ヒトリ・フタリ


「おい、悟空!」
手の中に宝石が消えた瞬間気を失った悟空に、三蔵は呼び掛ける。
「……大丈夫よ、記憶が溶け込めばすぐに目が覚めるから」
その人魚の言葉を実証するかのように、悟空の瞳がゆっくりと開かれていく。
三蔵達3人は、その様子を息を詰めたまま見つめている。
やがて、悟空の瞳の焦点がある1点に結ばれた。

「……三蔵……?」
聞き慣れた声が、聞き慣れた名前を紡ぐ。
それだけの事が、こんなに自分にとって重要だとは、三蔵は知らなかった。
悟空が記憶を失い、三蔵の名を呼ばなくなってから1日も経ってはいない。
それにも関わらず、三蔵にとってはひどく長い間聞いていなかったような気がした。
今まで当たり前だった事が、どれだけ幸せな事だったのか。
理解しているつもりで、理解していなかったのかもしれない。



悟空は、黙っている三蔵を不安げに見つめていた。
……怒っているのかもしれない。……呆れているのかもしれない。
悟空は“三蔵の記憶を失っていた間”の事を覚えている。
だからこそ、どう言っていいのか分からない。
三蔵を傷付けた。三蔵の手を、自分は振り払った。
もう一度、手を差し伸べてくれるだろうか。自分が手を伸ばしたら、その手を取ってくれるだろうか。
怖かった。もう、振り向いてもらえなくなる事が。



三蔵と悟空が黙り込んだまま、シンとした空気だけが辺りを埋め尽くしている。
人魚はじっと2人を見つめているし、悟浄と八戒もあえて口を開かずにいる。
沈黙を破ったのは三蔵だった。
「この……」
「……え……?」
いつの間にか俯いてしまっていた悟空は、三蔵の声で顔を上げる。
「この……バカ猿!!
言うと同時に、ハリセンが悟空の頭を直撃する。
「……いってー! 何すんだよ、三蔵!?
「何すんだよじゃねえよ! 散々人を振り回しやがって!!
「……ごめん、三蔵」
「……ふん、面倒も慣れちまうと怒る気も起きねえがな」
「……怒ってんじゃん」
「何か言ったか?」
三蔵の『いつも通り』の不機嫌な声に、ブンブンと首を振りながら、悟空は嬉しそうに笑っている。
その顔を見て、三蔵の表情も少し柔らかくなる。
ようやく、『2人』に帰れたような気がした。

三蔵と悟空のやり取りを見て、悟浄と八戒も顔を見合わせ、複雑そうに笑う。
「やっと、戻りましたねぇ……」
「そうだな。……けどよ、ハリセンで愛情表現するヤツなんて、あの最高僧サマくらいのモンだよな」
「はは、いいんじゃないですか。それで通じてるんですし。通じるのも、悟空だけでしょうけどね」
「まあな。おーおー、堂々といちゃつきやがって」
「ホントに。でも、あれをいちゃついてると取る辺り、僕らも感化されちゃってますよねえ」
確かに、通常の恋人達の『いちゃつく』という行為からは程遠い。
それでも、あの2人の場合はいちゃついてるように見えるのだから不思議である。
「……ま、元のさやに収まって良かった……んだよな」
「良かったんですよ、きっと……」
自分達の方を見てはくれなくても、あんな顔でいられるよりずっと良い。
悟浄と八戒は、今の2人を見て素直にそう思う事が出来た。




悟空の記憶が完全に戻っているのに安堵すると、三蔵は人魚に向き直る。
「確かに、記憶は受け取った。……これから、どうするつもりだ」
「これからはないわ」
「……何?」
「ないって、どういう事だよ!?
悟空が身を乗り出して人魚に尋ねる。
「そのまま、言葉通りの意味よ。もう、私の『これから』の時間は……ないの」
人魚は、少し哀しげな微笑を浮かべながら言葉を続ける。
「……分かるの。還る時が来るのが。もうすぐ……夜が明けるわ」
そう言って東の方向に視線を向ける。
その意味を、三蔵達は悟った。
太陽が昇る時、人魚の寿命が尽きるのだと。



