ヒトリ・フタリ


「おい! おいったら! 大丈夫かよ!?
上から降ってきた聞き慣れた声で、三蔵は目を覚ました。
眼を開けると、悟空が心配そうな顔で三蔵を覗き込んでいる。
その表情に、三蔵は安堵を覚えていた。もちろん、本人に自覚はない。
体を起こすと、服が貼り付くイヤな感触がして、思わず眉を顰める。
悟空を見つけた時と同じように、三蔵も全身が濡れていた。
噴水に投げ込まれたのだから、当然と言えば当然だ。

「なあ、大丈夫なのか……?」
悟空がおずおずといった感じで尋ねてくる。
「別に何ともない」
「うん……」
三蔵のそっけない答えに、悟空は少ししょげたようになる。
いつもの悟空なら、三蔵がそっけないのは当然の事のように受け止めているが、今の、三蔵の記憶のない悟空の場合は三蔵の言葉と態度を額面通りに受け取ってしまう。
それに気付き、三蔵は悟空に気付かれない程度に小さくため息をつき、悟空の頭にポンポンと手を置く。
その仕草に、悟空の表情が幾分和らぐ。

ふと、見回すと八戒と悟浄の姿は無かった。
「おい、あいつらはどうした」
「あいつらって、八戒と悟浄の事?」
「ああ」
「八戒達は、町で伝承の事もう少し調べてみるって。
 アンタが戻ってきたら2人で先に宿に帰ってて下さいって言ってた」
要するに、三蔵が戻ってきても事態は解決していないだろうと踏んでいるようだった。
実際その通りなので、腹は立つものの口には出さなかった。
八戒の言う通りに動くのは本意ではないのだが、いつまでも濡れたままでいるのも気持ち悪い事は確かだ。
「ちっ……。戻るぞ、悟空」
そう言うと三蔵はゆっくりと立ち上がり、町の方に歩いていく。
「あ、うん」
悟空がついてきているのを一度確認し、その後は後ろを見ずにひたすら歩を進めた。
湖で見つけてから、そして今も、悟空が三蔵の名を一度も呼んでいない事に強い苛立ちを感じながら。




宿に帰りつき、三蔵が風呂から上がったところに八戒と悟浄が戻ってきた。
「ああ、もう帰ってたんですね。どうでしたか?」
そう言ってはみたものの、2人の様子を見れば大体分かる。
「幾つか分かった事はあるが、根本的な解決はまだだ」
「そうですか……。とにかく、食事をとってから話しましょう。もうこんな時間ですし」
もう日はとっくに沈んでしまって、暗闇が町を支配し始めている。
だが、悟空は既に食事をとっているが、三蔵達3人は夕食すらとっていないのだ。
それどころでは無かったので仕方ない事ではあるのだが、食事抜きでは些か活力も落ちてしまう。
第一、そろそろ悟空の腹も食物を要求し始める頃だろう。
他の3人にも異存は無く、少し遅めの夕食をとる。
悟空がいつになくおとなしいため、その食事は思いの外静かだった。
それに強い違和感を感じる辺り、いつのまにか喧騒に慣れてしまっている自分を
八戒も、そして三蔵も再確認していた。





食事の後、4人は三蔵達の部屋に集まった。
八戒がコーヒーを全員に手渡し、自分も椅子に腰掛ける。
「……で、三蔵の方は人魚さんに会えたんですか?」
「ああ」
「美人だったろ? 何しろ人魚姫だかんな」
悟浄の発言をあっさり黙殺し、三蔵は湖の中での事を簡潔に話す。
伝承の真実。人間への憎しみ。結界による封印。永い孤独……。


話し終えると、3人は一様に複雑な表情を見せる。
「そうだったんですか……」
「……ひでえことしやがる」
八戒と悟浄がそう感想を漏らし、悟空はただ下を向いている。
自身と重ね合わせているのかもしれない。
その空気を嫌い、三蔵は今度は八戒に話を促す。
「お前らの方はどうなんだ。町で調べてきたんだろ」
「ええ。こちらも幾つか分かりましたよ」
そう言って、八戒は町で調べた事柄について話し出す。



「実は、悟空のようなケースが以前にも何度かあったそうなんですよ」
「前にもあっただと?」
「ええ。話に残っているので一番古いのは、大体100年くらい前だそうです」
「あの湖ってそのずっと前から立ち入り禁止になってたらしいんだけどよ、
 そういうの無視するヤツって、ぜってえいつの時代にもいるんだよな」
悟浄が言った瞬間に、他の3人の視線が悟浄に集中する。
「……なんで俺を見んだよ」
「いえ、別に深い意味はありませんよ?」
悟浄は心の中でだけ「嘘つけ」と反論する。
そんな悟浄の内心を読み取ったのか八戒は少しだけ苦笑するものの、そのまま話を戻す。

