あれから一週間が過ぎた。
日々の生活は、表向きは平穏に営まれていた。
だが、悟空は三蔵という人間を知ろうとするものの、情報が少な過ぎてどうにも掴めない。
あの初めての買い出しの日、帰る頃までは何だかんだ言いながらも優しかったと思う。
行く途中で転んだ時は心配してくれて、手を差し伸べてくれた。
町でも悟空が目に留めたものを買ってくれたりしたし、肩に回された手は少し暖かかった。
けれど、帰る時になって急に態度が変わったのがどうしてなのか分からない。
それまでは無愛想でつっけんどんな態度でも瞳は何処か優しい色があったのに、その時は怖いくらい冷たかった。
自分が何かしたのだろうかと考えてみたが、特に何をした覚えもない。
ちょっと寄り道はしたけど、店先に寄って足を止めるくらいそれまでもしていたのに。
謝ろうかと思ったけど、原因が分かってないのに謝るのも何か違う気がして、結局そのままうやむやになってしまった。
さすがに三蔵ももう怒っている風ではないが、それでも近寄りがたい雰囲気は消えないでいた。
悟空は自分で淹れたお茶を飲みながら、ふっと窓から家の外を見た。
三蔵は今日も仕事で朝から出掛けている。
買い出しは昨日に行ったから、今日は特に外に出る用事はない。
それなら家の中を掃除しようと思い、悟空は立ち上がった。
何しろ、今の自分は三蔵の『妻』なのだから。
妻としての仕事をきちんとこなせるようにならないと、いつまで経っても羽衣を返してもらえない。
……天界に、帰れない。
悟空は窓を開け、身を乗り出して空を見上げた。
悟空の大好きな人達は、今頃何をしているのだろう。
誰より大切な太陽は、どうしているのだろう。
つい涙が滲みそうになって、悟空は首を振って手の甲で瞼を擦った。
今自分のすべき事は、自分に課せられた務めを果たす事なのだから。
「まだ見付からねえのか、天蓬っ!」
桜の咲き乱れる外の風景には全くそぐわない、苛ついた声が部屋中に響いた。
その声の主は金色の長い髪を揺らしながら、部屋の中央にある大きな液晶モニターが嵌め込まれたテーブルの前に歩み寄った。
その瞳に、焦燥と苛立ちと不安を混ぜ込みながら。
人間界の地図が映し出されたモニターのサイド部分には操作用のパネルがあって、その前に白衣の男と軍服を着た男がモニターを見下ろしながら立っていた。
先ほど天蓬と呼ばれた白衣の男は振り返ると、その疲れを滲ませた目を金髪の男──金蝉に向けた。
「捜索は現在進行中です。ですが、未だ反応はありません」
天蓬は再びモニターに目を戻すと、手元のパネルを慣れた手つきで操作する。
ピピピピ……という電子音がするものの、モニターには何の変化も見られない。
「ちっ、何で反応がねえんだ!」
モニターを覗き込むようにテーブルの端に手を付き、金蝉は苛立ちを露にする。
そしてそんな彼らしからぬ様子に、傍にいた軍服の男──捲簾は彼の背中を軽く叩いた。
「ちっとは落ち着けよ。焦りゃ焦るほど、物事ってのは上手くいかなくなるもんだぜ」
「これが落ち着いていられるか!」
「大体、まだ完全に地上にいると決まったわけじゃねえだろ? アイツを見付けたいなら冷静になれよ」
金蝉は言葉に詰まり、手を強く握りしめると、意識して深く息を吐いた。
捲簾の言う通り、こんなに取り乱した状態で捜し出せるはずがない。
とにかく、今は考え得る可能性を全て捜すしかない。
悟空がいなくなった事に気付いたのは、日が暮れてからだった。
朝から何処かに遊びに行っていたが、いつも日が暮れる前には帰ってきていた。
しかしその日は、すっかり日が落ちてしまっても悟空は戻ってこなかった。
一番先に思い付いたのは、天蓬や捲簾のところにでも遊びに行っているのかもしれないという事。
そう思ってわざわざ彼らの私室を訪ねてみたものの、そこには悟空の姿はなかった。
それから、天蓬や捲簾と共に思い当たるところは全部捜した。
悟空と仲の良いナタクや、お気に入りの花畑、果ては観世音菩薩のところまで。
それにも関わらず、悟空は見付からなかった。
天界で悟空が行動する場所というのは限られている。
それらの場所の何処にも悟空はいない。
その時に残された可能性として金蝉が考えたのが……地上だった。
悟空がたまにこっそりと地上に遊びに下りている事を、金蝉は知っていた。
当の悟空は、金蝉には気付かれていないと思っていたようであるが。
悟空が内緒にしていたのは、金蝉が地上行きに難色を示しているからだという事も知っている。
実際、金蝉は余り悟空が地上に行く事には賛成ではなかった。
地上は色んな意味で天界よりも目まぐるしい。
世界の移り変わりや時間、命さえも。
地上に愛着を持てば持つほど、遅かれ早かれ残酷な現実を見なければならなくなる。
それでも、悟空が地上に出かけて戻ってきた後はとても楽しそうにしていたから、金蝉も賛成はしないものの禁止もしなかった。
いずれ痛みを感じる事になっても、それはきっと避けて通れない事なのだろう、と。
だが今は、やはり地上へ行く事を禁止しておくべきだったのかもしれないとも思う。
今まで悟空はどんなに遊びに夢中になっても、夕刻には必ず金蝉のところへ帰ってきた。
しかし今回は、今日でもう一週間になるのに未だ悟空は帰ってこない。