誰も言葉を発さないまま、夜明けの時は刻一刻と近付いていた。
不意に、人魚が誰に話し掛けるともなく呟く。
「……私の産まれてきた事に……意味はあったのかしら……」
「産まれてくる意味なんざ、誰にもねえよ」
「あなたにも……?」
「ああ」
「じゃあ、どうして……」
言葉は途中で途切れたが、次に続く言葉は分かる。
「意味なんてモンは、与えられる物じゃねえ。見つけるか、さもなきゃ作ればいいだけの事だ」
「作る……?」
「自分の物なんだからな。自分で勝手に作ればいい。否定するバカなんざ放っとけ」
淡々とした言い方の中に柔らかさを感じて、人魚の表情が微かに緩む。
「そうね……。あと少ししかないけど、私も作ってみようかな……」
そう呟いて、人魚は今までとは全く違う優しい笑みを初めて浮かべた。






そして。やがて東の空が白み始める。
「お別れ……ね」
「あ、あのさ! これ、『終わり』じゃないと思うんだ。
 理由なんて分かんないんだけど……。何て言うか……えっと……」
悟空の舌足らずな言葉を、三蔵が引き取る。
「おまえは湖に『還る』だけだろ。死ぬ訳じゃねえ。また……産まれてくる」
「……ありがとう。こうして、光の中で還れて良かった。凍った気持ちのままじゃなくて……」
そう話す間にも、人魚の身体は薄く透き通ってきている。
「ねえ、産まれた意味、考えたの。私が産まれたのは……きっと…………」
そこまで言うと、人魚は微笑み、朝日の光の中に静かに溶けていった……。



「……なあ、三蔵」
「何だ」
「幸せ……に、なれたのかな」
「……笑ってただろ。少なくとも、憎悪の支配からは解放されていたはずだ」
「うん、そだよな……」
悟空は少し安心したように頷くと、もう一度三蔵に向き直る。
「どうした」
「三蔵……ごめんな。俺、ヒドイ事いっぱい言って……」
「……つまらねえ事いつまでも気にしてんじゃねえよ。脳の許容量オーバーしても知らんぞ」
本当はつまらない事ではないのは明らかだが、こうでも言わなければそれこそずっと気にし続けるだろう。
「何だよ、それー!」
膨れる悟空が、何だか懐かしいと三蔵は感じた。これは、気を許している証拠なのだから。

「ボーっと突っ立ってると、ここに置いてくぞ。さっさと来い、悟空」
三蔵はそう言って、踵を返す。
「え、もう行くの?」
悟空は湖を見つめ、少し躊躇っている。
「来たけりゃ一旦身体を休めてからまた来い。どのみち、橋が直らねえと出発できねえからな」
「そうだな、また、来ればいいんだよな」
三蔵の言葉の意味をちゃんと受け取り、悟空は三蔵の後に続く。




「僕らも帰りますか」
「何か存在を忘れられてる気がするけどな」
「……まあまあ、でも見届けとかないと落ち着かないでしょう?」
「そりゃそうだけどよ」
悟浄はまだ不満げに、それでも宿の方向に足を進めている。
「今回は三蔵と悟空の問題でしたから、仕方ないですよ。
 それに、こんな状況で割り込む気にもなれませんし……」
「ってーか、ここで割り込んだら、まるっきり悪者じゃねえ? 損な役回りだよな」
「全くですね」
八戒が苦笑しながら、悟浄に同意を示す。
「ま、逆転も、難しいけど有り得ないわけじゃねえし。諦めるつもりもサラサラねえけどな」
「それに関しても同感ですよ、悟浄」
悟浄と八戒は顔を見合わせ笑うと、それぞれ前を歩く2人の片方に心の中で宣戦布告をした。