「湖に入り込んだ人が記憶を失くす事件が、相次いだそうです。それも、大切な人だけの記憶を。
 逆に興味を引かれて自ら入り込む人も結構いたようで……」
「死者は?」
「それは出ていないそうです」
「ふん、なるほどな」
人魚の復讐。大切な人間の記憶を奪う事。
そんな残酷な事をしても、命を奪う事はしなかった。
死ぬよりつらい目に合わせるためか、それとも、人魚自身気付かぬ心の奥底に眠る人間への憧憬からか。
三蔵には分からないが、話をした印象からは後者のような気がした。

「なあ、八戒」
今まで黙っていた悟空が、不意に口を開く。
「何ですか、悟空?」
悟空に話す時は、八戒の口調も自然に優しくなる。
「その、記憶を失くしたヤツらさ、どうしたんだ? その……思い出したりしたのか……?」
「……いえ、記憶を取り戻した例はないそうです」
「そっか……」
また俯いた悟空を見て、三蔵がそっけない口調で声を掛ける。
「何の為に俺達が動いてると思ってやがる。余計な心配すんじゃねえ」
「……うん、ごめん」
「謝るな」
「ご、ごめん……あ。」
慌てて口を押さえる悟空を見て、三蔵の顔に苦笑が僅かに浮かぶ。
もちろんそれはほんの一瞬で、誰にも気付かれない内にその表情を消し去ってしまう。

三蔵は視線を八戒に戻し、話の続きを促す。
「事件は一旦は落ち着いていたらしいんですが、時を置いて再び事件が何件か起きたようです」
「そうだろうな」
記憶は風化するものだ。その時は注意していても、時間が経てばそれを忘れる。
人魚を封印した直後は、誰も湖には近寄ろうとはしなかっただろう。
だが200年前に起こった悲劇も、100年も経てば忘れられ、何も知らない村人は湖に迷い込む。
そして、事件は起こり、また風化され、繰り返される。
果てしのない悪循環。それは一種、人間の愚かさの証だろう。
「バカくせえ。永遠に同じ事繰り返してるつもりか、ここの連中は」
「まあまあ、三蔵。……ただ、『永遠に』は続かないと思いますよ」
「どういう事だ」
「それがですね……」
八戒が珍しく言葉を躊躇っている。
それを見て取って、悟浄が話を引き取る。
「色んな文献調べてみて分かったんだけどよ。人魚っつーのは、いわゆる精霊の一種なんだと」
悟浄は文献で得た情報を整理しながら話し出した。



自然の中でも、特に清浄な場所や物には精霊が宿るらしい。
その数多の精霊の一種として、人魚は存在する。
その精霊は幼い姿で産まれ、妙齢まで成長した後は姿は変わらない。
自然に宿った生命なので、外的に殺す事などは出来ない。
だが、不老ではあるものの決して不死などではなく、寿命は存在する。
寿命を迎えた精霊は静かに消滅し、産まれた場所へ還るのだという……。



「その寿命ってのがさ、人間みたいにそれぞれ個人差はあるみたいなんだけどよ……」
「およそ…………200年前後なんだそうです」
「……何だと?」
あの人魚が産まれ、村人によって封印されたのが、約200年前だったはずだ。
だとするなら、あの人魚の寿命はほとんど残っていない事になる。
ここに来て、三蔵は人魚が自分を帰すのを迷っていた理由を悟った。
人魚は、気付いていたのかもしれない。自分の寿命がもうすぐ尽きる事を。
寿命のほとんどを、封印された中で独りで過ごしてきた人魚。
同情するつもりなどないが、それでも閉じ込めた連中への嫌悪は一層強くなる。

「……いつ消滅してもおかしくないって事か」
三蔵はそう呟くと、席を立つ。
「何処行くんですか?」
「湖だ。時間がねえ」
そう、時間がない。人魚が消滅しない内に結界を解かねばならない。
三蔵がそう思った理由は2つある。
1つは、同じ消滅するのなら“自由”の中で消滅させてやりたいと思った事。
自分らしくないと思わないでもないが、憎しみと哀しみに染まったまま消滅させたくはなかった。
本来は、自然が産んだ清浄なる精霊なのだから。

