禁煙令






三蔵が下流の方の木の根元に座り込んだ頃。

悟浄は逆に上流の方に向かって歩いていた。
「……そろそろいいか」
呟いて、近くの大岩に腰を下ろす。
さすがに悟浄もニコチン不足によって精神不安定状態に陥りかけていた。
悟浄ほどのヘビースモーカーにとって、一日禁煙しろなんて言うのは、はっきり言って拷問である。
午前中吸えなかっただけでも、イライラしてたまらなかった。
ここに来る間にも、木の枝が腕に触れただけでその木の枝をへし折ったりしていた。

八戒の言い分は、正しい。
確かに煙草が身体に悪いのは事実だし、八戒や悟空にも煙を吸わせて悪いとは思っている。
このまま吸い続ければいつかは健康を害する事も、分かってはいるのだ。
だが、分かっているからといってすぐに止められるものではない。
その常習性こそが、煙草の一番厄介な害の一つだろう。

こればっかりは、煙草を吸う人間にしか分からない。
八戒に理解しろ、という方が無茶なのかもしれない。
それでも、普段なら感じる事などないに等しい、八戒への苛立ちは増していく。



悟浄はこっそり隠しておいた煙草の1本を取り出す。
取り上げられる前に2本ほど抜き取っておいたのだ。
一日2本というのも我慢しきれるものではないのだが、ないよりはマシだ。

石が切れた時のために予備で買っておいたライターを取り出す。
煙草に火をつけようとして、一度その動きが止まる。
もしも、吸ってる所を八戒に見られでもしたら、どんな目に遭わされるか分かったものではない。

「……大丈夫だろ」
三蔵と悟浄が別行動を取っている以上、八戒ならどちらかを悟空に見張らせるだろう。
その場合、悟空が悟浄の方に来る可能性が高い。
悟空なら見られても、後で肉まん10個ほどおごってやるとか言えば懐柔できるだろう。



そう結論を出し、火を点けようとした時。
「……何してるんですか、悟浄?」
唐突に掛かった声に、思わず身体がビクリと跳ね上がる。
恐る恐る振り返ってみると、そこにはいつの間に来ていたのか、いつになく難しい顔の八戒が立っていた。
この八戒の表情には、悟浄も少々驚いた。
いつもの如く、恐ろしいまでの圧力を掛けてくるあの最凶スマイルを予想していたのだが、
今の八戒は、本気で怒っているような、何処か痛そうな、そんな顔をしている。

「……悟浄、『一日禁煙する』っていう僕の提案に乗ってくれましたよね?」
「あ、ああ……」
「それじゃあ、その手に持っている物は何なんですか?」
「あ、いや、これは……その……」
上手く言い訳が出てこない。
言い訳しようもない状況なのだが、それ以上に八戒の目が言い訳を許さない。

悟浄が口篭もっている間に、八戒は悟浄の手から煙草を取る。
「悟浄。僕は、あなたは約束事は守る人だと思っていたんですが……」
八戒が本気で怒っている事が、その口調から分かる。
悟浄としても、まさか八戒がここまで本気だとは思っていなかった。
禁煙を宣告した時のあの笑顔からでは、いくら悟浄でもそこまでは読み取れない。

「何もずっと禁煙しろだなんて言ってないんです。たった一日です。
 それでも、約束を守ってくれないんですか?」
たった一日、という言葉が悟浄のカンに触った。
八戒からすればたった一日だろう。しかし、悟浄にしてみればたった、なんて言える時間ではない。

元々ニコチン不足で苛立ちやすくなっている所に、約束を破ったという罪悪感が身勝手な怒りに変換され、いつもなら聞き流せる言葉が頭の中に留まり────爆発した。



「たった一日、かよ。 は! そりゃあお前にしてみりゃ『たった』一日だろうぜ!
 けどな、俺にとっちゃ煙草吸えない一日ってーのは、とんでもねえ長さなんだよ!
 禁煙なんてのが、ヘビースモーカーにとってどんだけつれえもんだと思ってんだ!
 煙草吸わないお前にはどれほどのモンか、分からねえんだよ!!



