1本取り出し、これまた隠し持っていたマッチで火を点けようとした時。
「あ〜! 三蔵、煙草!!」
突然聞こえた声に驚き、思わずマッチを落としかけた。
その拍子に、マッチの先の火が指先を掠める。
「……つっ……」
すぐに消したものの、少々赤くなってしまっている。
「ちっ……!」
苛立ちながら声の方向を見やると、悟空がこちらに駆けてきている。
よくあんな遠い所から見えたものだと思わず感心しそうになる。
おそらく八戒の差し金だろう。
だが、ここで悟空が来たのは三蔵にとっても少々意外だった。
てっきり三蔵の方に八戒が来るのではないかと思っていたのだ。
まあ、悟空の方がごまかしようもあるし助かるのだが。
すぐ傍まで来て、悟空は三蔵の傍らに膝をつく。
「三蔵、煙草吸っちゃダメじゃん。今日は禁煙するんだろ?」
「ふん」
とりあえず、一旦は煙草をしまう。
「……あれ? 三蔵、どうしたの、その手」
悟空が三蔵の手を掴む。
「何でもねえよ」
「だって、赤くなってるじゃん。……これ、火傷? ……あ! ひょっとしてさっき俺が驚かしたから……!?」
悟空の表情が、途端につらそうになる。
普段は鈍いくせに、どうしてこういう余計な事には敏感なのだろうか。
「……別に大した事ねえ」
「ダメだよ、ちゃんと冷やさなきゃ!」
そう言って、悟空は三蔵の手を持ったまま川の方に引っ張る。
こういう時の悟空がとことん頑固なのは知っているので、引かれるままに立ち上がって川の方へ歩く。
手を川の水で冷やしながら、ふと悟空の方を見ると、泣きそうな顔になっていた。
「なんてツラしてんだ、バカ猿」
「だって俺のせいで……。ごめんな、三蔵……」
「……この程度の火傷で大袈裟なんだよ。それに、別にお前のせいなんかじゃねえよ」
「でも……」
「俺が違うって言ってんだから違うんだよ。分かったか、猿」
「……うん。ありがと、三蔵!」
「ふん、礼を言われる覚えなんざねえよ」
突然に向けられた笑顔を見ていられなくて、顔を逸らしつつ川から手を上げて立つ。
最初に座っていた木の幹に再び凭れる。
すると、悟空も三蔵の隣にちょこんと腰を下ろした。
「お前、八戒に言われてきたのか」
「え? あ、それもある……けど」
「けど?」
「俺、元々三蔵と一緒にいたいって思ってたから、言われなくても結局同じなんだけどさ」
照れたように笑う悟空に、不覚にも身体の温度が上がるのを感じた。
時々、分かってて言ってるんじゃないかと思ってしまうほど、悟空は素直に言葉をぶつける。
照れているのを悟られるのがイヤで、三蔵はさっきしまった煙草を取り出す。
「あ! ダメだって、三蔵!」
「1本くらい大目に見ろ」
そっと悟空の耳元で囁くように言う。
我ながら少々卑怯なやり口だとも思うが、これが一番効果があるだろう。
案の定、悟空は耳まで真っ赤になって俯いてしまっている。
マッチを取り出し、火を点けようとした。
しかし、その手を悟空がいつのまにかガッチリと押さえてしまった。
「おい……」
まさかそう来るとは思っていなかったので、意外そうな声が三蔵から漏れる。
「ダメだよ、吸っちゃ」
そう言って見上げてくる悟空の瞳は、ひどく真剣だ。
「どうした、悟空」
何もここまで真剣になる事でもないと三蔵は思うのだが。
「八戒が言ってたんだ。煙草って本当に身体に悪くて、寿命縮めちゃうんだって……。
特に、妖怪の悟浄ならともかく人間の三蔵だったらなおさらだって。
ずっと吸い続けてたら、『がん』っていう恐ろしい病気になって死んじゃうかもしれないって……。
俺、そんなの絶対ヤだよっ……!」
瞳に涙を浮かべつつ必死に訴える悟空を見て、三蔵も言葉に詰まる。
やられた、と思った。
八戒が三蔵の所に悟空を来させたのはコレを狙っての事か。
悟空が瞳を潤ませて、三蔵を切なそうな表情で見上げている。
悟空にこういう状態で『お願い』をされた場合、三蔵に断れた例ははっきり言って、ない。
「………………分かった。今日一日だけは我慢してやる」
「ホント? ホントに吸わない?」
まだ悟空は心配げな瞳で見つめている。
「俺がお前に嘘吐いた事があったか?」
「ううん! ……へへ、良かった」
悟空はぶんぶんと首を横に振った後、心底安心したように笑みを浮かべて三蔵の手を離す。
三蔵が手に持っていた煙草をしまうと、ますますその笑顔が嬉しそうになった。
ニコチン不足による苛立ちは後から後から涌き出てくるものの、悟空の笑顔がそれを中和する。