もう1つは、悟空の記憶だ。
人魚が消滅した際、記憶が戻るか戻らないか今の状態では判断できない。
もしも戻らなかった場合、人魚が消滅してしまえば、今度こそ完全に手の打ちようがなくなる。
悟空の中の三蔵の記憶まで、永遠に消滅してしまう事になる。
それだけは、絶対に避けねばならない。



ドアに向かう三蔵に悟空の声が重なる。
「俺も行く!」
そう言って立ち上がり、悟空は三蔵の後ろに続こうとする。
「三蔵、悟空! もう外は真っ暗ですよ? 明日、日が昇ってからの方が……」
その言葉にノブを回そうとした手を止めて、しかし振り向きはせずに言う。
「言っただろ、時間がない。明日まで待って、手遅れだったらどうする」
「それはそうですが……」
「いつになく優しいじゃん、三蔵サマ?」
三蔵は視線だけを悟浄に向け、先刻考えてた事とは違う事を言い放つ。
「うるせえ、こっちは水浸しにまでされてんだ。今までのが全部無駄足でしたじゃ済まねえんだよ」
「ふ〜ん? ま、そういう事にしとくか」
含んだ言い方に三蔵の眉が上がる。
いつもならここで銃弾の一発や二発くれてやるのだが、生憎無駄な事をしている時間はない。
そのままドアを開け、部屋の外へ出て行き、それに悟空が続く。

部屋に残された悟浄と八戒は顔を見合わせる。
「絶対、銃弾が飛んでくると思ったんだけど……」
「そう思うなら、わざわざ怒らせるような事言わないで下さいよ」
そう言う八戒の声は、かなり呆れの色を多く含んでいる。
「まあ、これも俺の楽しみのひとつだし?」
「悟浄が楽しむのは自由ですが、僕に火の粉が飛ぶような真似はしないで下さいね?」
言われなくてもそんな恐ろしい真似など出来るわけがない。
悟浄はそう思ったが口には出さず、話題を元に戻す。
「……で、俺らはどうするよ?」
「そうですね……。結界破りじゃ、僕らが役に立つとも思えませんが、行かない訳にもいきませんしね」
「……だな。じゃ、そうと決まればチャッチャと行ってくるか」
「そうですね」
悟浄と八戒は三蔵達より少し遅れて宿を出発し、目的地───湖に向かって歩き出した。





三蔵が歩く斜め後ろを悟空がついてきていた。
町はすっかり夜の闇に包まれ、頭上の少し欠けた月だけが淡い輝きを放っている。
いつもは隣にある影が、今は少し離れたところに同じ間隔でついてくる。
それだけの事で、こんなにも湧き上がってくる不快感。
不快感は苛立ちを呼び、苛立ちは鈍い痛みを起こさせ、その痛みで不快感は更に増していく。
悪循環を断ち切れずにいるのは、三蔵も同じだった。
その悪循環の元はといえば、三蔵の振り撒く不機嫌オーラに気圧され、黙り込んだままだ。
免疫の無い今の悟空では、仕方ない事ではある。
しかしそれが、ますます三蔵の不機嫌に拍車をかけていく。


「悟空」
「え、な、何?」
急に声を掛けられて驚いたのか、少し裏返りかけた声が返る。
だが、三蔵の口から次の言葉は出ない。
「あ、あの……、何……?」
それでもやはり三蔵は黙ったままひたすら歩いている。
悟空はどうすればいいのか分からず、再び口を閉ざす。

「……何黙ってやがる」
「え? だって……」
「いつもは『黙れ』と言っても黙らねえだろ、てめえは」
悟空は三蔵の意図が飲み込めず、どう返事をしていいのか分からない。
「……怯えてんじゃねえよ……」
聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で、三蔵がポツリと呟く。
普通の人間なら聞こえなかったかもしれない。
だが、悟空の鋭敏な聴覚は確かに三蔵の呟きを捉えた。
その声色に、ほんの少しだけ、傷付いているような色が混じっていた事も。

悟空は歩く速度を速め、三蔵の隣まで来ると小さく呟く。
「……ごめんな」
「何がだ」
「分かんないけど……そう思ったんだ」
「ふん……」
三蔵から出た言葉はそれだけだったが、取り巻く空気が先刻よりも柔らかくなった気がした。
それから湖に着くまで、悟空はずっと三蔵の隣を歩いた。
悟空は何だか居心地が良いような、くすぐったいような、そんな感じを覚えていた。




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