これが、悟空自身の意志であるはずはない。
悟空は金蝉の元以外に帰る場所などないし、何より悟空は此処が好きであるはずだった。
となると、考えられる可能性は一つ。
……帰りたくても、帰れないのだ。
それがどんな状況になっているのかは分からない。
分からないが、悟空の意思に反して帰れないのならば、それは即ち悟空の予期しないトラブルがあったという事だ。
そこまで考えて、金蝉はその日の内に天蓬に要請して地上での悟空の所在を探索してもらった。
これで、すぐに見付かるはずだと思っていたのだ。
天界の者は自身が強い神通力をもっているために、それを専用の探索機で探れば通常はすぐに位置を特定できる。
しかし、探索機で検知されるのは、いずれも悟空とは違う者達ばかり。
たまたま地上に下りていた他の天女などは引っ掛かるが、肝心の悟空の反応がまるでないのだ。
そして手掛かりすら掴めないまま、一週間が過ぎたのである。
「……おかしいですね。地上にいるなら何かしら反応は出るものなんですが……」
天蓬は殆ど休まずに探索を続けているため、その声もいつもよりさすがに弱い。
もちろん天蓬が地上の探索をしている間、金蝉と捲簾は再び天界内を捜し回っていた。
それでもなお糸口すら掴めない状態に、三人の間にも重い空気が流れている。
反応がないという事から考えられる、最悪の事態。
金蝉は一瞬その考えが頭を過ったが、意図的にその可能性を打ち消した。
「……大丈夫です。そんな事にはなってませんよ、きっと」
金蝉の思考を読んだかのように、天蓬はゆっくりとそう口にした。
「もし……最悪の事態になっていた場合、少なくとも悟空が持って出た羽衣の反応は出るはずです」
地上に下りるための羽衣は、それ自体が神通力の塊のようなものである。
地上で悟空に万が一の事があったのなら、残された羽衣の反応がないのはおかしい。
「でもよ、天界中、思い当たる場所全部捜し回ってもいねえんだぜ? もう地上しか考えられねえじゃねえか」
捲簾は、普段の彼からは考えられないほど厳しい表情をモニターに向けた。
「……考えられるのは」
そう呟いた天蓬に、金蝉と捲簾の目が向けられる。
「考えられるのは、誰か、第三者が故意に隠匿している……という可能性ですね」
「隠匿……だと?」
「そうです。地上にいる何者かが、悟空を羽衣ごと隠しているのかもしれません」
悟空が地上にいるとするならば、一番高い可能性はこれだろう。
一体誰が、何の目的で悟空を地上に繋ぎとめているのかは分からない。だが。
「……ふざけた真似しやがって……」
手をきつく握りしめ、金蝉はモニターを睨みつけた。
悟空自身が望んでそんな事態になっているという可能性はゼロに近い。
だとするならば、その誰かは悟空を無理矢理地上に縛り付けているという事になる。
何処の誰かも分からないその相手への激しい怒りが、金蝉の中で膨らんでいく。
急に踵を返して部屋を出ていこうとした金蝉の肩を、捲簾の手が強く掴んで引き止めた。
「おいおい、何処行くんだよ」
「決まってるだろう、地上だ」
「って、何の手掛かりもなしにかよ!? 無謀もいいとこじゃねえか」
「だが、このままここにいても何にもならないだろうが!」
怒りと苛立ちに満ちた瞳が、捲簾を射る。
初めて見るその迫力に捲簾は一瞬気圧されるものの、肩を掴んだその手は離さなかった。
「……だからって、今お前が地上に下りて悟空を見付けられるのか?」
その言葉に、金蝉が僅かな反応を見せた。それを見て、捲簾は言葉を続ける。
「地上がどれだけ広くて、どれだけの人間がひしめいてるか……知らねえわけじゃねえだろ?
どちらもこの閉塞した天界の比じゃねえ。闇雲に捜したって、見付かるわけがねえ」
捲簾は感情の乱れている金蝉を落ち着かせるように、ゆっくりと話す。
そうしている内に、やがて金蝉の瞳にも落ち着きが戻ってきた。
金蝉はふっと力を抜くと、再びモニターの前に戻る。
「……そうだな。だが、それならどうすればいい? ここで見てても仕方ねえじゃねえか」
今、この時も悟空は金蝉達に助けを求めているかもしれないのに。
酷い目に遭っているかもしれない。泣いているのかもしれない。
なのに、金蝉にはその悟空の姿すら見付ける事が出来ない。
こんなに悔しい事があるだろうか。これほど、自分の無力さを恨めしく思った事はなかった。
「……どれだけ上手く隠していても、ずっと隠し続けられるものではありません」
黙ってパネルを操作していた天蓬が、一度手を離して金蝉を振り返った。
「おそらくは結界のようなものが張ってあるのでしょう。でも、どんな使い手であっても……人間です。
完璧な結界をずっと維持し続ける事なんて不可能……必ず、綻びは生まれます」
「それを待つというのか?」
「はい。どんな小さな、すぐに修復可能な綻びであっても、絶対に見逃しません。約束します」
強い意志を感じる声で断言されれば、金蝉もそれを信じないわけにはいかない。
「……分かった。俺達も手伝う。それに専念しよう」
例え時間がかかろうとも、きっとそれが悟空に繋がる最短距離だろう。
「……待ってろ。必ず見付けてやるからな、悟空……」
モニターに映った地上の地図を見つめながら、金蝉は小さく呟いた。