それだけを一気に言い切って、悟浄はハッと我に返った。
八戒はといえば、今までにほとんど目にした事のない悟浄の剣幕に目を見開いている。
無理もないだろう。八戒に対して怒鳴ったのなんか初めてだったのだ。

「……八戒……」
その場に固まってしまっている八戒に、悟浄は小さく声を掛ける。
思わず怒鳴ってしまったが、八戒の言う事が間違っていない事は悟浄にも分かっている。
今のが、自分の勝手な八つ当たりである事も。

「は、八戒、その……」
悪かった、と言おうとしたその時。
「……すみませんでした」
ボソリと、小さな声が八戒の口から滑り出した。
少し俯いてしまっているので、その表情は見えない。


「……僕の考えを押しつけてしまいました。すみません。
 僕は、悟浄や三蔵の身体が煙草に侵されていっているのが心配で……。
 でも確かに、煙草を吸わない僕には、悟浄のつらさは分からないんですよね……。
 なのにあんな無神経な事を言ってしまって、すみませんでした」



八戒に謝られ、悟浄は何も言えなくなってしまった。
明らかに、悪いのは約束を破り、更には苛立ちを八戒にぶつけてしまった自分なのに。
こんな風に謝られたら、どう答えればいいのか悟浄には分からない。


「……悟浄。お願いですから、あと半日だけ、我慢してはくれませんか?
 一日我慢できれば、これからもちょっとずつ減らせるかもしれませんし……」
八戒が真剣に自分の事を心配してくれている。
その八戒に自分は何て事を言ったのだろうと、今更ながら悟浄の心中に罪悪感が湧き出してくる。

「……ああ。今日一日は、ぜってえ吸わねえ。今度こそ約束する。
 八戒、その……悪かった、約束破った上にあんな怒鳴り方しちまって……」
本心から、悟浄は自分のした事を後悔し、反省していた。
「いいんですよ。悟浄の言い分も分かりますから。僕も悪かったですし……」
「んな事ねえよ。お前の言ってる事が正しいって事くれえ、俺も分かってっから」
「ありがとうございます、悟浄」
ようやく八戒が見せた笑顔に、心底安心する自分がいた。



悟浄は懐を探ると、隠していたもう1本の煙草を取り出して八戒に渡す。
「預けとくわ、これ。持ってると吸いたくなるしよ」
「はい。じゃあ責任持って預かっておきますね。明日には返しますから」
八戒はそれを受け取り、大事にポケットにしまった。




「そうだ、八戒。一つ聞きてえ事があんだけど」
「何です?」
「俺のトコにお前が来たってー事は、三蔵の方には悟空が行ったって事だよな?」
「はい。行ってもらいましたが」
「アイツんトコにサル送っても無駄じゃねえの?」
「大丈夫ですよ、手は打ってありますから」
「あ、やっぱり」
そう言って、お互いに笑う。

そういえば、旅に出てからこんな風に2人でゆっくり話す機会なんてあまりなかったかもしれない。
確かに怖い時も多々あるのだが、いつでも八戒は自分達の事を考えてくれているのだ。
それが当たり前になりすぎて、時々忘れてしまうのだけど。



そのままたわいもない事を話しながら、その辺をぶらつく。
煙草が吸えなくてイライラするはずなのに、何故か気分が良かった。
三蔵と悟空が2人きりでいる事を考えると、少々ムカツいたりもするのだが
八戒ならその辺も考えて、何かしら妨害の手段を講じているだろう。
久し振りに一番の友人と2人で過ごす時間が、思いの外楽しかった。



「さ、悟浄。そろそろ休憩時間も終わりですし、戻りましょうか」
「そうだな。ジープもいい加減待ちくたびれてんじゃねえか?」
「はは、そうですね。一緒に連れてきてあげれば良かったです」
穏やかな陽射しの中、悟浄と八戒はジープの待っている場所へと足を向けた。




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2001年6月16日 UP




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