどうするかなんて考えてないわ」
「……どういう事だ」
予想外の返答に、三蔵は自分の考えを修正せざるを得なかった。
三蔵にしてみれば、悟空の記憶を奪い、その記憶を使って何か企んでいるのではないかと考えていたのだ。
だが、声からして女性と思われるその人物は『記憶を奪う事』それ自体が目的だと言ったのだ。
もちろん、その女の言う事を鵜呑みにするほど三蔵はおめでたくはない。
しかし、彼女の声と口調を聞く限りでは、それは本当の事らしかった。
目がまだよく見えていない分、他の感覚は非常に鋭敏になっている。もちろん聴覚も。
だからこの判断は、おそらく間違ってはいないだろう。

三蔵は質問を切り替える。
「じゃあ何故、記憶を奪いたかったんだ」
「だって、苦しいでしょう……? 失くしたほうも、失くされたほうも……」
「……何だと?」
「苦しめばいいのよ、人間なんてみんな……」
それだけ言って、人魚は固く唇を結んだ。

沈黙が場を支配する。
その間に、三蔵の視力は少しずつ機能を回復している。
そして、完全に回復した時、三蔵は自分が居るのが広場のような場所だと知った。
先刻から聞こえていた水音は、中央の噴水のものであるらしい。
周りを見渡すと、案の定悟空達はいなかった。
気配を感じなかったから、分かってはいたのだが。
居るのは自分と、蒼い髪に蒼い瞳、身体のラインに沿った白いドレスを纏った女性。
袖口と裾がふわりと広がっているのが、どことなく優美な印象を与える。
そして、その印象と整った容貌に不釣合いなほどの冷たく、空虚な瞳。
改めて三蔵は目の前にいる、一連の元凶と対峙する。



視力が回復した以上、くだらない時間稼ぎなど必要ない。
素早く懐からS&Wを取り出し、銃口を突き付ける。
「さっさと猿を元に戻せ。バカ猿を更にバカにしやがって。飼い主の迷惑ってモンを考えろ」
だが、三蔵に睨み付けられ、銃口を向けられてもなお、彼女の瞳は一片の揺るぎも見せない。
悟浄あたりが見たら、感心して拍手の一つもするかもしれない。
三蔵としても、今はまだ実際に撃つ訳にはいかなかった。
彼女を殺せば記憶が戻るなんていう、単純な思考は三蔵は持ち合わせていない。
記憶を盗った、その方法が分からない限り、迂闊な事はできないのだ。
もちろん、その事を承知しているからこそ、彼女も平静を保っているのだろう。
見透かされている、そんな気がして表情にこそ出さないものの三蔵に苛立ちが募る。

「……何故、そこまでこだわるの……?」
不意に投げかけられた問いに、三蔵は意味を掴みかねた。
「こだわる……だと?」
「そう、あなたにとっても、そんなに大切なものなの……?」
三蔵は咄嗟に返せなかった。それは、三蔵にとっても完全に認識しているものではないのだから。
「……貴様には関係ない」
「人は裏切るものよ。どんなに信じていても、信じていたくても……」
「くだらねぇな」
三蔵は吐き捨てる。
「貴様の持論などどうでもいい。
 何に裏切られたか知らんが、テメエの価値観で他人を振り回すんじゃねえよ」
その瞬間、女性の周りの空気が変わった。
刺すようにチリチリとした空気が辺りに立ち込める。
「あなたに何が分かると言うの……! 人間なんかに何が……!」
『人間なんか』という言い方をする以上、目の前の女が人間外の生き物である事は間違いない。
しかし、妖力制御装置をつけている風でもない。妖怪の気配もしない。

「貴様……何者だ」
「……あなたも知っているはずよ。彼は知っていたもの」
『彼』というのは悟空の事だろう。だとするなら……。
「……“人魚”か……」
「そうよ。この湖から産まれた人魚……」
「湖から産まれた、だと?」
三蔵の問いかけに人魚は答えない。
ただ、凍てついた表情の中に蒼く激しい炎を隠して佇んでいる。



埒があかない、と三蔵は内心で舌打ちする。
いっそ、この人魚が自分に対して何か仕掛けてくれば解決の糸口も見つけようがあるのだが、そういう訳にはいかないらしい。
こちらから仕掛けてもいいのだが、相手の能力も見えていない。
何しろ、全く異質の存在であるのだから。
後は会話から情報を少しでも引き出すしかない。

三蔵は人魚から視線と銃口を外さぬまま、思考を巡らせる。
湖から産まれたのだ、と言った。
それは、精霊などといった類のものなのだろうか。或いは、悟空のような……?
三蔵にしても今までに関わった事のないケースなだけに、うまく考えを纏め上げる事が出来ない。
しかし先程のセリフから、人間に対する激しい憎しみと嫌悪は確実に感じられた。
それが一体どんな過去に起因するものなのか、そこに糸口を見つけ出せないだろうか。
どちらにしても、このまま睨み合っていても事態の進展は見込めない。

「……貴様は何がしたいんだ。復讐か? 自分を裏切った『誰か』に復讐でもしてぇのか」
人魚は答えず、三蔵を見つめる冷たい瞳に剣呑さを加える。
「さっきも言ったが、そんなくだらねえ事に人を巻き込むな。
 復讐したいなら、ソイツに直接やれ。八つ当たりなんざ迷惑なんだよ」
「八つ当たり……? 八つ当たりなんかじゃないわ。だって……あなたは人間でしょう?」
「それがどうした」
「人間全部に復讐してやりたいのよ……。自分勝手で、汚くて、残酷で……!」
人魚の瞳に感情の揺らぎが見えた。そこを見逃さず、更に言葉を引き出す。
「そこまで言うからには、根拠があるんだろうな。貴様の言う『自分勝手で、汚くて、残酷』な人間とやらの」
「……あんな、あんな仕打ちを出来るヤツラが、キレイだとでも言うの……!」
「あんな仕打ち……?」
「そうよ……。……聞きたいのなら聞かせてあげるわよ。人間がどんなに醜い生き物なのか……!」
蒼い瞳に静かな激情を揺らめかせながら、彼女は語り始めた。 200年前の真実を……。




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