継続的な禁煙はさすがに無理だろうが、悟空がそばにいれば一日くらいは我慢できそうな気がした。
結局の所、三蔵の感情の大部分を左右するのはいつでも悟空の存在なのだ。
「……なあ、三蔵。禁煙は今日一日だけどさ、これからもちょっとずつ本数減らしていこうよ」
悟空がおずおずといった感じで三蔵に提案する。
「いきなりは無理でもさ。少しずつなら減らせるかもしれないだろ?」
余程三蔵の身体が心配なのだろう。声音がいつになく真剣だった。
悟空とて、決して三蔵に従順なわけではない。
相手が三蔵でも、自分の意志ははっきりと表示するし、異を唱える事だって出来る。
ただ、三蔵の言う事ややる事が悟空の価値観と大きく外れる事は余りないため、表面上はいつも三蔵の言う事に従っているように見えるのだ。
悟空を育てたのは三蔵なのだから、それはある意味当然の事とも言えるのだが。
今、三蔵を見つめている悟空の目は真摯で、意志の強さも読み取れる。
それだけ、悟空の心が三蔵という存在に割かれている証拠だろう。
三蔵も、今まで悟空の真剣な願いを無視した事はない。
相手が真剣ならそれ相応の態度を返すのが礼儀だとは心得ている。
「……三蔵?」
黙ったままの三蔵を悟空が見つめる。
「……そうだな。少しくらいなら、減らしてみてもいいだろう」
それを聞いた瞬間、悟空が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「約束だかんな、三蔵!」
「ああ。その代わり……」
「……その代わり?」
「俺を、煙草が吸いたくなるほどイラつかせるんじゃねえぞ」
「うん! 分かった!」
悟空が元気良く返事をする。
現金なヤツだと思いながら、三蔵は微かに苦笑した。
そよそよと気持ちのいい風が流れ、暖かな陽光が川の水面に反射して輝いている。
しばらくそのまま穏やかな時間を過ごしていた。
ふと肩に何かの感触を感じて視線を横にやると、悟空が三蔵の肩にもたれかかって眠っていた。
「……見張りに来て寝てどうすんだ、コイツは」
八戒や悟浄が見たら天変地異の前触れだとか言いそうな穏やかな笑みを浮かべて、三蔵は悟空を起こさないように注意を払いつつ、法衣を脱ぐ。
そして、その法衣を自らの肩で眠る悟空の上に片手で掛けてやった。
その穏やかな寝顔に、苛立ちをも溶かしてしまう暖かさを感じながら。
気持ち良さそうに眠る悟空。
このままそっとしておいてやりたいのはヤマヤマだが、そろそろ休憩時間が終わる頃だ。
出発が遅れれば、今日はもちろん無理だろうが明日にも街に着けなくなるかもしれない。
「……おい、悟空。起きろ」
悟空の頭を肩から下ろし、腕に抱きかかえるようにして悟空を起こす。
「……う〜ん、さんぞ……?」
明らかに寝惚けた目で三蔵を見上げる。
その瞳が、寝起きのせいか妙に潤んで見えて、三蔵の心臓が跳ね上がる。
油断していたせいもあって、かなり直撃をくらった感じである。
「……っ……いつまで寝惚けてんだ! さっさと起きろ、バカ猿!」
さすがにそのままの体勢でいるとマズイと思い、三蔵は悟空を地面に座らせて立ち上がり、掛けたままだった法衣を取ってその身に着込んだ。
悟空はというとまだ眠いらしく、目をコシコシと擦っている。
「……なに〜、もうメシ〜……?」
「いい加減、目ぇ覚ませ!」
スパアアアン!とハリセンが悟空の頭に振り下ろされる。
「いってえええ! いきなり何すんだよお!」
悟空が膨れて抗議の意を示す。
「うるせえ! ジープに戻るぞ!」
そう言いながら、三蔵はさっさと元の場所へと足を進める。
「いっつも殴るんだもんなー……」
「何か言ったか?」
三蔵の声に、悟空はぶんぶんと首を振る。
スタスタと歩いていた三蔵であるが、立ち止まって振り返ると、ポイっと悟空の方へ何かを投げる。
悟空が慌てて受け取り、手の中のものを見てみると、それは……三蔵のマルボロだった。
「三蔵……?」
「……おまえが持ってろ」
約束は守るという証。悟空の知らない所で吸わないという意思表示。
「うん!」
そう元気良く答えると、悟空は三蔵の腕にしがみついた。
三蔵もそれを振り払うでもなく、悟空の好きなようにさせている。
こうして悟空に触れている間は、煙草は必要ない。
気分の落ち着いている時には、三蔵にとっては煙草を吸う理由はなくなるのだから。
ジープの元に戻る、僅かな時間くらいこのままでもいいだろう。
そう思い、三蔵は腕に悟空をくっつけたまま来た道を戻っていった。