宿に帰った後、三蔵達4人はそれぞれの部屋に戻り、睡眠をとった。
何しろ、昨夜は完全に徹夜だったのだ。身体がとにかく休息を必要としていた。



三蔵が目を覚ました時、既に日は真上近くまで昇っていた。
反対側のベッドでは、悟空が眠っている。
三蔵は一通り身支度を整えると悟空のベッドに腰掛け、右手で悟空の前髪に触れる。
すると、悟空が僅かに身じろぎし、ゆっくりと瞼が開かれていく。
「……さんぞ……?」
如何にも寝惚けているといった感じで、悟空が三蔵の名前を呼ぶ。
その響きが、三蔵の中に確かなものとして溶け込んでいく。
「……湖、行くんじゃねえのか」
「うん、行く!」
悟空が、ガバッという音が聞こえる勢いで飛び起きる。
「すぐ着替えるから! ちょっとだけ待ってて、三蔵!」
「5分以内に用意しろ」
「うん!」
悟空は元気に返事を返し、いつもからは考えられないほどテキパキと身支度を始めた。


本当に5分で身支度を終え、悟空は三蔵と共に宿を出て湖に向かった。
湖に用があるわけではない……が、もう一度、見ておきたかった。
「……三蔵」
「何だ」
「あの人魚さ……最期に言ってただろ? 自分の産まれた意味作ったって」
「ああ」
「あれってさ、ひょっとして…………」
悟空の言葉が不自然に途切れたのを不審に思い、三蔵が悟空に視線を向ける。
「……何でもない。いいや、もう」
三蔵は眉を寄せるが、追求はせずにまた視線を前に戻す。

悟空は、考えていた。最期に人魚が見せた微笑み。
あれは、三蔵に向けられていたのではなかったか。
あの人魚は、もしかしたら三蔵を……と思ったのだ。
しかし、それが当たっていたとしても、今となってはどうしようもない。
人魚は、還っていったのだから。
200年間孤独と憎しみに苛まれていても、あの最期の瞬間、人魚が幸せになれたのならそれでいいと思った。



湖に着き、悟空はほとりに腰を下ろし、三蔵はその横に立っていた。
「……なあ、三蔵。俺さ、思い出したんだ」
「何をだ」
「夢」
「……夢?」
「うん。三蔵に人魚の話した夜さ、俺、夢見たんだ」
三蔵は黙ったまま、悟空の話に耳を傾けている。
「女の人がさ、泣いてるんだ。『憎い』って、『全てが憎い』って……」
悟空は湖を見つめながら、話を続ける。
「俺、朝に目ぇ覚めた時、ほとんどそれ覚えてなかったんだ。
 でも、あの宝石を受けとって三蔵の記憶が戻った時一緒に思い出したんだ。あれ、あの人魚だったのかな」
……もう確かめる術はないけれど……。


三蔵は悟空の話を聞きながら、次の日悟空の様子がおかしかった訳を知った。
その夢の女は、間違いなく、あの人魚だったのだろう。
あの人魚と悟空には多くの共通点があった。
自然から産まれた生命である事、何百年も独りで閉じ込められ続けていた事、そして異端の存在として扱われてきた事……。
それらが、夢を通じて共鳴を起こしたのかもしれない。
人魚の持つ負の感情が悟空に流れ込み、悟空の不安を煽った。
もしかしたら、悟空の感情もまた、人魚に流れ込んでいたのかもしれない。
憎い人間である筈の三蔵に危害を加えようとしなかったのは、あるいはその為かもしれなかった。
悟空が思い出したのは、宝石の中に閉じ込められていた悟空自身の記憶と同時に、人魚のものである宝石も一緒に取り込んでしまった為だろう。
だが真実がどうであるにしろ、再び産まれるときが来るまで、人魚は湖の内で眠り続けるのだ。

「悟空、そろそろ戻るぞ」
三蔵はそう言って、座り込んでいる悟空の前に左手を出す。
悟空は一瞬驚いた風に目を瞬かせたが、すぐに満面の笑みを浮かべてその手を取った。

そう、もうヒトリでいた頃の自分じゃない。
手を差し伸べてくれる人がいる。手を伸ばせば、その手を取ってくれる人がいる。
決して繋いだ手を離さない。二度と、迷わない。
フタリでいられる事。それが、何よりも大切な事だと知ったから。









END





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